散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

「善」と「悪」とはひとつである~徳田虎雄氏、徳洲会・不正選挙の渦中に

2013年11月14日 | 政治理論
「徳洲会・不正選挙の実態」(クローズアップ現代11/14)の登場した徳田虎雄氏。普天間基地移設問題に絡み、徳之島が移設先候補の一つになったときに、テレビに登場したことを覚えている。

当時の映像と同じなのか、不正選挙に関連して、最近のものなのか、良く判らないが、一段と印象的であった。氏が次男・徳田毅議員の不正選挙と関係したのか、それは今後の警察の調査に依る。しかし、現時点において、組織ぐるみの違法な選挙運動によって、経営者の一族や病院幹部らが逮捕された日本最大級の民間医療グループ「徳洲会」を統括する人物だ。

 
 写真 徳田虎雄氏(NHK前出)

巨大組織による大がかりな選挙違反、その組織の権力の中枢を突き詰めていくと、筋萎縮性側索硬化症での闘病生活を送りながらも、身動きできない形で椅子に座り、文字盤を使ったコミュニケーションにより自らの意思を伝える老人の姿に行き着いたのだ!私たちに権力の在りかを示し、衝撃を与える姿だ。

放映及びウキによれば、徳田氏は“生命だけは平等だ”という理念のもとに離島や僻地に次々と病院を建設していった。同族経営の巨大医療グループに徳州会を成長させる一方で、その膨張の過程で政治と選挙に傾倒し、医療団体が大規模で組織的な選挙違反を行うようになった。

徳田虎雄とはどんな人物か。これを考えた時、ギリシアの哲学者ヘラクレイトスの“善と悪とは一つである”との言葉を想い起こした。万物は流転するとのヘラクレイトスの思想では、その流転の中で善悪は対立しながらも調和を保つ。

その調和とは、目的と手段とのバランスだ。悪を目的として善を手段とすることはない。問題は善を目的としたときに、その手段を選ばなければ、その中に悪が含まれることになる。

マックス・ウェーバーの「職業としての政治」の中の有名なゲーテ「ファウスト」を引用した一節、「悪魔は年をとっている。」「だから悪魔を理解するには、お前も年をとっていなければならない。」は政治の中で手段として表れる強制力の問題を指摘したものだ。

徳州会は組織ぐるみで強制力を発揮し、組織内の人員を動員した。一昔前の「企業ぐるみ選挙」を彷彿とさせる。何故、それ程までにという誰でも抱く疑問に対して、放映では、他候補を選挙で圧倒し、その権勢を誇示するためだとしている。

「政治とは、共同体の拘束や慣習から解放されて、考え方が違う我の強い個人が集まって、安定した社会をつくるため苦心のすえに造型した、秩序という作品だ。」(「現代政治学入門」P5(有斐閣))。従って、一つの考え方が独占的に支配することは、多くの場合、考えられない。それがバランスなのだ。

それを無理矢理に自己の考えを押し付けていこうとすれば、違法の手段に訴えるという誘惑に勝てないようになる。結局、生命だけは平等だという理念からかけ離れた手段が選択され、それが増殖して、強制力を用いた違反行為になる。

徳田虎雄氏の心の中には今でも「生命だけは平等だ」との理念があることは疑う余地はない。しかし、それ故、手段の選択もコントロールが効かないのだ。異なる意見に寛容になるとき、手段の選択も考慮に入るように思われる。



      

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