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日本の人類学者38.長谷部言人(Kotondo HASEBE)[1882-1969]

2012年10月11日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

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長谷部言人(Kotondo HASEBE)[1882-1969][鈴木 尚(1975)「長谷部言人先生の思い出」『日本考古学選集15.長谷部言人集』集報17より改変して引用](以下、敬称略。)

 長谷部言人は、1882年6月10日、東京市(現・東京都)麹町にて、長谷部仲彦の長男として生まれました。1902年に東京第一高等学校三部を卒業後、東京帝国大学医科大学(現・東京大学医学部)に入学し、 1906年に卒業します。卒業と同時に、京都帝国大学医科大学(現・京都大学医学部)の解剖学助手として、足立文太郎[1865-1945]に師事しました。この人事は、足立文太郎の親友で、長谷部言人の解剖学の師である小金井良精[1859-1944]が絡んでいたと言われています。長谷部言人は、1908年には、足立の元で助教授に昇任しました。

 1913年には、「日本人の脊柱」により、母校より医学博士号を取得しました。同年、新潟医学専門学校解剖学教授として転出します。1916年には、東北帝国大学医学部解剖学助教授として転出しました。その後、1920年には、同大学で解剖学教授に昇任します。また、1921年~1922年にかけて、ドイツへ留学し、ルドルフ・マルティン(Rudolf MARTIN)[1864-1925]に師事しました。さらに、1933年~1935年にかけては、東北帝国大学医学部長も務めています。

 長谷部言人は、戦前、ミクロネシアを調査しています。その調査は、1915年と1927年から1929年に及んでおり、特に、1929年には元東京教育大学の人類学者・八幡一郎[1902-1987]が同行して考古学調査を分担しています。

 長谷部言人が書いた、ミクロネシアに関する論文は、以下の通りです。

  • 長谷部言人(1915)「東カロリン土人に就て」『人類学雑誌』、第30巻第7号、pp.262-275
  • 長谷部言人(1917)「ポナペ島土人の文身に就て」『人類学雑誌』、第32巻第7号、pp.191-196
  • 長谷部言人(1928)「トコベイ島民に就いて」『人類学雑誌』、第43巻第2号、pp.63-70
  • 長谷部言人(1928)「西部ミクロネジア人の文身」『人類学雑誌』、第43巻第3号、pp.120-146
  • 長谷部言人(1928)「サイパン、ティニアン両島の遺物及び遺跡」『人類学雑誌』、第43巻第6号、pp.243-274
  • 長谷部言人(1929)「わが南洋群島に於けるポリネージア人の聚落に就いて」『人類学雑誌』、第44巻第6号、pp.203-215
  • 長谷部言人(1929)「パラウ島人の鼻中隔穿孔に就いて」『人類学雑誌』、第44巻第11号、pp.547-553
  • 長谷部言人(1939)「南洋群島人女子の乳房に就いて」『人類学雑誌』、第54巻第3号、pp.117-123
  • 長谷部言人(1940)「トラック人の耳變工に就いて」『人類学雑誌』、第55巻第10号、pp.439-444
  • 長谷部言人(1941)「南洋群島人の顔輪郭形」『人類学雑誌』、第56巻第1号、pp.1-10
  • 長谷部言人(1941)「Malekula島の似顔頭骨」『人類学雑誌』、第56巻第4号、pp.240-244
  • 長谷部言人(1942)「南洋群島人上瞼の襞に就いて」『人類学雑誌』、第57巻第9号、pp.365-368
  • 長谷部言人(1943)「南洋群島人側面輪郭の基本成形に就いて」『人類学雑誌』、第58巻第1号、pp.54-58

 やがて、長谷部言人に大きな転機が訪れます。東京帝国大学理学部人類学教室の松村 瞭[1880-1936]が、急逝したのです。松村の後任として、長谷部は、1938年に東京帝国大学理学部教授に就任しました。そして、1939年4月に東京帝国大学理学部に人類学科が創設され、初代主任教授に就任します。人類学教室は、1893年に坪井正五郎[1863-1913]が人類学講座を創設して以来、選科生は輩出していますが、この選科は卒業しても学士号が授与されないというものでした。その点、学士号を授与する人類学科の創設は国内初のことで、ここから、人類学を専攻する学生が現在に至るまで多く輩出されました。

