散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

共感としての“compassion”~『存在の軽さ』における重さ

2016年02月20日 | 永井陽之助
ミラン・クンデラの『存在の考えられない軽さ』は、
第Ⅰ部「重さと軽さ」から話が始まる。その話の始まりは「永劫回帰…」からニーチェの登場だ。最終の第Ⅶ部「カレーノン(愛犬)の微笑」では、テレザ(トマーシュの恋人)のじゃれている雌牛への感動と“compassion”からデカルトの登場だ。

その“compassion”を言語学者訳者である・千野栄一は“同情”と訳す。
一方、第Ⅰ部において、クンデラは特に第9章(章)を割き、語源に戻って“compassion”を説明する。それに続いて、
更にトマーシュのテレザに対する感情を「同情と呼ばれる悪魔の贈り物…がトマーシュの運命(あるいは、呪い)となったので…彼女の気持ちがよく分かり、怒ることができなかったばかりか、彼女のことがいっそう好きになったのである。」と表現して、その章を結んでいる(強調は筆者)。

先の記事で、クンデラの中に「compassion」を見出した永井陽之助の言葉を引用した。「…ラテン語の語源を引き、他者の痛み、苦しみをわかちあうことこそ、「愛」よりも高次元の普遍的な人間の情念ではないのかと言っています。上下の力関係を前提とした「同情」とは根本的に違う次元の概念です。」
 『“compassion”は“愛”を上回るか~永井陽之助の問題提起160211』

更に、日米間の外交上の問題として、コンパッションギャップを説明する。従軍慰安婦問題の一部の側面は、この辺りにもあるそうだ。
「どういうときに人々が感動し、「アンフェア」と激怒し、悲しみに泣くのか、という情念の波に大きなギャップがあるということです。日本人がそういう事柄にかなり無神経である…」。

クンデラに戻ると、
「ラテン語から派生するすべての言語では「同情」という言葉は接頭辞のcom-(同-)を意味すると、もともと「受難」を意味するpassionという語から形成されている」「他の言語、チェコ語…ではこの語は同じ意味を持つ接頭辞と、「感情」を意味する語との結合によって訳される」。

「ラテン語から言語ではcompassionの意味は他人の苦難を冷たい心では見ていられない、苦しんでいる人たちの気持ちに加わる、ということを意味する…愛とあまり共通のものを持たない、悪い二流の感情を示しているように思われる。同情から誰かを愛するというのはその人を本心から愛していないことを意味する。」

「compassionが感情という名詞から形成される言語では、その語の語源の秘密の力はその語に違った光をあて、より広い意味を与える。同情するということは他の人と不幸を共に生きるのみか、その人と喜び、恐怖、降伏、痛みなど他のどんな感情をも共に感じられるという意味である」(強調は筆者)。
「このcompassionはすなわち感情の持つイマジネーションの最大の能力を示し、感情の持つテレパシーの芸術の意味で、感情の階層での最高の感情である。」

長々とした引用したのであるが、その理由はクンデラの思想とそれに伴う文学表現の見事さと共に、それに対して永井政治学がスパークしたかの様に、筆者には感じられたからである。

永井の引用は、江藤淳との対談「「歴史の終わり」に見えるもの」(1990/1文藝春秋)の中でのことだ。ここでは、compassionを巡って、皮肉にも文学者・永井と政治学者・江藤が対峙したかの内容が展開され、永井政治学と江藤文学の性格が表れているようで面白い場面になっている。

文学に対する永井の傾倒は、坂口安吾「堕落論」を、戦後を代表する作品として推したこと、あるいはポール・ヴァレリーをしばしば引用し、そのアフォリズムを「鋭い洞察と観察を一種の表現まで象徴化して、現在の科学ではテストしえなくとも極めて正確な認識であるかもしれない」との発言をシンポジウム「哲学の再建」(中央公論1966/10)においても残していることからも窺われる。

永井政治学において「性愛と政治は極めてアナロジカルな関係にたつ」(現代政治学入門)。恋愛葛藤における男女間の愛憎のダイナミズムからの類推が政治状況の理解にも役に立つ。政治においては、善と悪とが一つであることと同様で、愛と憎しみも裏腹の関係を持つ。
 『善と悪とは一つである~徳田虎雄氏、徳州会・不正選挙の渦中に131114』

クンデラが価値をおく“compassion”の意味を同情ではなく、共感と解釈し、この共感を育むことで、政治の世界における憎しみを極小化できないか、永井の頭に閃くものがあったのでは!筆者は勝手に想像するのだ。