『日本の石仏』のバックナンバーをめくっていたら、「大強精進勇猛佛」なる文字が目に入って来た。
どこかで見たことのあるような気がするが、思い出せない。
『日本の石仏NO114』を開いて、西岡宣夫氏の「大強精進勇猛佛碑」を読んでみる。
碑は静岡県伊豆の国市の真珠院という寺にある、と書いてある。
伊豆の国市へは、3年前、家族旅行で行った。
観光を兼ねて2,3の寺にも寄ったので、その時、真珠院も訪れたかもしれない。
写真フアイルを検索してみる。
真珠院のフアイルがあり、「大強精進勇猛佛」なる碑の写真もちゃんと保存されていた。
ところで、「大強精進勇猛佛」とは何か。
西岡氏の記事を参考に、私なりの理解では、この言葉は、江戸時代初期の宗教実践家鈴木正三(しょうさん)の思想のエッセンス。
「プロの宗教家だけが修行して仏道に到るのではない」。
続けて、彼はこう云う。
「いかなる職業でも精進してその道を究めれば、それが仏道。勇猛果敢、強直に信じる道を行け」。
鈴木正三が偉いのは、この信条を自ら実践してきたことにあります。
彼は、徳川家康の家来として、関ヶ原の戦い、2度にわたる大坂の陣で武功をあげ、旗本に引き立てられた。
戦国の世の習いとして、人の死に数多く接し、身近に感じてきた正三は、若いころから仏典に親しみ、諸寺に参詣しながら、仏教に傾倒してゆきます。
そして、42歳、出家を決意する。
武家の出家などとんでもない時代、それは切腹覚悟の「お伺い」でした。
しかし、大方の予想に反して、主君秀忠は彼の願いを聞き入れて、出家を許可します。
生来の、鈴木正三の剛直な性格を、秀忠が理解していたからでしょうか。
古希を迎えて、彼は「大強精進勇猛佛」なる仏名があることを初めて知ります。
これこそ自分の思想と信条を体現するものだと感得し、以後、この仏名の普及に努めます。
真珠院の「大強精進勇猛佛」碑は、彼の普及努力の名残の一碑、そして恐らく日本でここにしかない貴重な一碑なのでした。
前置きが長くなった。
何をいいたいかというと、撮ってきては放り込みぱなしの写真フアイルのチェックの重要性。
歳のせいか、忘れっぽくなった。
面白いものを撮った筈なのに、それを忘れてしまっては意味がない。
ということで、早速、チェックしてみました。
対象フアイルは2010年の石仏巡り都内23区分。
石仏巡りを初めて2年目、目標は23区の寺全部を回ることだった。
石像仏にばかり目が行き、文字碑は素通りしている、初心者ならではのフアイルです。
まずは、単純に珍しい石仏から。
◆二十五菩薩来迎石仏群 真珠院(文京区小石川3-7-4)
偶然だが、またも真珠院。
緑豊かな境内の崖地に二十五菩薩来迎石仏群があります。
阿弥陀如来が二十五菩薩を従え、音楽を奏でながら来迎し、念仏者を極楽浄土へ導くという浄土思想を形にしたもの。
阿弥陀如来
菩薩は、鼓、琵琶、笛、笙などの楽器と花を持って音楽を奏しています。
二十五菩薩といえば、琵琶湖西岸坂本の西教寺の群像が有名ですが、今、境内にあるのはレプリカ。
ならば大津まで足を延ばさず、都心の真珠院で十分でしょう。
◆迦楼羅(かるら)立像 本誓寺(江東区清澄3-2)
「かるら」と云われてピンと来なくても「ガルーダ航空」と聞けば分かるでしょうか。
「かるら」はGARUDAの音訳で、インド神話の霊鳥。
龍を餌とし、両翼を広げると336里というインド人好みの巨大鳥です。
石仏からは、巨大な鳥だとは分かりませんが、横笛を吹くのは唇ではなく、嘴であるようにも見えます。
光背は火焔でしょうか。
朝鮮の高麗時代の石仏ということですが、いつ、どうして渡来してきたのか、来歴は不明とのこと。
いずれにせよ、都内に限れば、類品もなく、これだけという珍品です。
◆象供養塔 護国寺(文京区大塚5-40)
動物ばかりではなく、鳥、魚、虫、植物まで様々な生物の供養塔があるので、象の供養塔があっても驚きはしませんが、都内でたまたま見かけたので、報告しておきます。
場所は護国寺。
大ぶりの石に2頭の象が浮彫りされ、その上に「象供養」の文字。
卒塔婆には「施主 東京象牙美術工芸協同組合」と書いてあります。
もう、文句なく納得。
そのすぐ傍に、須弥壇形式の台座を三猿が支える庚申塔があるのですが、あまりにも有名で、改めて触れる必要はないでしょう。
◆元和の石仏
奈良、京都、近江、鎌倉の石仏に比べて東京の石仏が異なるのは、制作年代。
かたや中世の石仏だらけなのに対して、東京は近世ものばかり。
ほぼ100%江戸時代の制作石仏といって間違いありません。
江戸時代と云っても寛文以前は極端に少ない。
元和に至っては、私のフアイルには2基しかありません。
光取寺(品川区上大崎1-5-10)元和7年 性翁寺(足立区扇2-19-3)元和2年(1616)
都内の中世石仏は皆無かというとそんなことはない。
あるにはあるが、私のフアイルには1か所だけ。
増上寺の4菩薩だけです。