 第1回生で、元厚生省人口問題研究所の篠崎信男[1914-1998]によると、長谷部言人は張り切って朝早くから教室に来て、講義の時は階段で学生を待っていたそうです。また、時にはその講義は黄色いお茶(ビール)を飲みながら行われたと言われています。しかし、いくら二日酔いでも朝8時までに登校しないと教室に入れてもらえないという厳しさも持ち合わせていました。

 第3回生で元京都大学霊長類研究所の近藤四郎[1918-2003]によると、卒論のテーマの脛骨を計測して計測値を書くと、「その数値は間違っている。」と長谷部に言われ、「大家になると骨を見ただけで計測値がわかるのか。」と不思議に思っていたそうですが、後に、朝7時に大学に来て同じ骨を測っている長谷部の姿を目撃して納得したというエピソードが知られています。さらに、「本は、教室で読まずに下宿に帰って夜読むべきだ。教室では、立って手で仕事をするところだ。」と学生に教えていたそうです。実際、本人は学生に自らの研究姿勢を学生に見せるかのように、寒い日でも廊下の整理台に骨を並べて、何時間も立ったままで骨の観察や計測をしていたと言われています。

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晩年の長谷部言人(Kotondo HASEBE)[篠崎信男(1970)「長谷部言人先生の思出話」『人類学雑誌』第78巻第2号より改変して引用。]

 長谷部言人は、1943年に、東京帝国大学を定年退官します。東京帝国大学在職は、わずか5年でしたが、理学部人類学科創設という大役を務めました。しかし、在職期間が短かったため名誉教授にはなりませんでした。1944年、長谷部言人は東京帝国大学ではなく東北帝国大学の名誉教授になりました。

 あまり知られていませんが、長谷部言人は、動物考古学にも大きく貢献しています。実際、1946年には、縄文時代の貝塚から出土したイヌの骨格の研究をまとめ、「石器時代の日本犬」により、東京帝国大学理学部より理学博士号も取得しました。長谷部言人が書いた動物考古学に関する論文は、以下の通りです。

  • 長谷部言人(1925)「日本石器時代家犬に就て(追加)」『人類学雑誌』、第40巻第1号、pp.1-10
  • 長谷部言人(1925)「石器時代の野猪に就て」『人類学雑誌』、第40巻第2号、pp.54-60
  • 長谷部言人(1925)「石器時代家犬に就て」『人類学雑誌』、第40巻第3号、pp.103-108
  • 長谷部言人(1925)「下總犢橋貝塚の猿下齶骨」『人類学雑誌』、第40巻第12号、pp.437-442
  • 長谷部言人(1929)「石器時代家犬に就いて(追加第三)」『人類学雑誌』、第44巻第5号、pp.163-174
  • 長谷部言人(1939)「石器時代に飼牛あり」『人類学雑誌』、第54巻第10号、pp.447-450
  • 長谷部言人(1940)「三河保美平城貝塚出土牛の角錐」『人類学雑誌』、第55巻第4号、pp.166-168
  • 長谷部言人(1940)「熱田貝塚からの馬の左掌骨」『人類学雑誌』、第55巻第5号、pp.251-252
  • 長谷部言人(1941)「石器時代遺跡出土日本産狼二種」『人類学雑誌』、第56巻第11号、pp.590-602
  • 長谷部言人(1941)「日本石器時代の猿に就いて」『人類学雑誌』、第57巻第1号、pp.39-47
  • 長谷部言人(1942)「石器時代のアナグマ」『人類学雑誌』、第57巻第2号、pp.67-75
  • 長谷部言人(1942)「日本石器時代狼とシナントロプス遺跡の狼」『人類学雑誌』、第57巻第11号、pp.433-441
  • 長谷部言人(1942)「石器時代のアナグマ追録」『人類学雑誌』、第57巻第12号、pp.503-505
  • 長谷部言人(1943)「田結の馬」『人類学雑誌』、第58巻第2号、pp.86-88
  • 長谷部言人(1943)「石器時代の狸」『人類学雑誌』、第58巻第3号、pp.138-141
  • 長谷部言人(1943)「安陽古墳出土家犬遺残に就いて」『人類学雑誌』、第58巻第9号、pp.367-373
  • 長谷部言人(1943)「周口店諸地點出土アナグマ頭骨に就いて」『人類学雑誌』、第58巻第10号、pp.385-393
  • 長谷部言人(1943)「日本石器時代家犬とシャカール」『人類学雑誌』、第58巻第11号、pp.427-430
  • 長谷部言人(1943)「日本石器時代馬の一新種に就いて」『人類学雑誌』、第58巻第12号、pp.451-452
  • 長谷部言人(1944)「壱岐の弥生式土器遺跡の馬」『人類学雑誌』、第59巻第6号、pp.209-210
  • 長谷部言人(1950)「日本石器時代の大形犬とその起源」『人類学雑誌』、第61巻第2号、pp.55-58
  • 長谷部言人(1956)「野島貝塚出土ネコ頭骨について」『人類学雑誌』、第65巻第3号、pp.128-134

