石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

137 文京区の石碑-17-田口卯吉・上田敏居住地碑(西片2-19-4)

2019-04-21 07:37:03 | 石碑

◇鼎軒 柳村居住跡碑(西片2-〇〇-〇)

番地は判っているが、なかなか目的地に行きつけない。

静かな住宅街で、人影はないし、各家に番地表示は必ずしもないから、特定することが難しい。

近所の人に訊いても、多分、「ああ、あの家の」と応えられる人はいないのではないか。

何しろ目的の碑は、個人宅の庭にあり、碑文が「鼎軒 柳村居住之地碑」、鼎軒と聞いてすぐ分かる人が、そんなに多くいるとは思えない。

そういう私も「鼎軒」を知らない。

このブログは、私の勉強の為にやっているので、知らない人物は教材として歓迎するが、碑に接する「熱意」が低くなるのは仕方ない。

今回は、碑が個人の庭にあり、シャッター越しに見ただけだから尚更である。

「鼎軒 柳村居住之地」の鼎軒と柳村とは、二人の人物、田口卯吉と上田敏の号なのだそうだ。

どうせどこかから二人の人物像を引用するのだから、前回に続き、参考資料『文京の碑』から丸写しにしておきます。

 田口卯吉は、少年時代に下谷生駒の木村龍二宅に寄寓し、その隣に住んでいた幕臣の洋学者乙骨太郎に可愛がられた。乙骨太郎の孫が上田敏である。

 今度は西片町の田口卯吉がその恩で、上田敏を寄寓させた。当時、西片町には学者が多く住んでいて、田口邸は西洋館形式の建物2棟で目立っていたという。

〇田口卯吉(1855-1905)(安政2-明治38) 本名は鉉(げん)、卯吉は通称、鼎軒と号した。

1855(安政2)年に目白台徒士屋敷(日本女子大寄宿舎の地)で旗本徒士の次男として生まれた。

 最初は医学を志したが、1872(明治5)年、10月に大蔵省翻訳局付属学校に進み、経済学を学んだ。一方、彼は東京証券取引所理事、両毛鉄道社長などをして、事業経営に携わり、また東京府会議員、東京市会議員、衆議院議員(1894-1905)としても活躍した。

 政治家として〇鳴社の発起人となり、板垣退助率いる自由党に近かったが入党せず、進歩党に加わり、1898年には中立的立場をとった。

 他方。我が国における最初の経済雑誌である『東京経済雑誌』を創刊し主宰した。自由主義経済の論陣を張り、政治や史論にまで及んだ。歴史雑誌『史海』を発行、『日本開化少史』は有名である。

〇上田敏(1874-1916)(明治7-大正5)

 第一高等中学校入学と同時に、田口卯吉邸に寄寓。平田禿木を通じて『文学界』の同人となり、東京帝国大学英文科に入学後は『帝国文学』の創刊に参画、小泉八雲自任の後、夏目漱石とともに東京帝国大学の教師となる。

 明治38年、主として『明星』に発表したフランス象徴派直訳詩集である『海音潮』は有名である。また明治42年1月2日の石川啄木の日記によると西片町の上田邸に訪れていることが記されている。

 エピソードとしては、学生時代、観劇を好み軍人の絵を描くことが好きだったことがあげられる。