散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

強靱なヨーロッパ精神の発露~映画「ハンナ・アーレント」を観て

2013年12月11日 | 政治
人気が高く、混んでいるとのことで、午後7時の上映に対して早めにチケットだけ入手しだ。岩波ホールのチケット売場の方から「6時頃から行列ができます」と云われ、それまで喫茶店で関係資料を改めて読んで、6時過ぎに席を立った。

行って見ればホールがある10階から階段に沿って下へ行列ができているとのことだった。取りあえず、並んだのが7-8階の踊り場で恐らく1階まで続いた辺りで開場した様だ。ともかく、殆どが筆者と前後した年齢の様に見えた。

学問的区別は良く判らない、というよりも、カテゴリには収まらない知識人として知られる主人公であり、著作からイメージする以外にはない人物を、映画はどのように表現するのか、関心があった。

資料浸け、論考執筆の学者的雰囲気はなく、日常生活が描写される。ハインリッヒ・ブリュッヒャーとの家庭生活は睦まじく、メアリー・マッカーシーとの友情は率直で、ユーモア溢れる会話で表現され、友人達とのパーティーは、互いの政治的立場の違いからくる危うさを、バランス感覚の良い会話で乗り越え、友情は崩さない。

これが仕事の関係になると更に厳しく、論考の内容のみならず、スケジュールについても自己の都合を、見事な理由で簡潔に主張する。そんな中でも、即座に態度を明確にし、自らの意思を力強く述べ、芯の強さを他人に伝える。

これでアーレントの人間像が明らかに伝わり、そこから主題である「思考」に関してどの様な映像で語るのか、観客を引き込む仕掛けだ。一方で、アーレントはドワイト・マクドナルドが指摘したように「女性のみに許される繊細、鋭敏な感受性」よって、裁判中のアイヒマンの態度からどこにでもいる凡人を感じとる。

その人間像に対して、メアリー・マッカーシーが評した「恐るべき知力と、素晴らしい常識の見事な結合」を駆使して“悪の陳腐さ”へと思考を発展させる。アイヒマンは思考を放棄したのだ。

映画の最後、アーレントが公的な場での反論を行うと云った勤務する大学の教室において、「思考がもたらすのは知識ではない。善悪を区別し、美醜を見分ける力、…私が望むのは、考えることで人間は強くなること」と喝破する!

此処まで到達したとは云え、アーレントの人間関係の或る部分は破綻した。ドイツシオニストの代表的存在であり、家族の中で交際していたクルト・ブルーメンフェルトには背を向けられ、同級生として友人であったハンス・ヨナスには、傲慢な人間と激しく指摘された。

映画で描かれたクルト、ハンスは共にアーレントに魅せられ、親密な友人関係の様に思われた。しかし、その結びつきは確かにユダヤ人イデオロギーであったのだ。アーレントが「ユダヤ人を愛したことはない、友人を愛するのが唯一の愛情!」と言うとき、既に友情の破局を素早く悟ったかのようだ。

その判断の早さ、ためらいの無さ、これが強靱な精神を表現しているのだろう。しかし、この精神は不寛容性を秘めており、容易に妥協しないヨーロッパの政治的イデオロギーのしぶとさを却って思い知らされる。それとも、根源的な悪の時代を生き抜いた人々のみが見せる精神の営為なのだろうか。

       

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