 1947年、長谷部言人を有名にする発表が行われました。『人類学雑誌』に、明石原人の報告を行ったのです。この明石原人は、1931年4月18日に直良信夫[1902-1985]が兵庫県明石市の西八木海岸で発見した左寛骨でした。直良信夫はこの寛骨を、東京帝国大学理学部人類学教室の松村 瞭[1880-1936]に送り鑑定を依頼しましたが、当時は、世界中の化石人類に寛骨があまり発見されていないことから結論を保留して松村 瞭は人骨を返却しています。しかし、松村 瞭は、慎重に写真を撮影し石膏模型を残していました。ところが、松村  瞭は、1936年に急逝してしまいその模型の存在も忘れ去られてしまいます。その後、その人骨は、太平洋戦争中の1945年5月25日に行われた米軍による空襲で、直良信夫の東京の自宅と共に焼失してしまいました。長谷部言人は、松村 瞭が製作していた石膏模型を発見して論文を書いたのです。

  • 長谷部言人(1948)「明石市附近西八木最新世前期堆積層出土人類腰骨(石膏型)の原始性に就いて」『人類学雑誌』、第60巻第1号、pp.32-36

 長谷部言人は、この明石原人の寛骨を研究し、原始性を認めて「Nipponanthropus akashiensis」という通称を与えました。ただ、今ではこの人骨は原人(ホモ・エレクトス)段階ではなく、旧人のものとする説や現代人という説が唱えられています。

 長谷部言人が書いた本は、以下の通りです。

  • 長谷部言人(1927)『自然人類学概論』、岡書院[このブログで紹介済み]
  • 長谷部言人(1927)『先史学研究』、大岡山書店
  • 長谷部言人(1932)『過去の我南洋』、岡書院
  • 長谷部言人(1944)『沖縄結縄考』、養徳社
  • 長谷部言人(1951)『日本人の祖先』、岩波書店(1983年に築地書館より再刊)[このブログで紹介済み]

 長谷部言人は、東京大学を定年退官後も、他大学に転出することなく、毎日のように東京大学理学部人類学教室に通って研究を続けました。1949年には日本学術会議会員(1954年まで)、1951年には日本人類学会会長(1968年まで)、1953年には日本学士院会員となっています。1969年12月3日、長谷部言人は87歳で死去しました。日本で初めて教育機関としての人類学科を創設したことは後世に残る業績でしょう。

*長谷部言人に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 篠崎信男(1970)「長谷部言人先生の思出話」『人類学雑誌』、第78巻第2号、pp.87-89
  • 江坂輝弥編(1975)『日本考古学選集15.長谷部言人』、築地書館
  • 鈴木 尚(1975)「長谷部言人先生の思い出」『日本考古学選集15.集報17』、pp.1-3
  • 長谷部楽爾(1975)「父のこと、家のこと」『日本考古学選集15.集報17』、pp.3-4
  • 近藤四郎(1983)「長谷部言人先生のこと」『日本人の祖先』、築地書館、pp.173-197
  • Yamaguchi, Bin(1997)'Hasebe, Kotondo(1882-1969)',"History of Physical Anthropology, Vol.1: A-L"(Frank Spencer Ed.), Garland Publishing, p.481

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