普賢菩薩 地蔵菩薩 虚空蔵菩薩 文殊菩薩 いずれも正嘉2年(1258)作
だから新宿の誓閑寺墓地で建保2年(1214)の墓を見つけて、私が興奮したとしても、無理からぬことでした。
墓面は中央に「水鏡景清大居士」の戒名。
右に「日向勾當」、左に「建保二甲戌年八月十五日」と刻されています。
寛永7年(1630)開基の寺に、なぜ、400年も前の墓があるのか。
寺に問い合わせても「そんな墓があるのですか」と心もとない。
真相解明は諦めていたが、今回、改めてネットで検索したら、明治に刊行された『東京名所図会』に以下のような記述があることが分かった。
「墓碑にておかしきは、悪七兵衛景清の墓といふもの是なり。墓面に日向勾當と肩書し。水鑑景清居士。建保二甲戌年八月十五日九十八卒とありて。側邊に享和二癸亥年七月吉辰。右紀成功修補と刻したる。日向勾當などとは全く謡曲より出でしものなり」。(『東京図会』より)
謡曲や能について全くの無知なので、憶測するのもおこがましいが、謡曲「景清」からみで享和2年に造られたいたずら墓標で、実際の墓ではどうやらなさそう、ということで、がっかり一段落です。
◆中世の宝篋印塔 普賢寺(葛飾区東堀切3-9-3)
こうしたあやふやな代物ではなく、ちゃんとした中世の墓が、都内にもあります。
葛飾区東堀切の普賢寺墓地にある3基の宝篋印塔は、豪族葛西氏の墓。
鎌倉時代後期の様式で、都内最古。
東京都有形文化財に指定されています。
普賢寺には、葛飾区指定の文化財もあって、それは燈籠庚申塔。
刻文は薄れて判読できないが、資料によれば「寛文6丙午年 石燈篭庚申成就二世楽処 十二月今日」と刻されています。
次の庚申年まで14年もある寛文6年に、燈籠を主尊とする庚申塔を造立する、一体いかなる事情があったのか、知りたいものです。
都内23区にある変わり種庚申塔と云えば、この他に狛犬庚申塔とか閻魔庚申塔があります。
狛犬庚申塔 鎧神社(新宿区北新宿3-16-18)
閻魔庚申塔 地福寺(北区中十条2-1-20)
狛犬も閻魔も三猿はなく、「庚申」の文字がなければ庚申塔とはわかりません。
閻魔と云えば、青松寺(港区)墓地前の一画に、所在無げに坐している閻魔が私は好きです。
閻魔 青松寺(港区愛宕2-4-7)
相棒の奪衣婆の姿は見えません。
お役御免となって誰からも注視されることなく、そのお姿は徘徊し続ける独り暮らしの介護老人のようです。
閻魔は都内にも20-30体かおわしますが、亡者の裁きに使う人頭杖、別名檀拏幢(だんだどう)は練馬の教学院にしかありません。
◆人頭杖 教学院(練馬区大泉町6-24-25)
浄玻瑠鏡、それに業(ごう)の秤と相まっての三点セットで、罪業測定器となるのですが、残念ながら人頭杖のみ。
人頭杖 経学院(練馬区大泉町6-24)
二つの頭は男と女、閻魔が亡者を審判するとき、重罪であれば憤怒の男相(だんそう)の口が火を噴き、善行が勝れば柔和な女相(にょそう)から芳香が漂うとされています。
◆地蔵百度石 霊雲寺(文京区湯島2-21-6)
百度石はだいたい素っ気ない石造物と相場は決まっていますが、霊雲寺(文京区)には地蔵が上に坐す百度石があります。
百度石といえば、その数の多さでは西浅草の本覚寺が屈指でしょう。
祖師堂の前に5,6基もの百度石が立っています。
偶然にもお百度参りをしている人に出会いました。
祖師堂で合掌して願いを唱える。
百度石まで戻って、石に触れ、また祖師堂に向かう。
話を聞きたかったが、ひたすらな、その姿に躊躇。
現代にもお百度参りは生きている!と感激のひと時でした。
◆異形の青面金剛
庚申塔の変わり種については、主尊が燈籠、狛犬、閻魔などの庚申塔を先に紹介した。
異形の庚申塔も付け加えておく。
江東区の常光寺の青面金剛には驚いた。
常光寺(江東区亀戸4-48-3)の青面金剛
南太平洋のポリネシアにこんな感じの人がいるようだが、江戸の石工がポリネシア人を知っているはずはないから、想像の産物だろう。
儀軌の青面金剛を承知の上の造作だとしたら面白い。
庚申塔ではないが、経学院(練馬)にもよく似た石仏がある。
まさか同一石工ではないだろう。
世の中は、広いようで狭いなあ。
◆無縁塔に並ぶ兄妹の石仏 如来寺(品川区西大井5-22-25)
2010年の頃は、寺へ行けば、墓地へも寄った。
無縁塔の石仏撮影が目的だった。
下の写真は、如来寺(品川区)の無縁仏コーナーで撮影したもの。
正面に石仏が4基。
左の2基はすこし小さい。
右には「幻夢童子」、左の石仏には「幻誘童女」とある。
没年は「幻夢童子」が享保8年(1723)、「幻誘童女」は享保14年。
兄と妹に何があったのだろうか。
同じ墓域にあったが縁者がいなくなって、この無縁墓地に移されてきた。
無縁墓地でも寄り添って立つ二つの石仏墓標に、作業をした寺の関係者の「優しさ」が読み取れる。
それにしても、「幻」という言葉の意味は、当時も今と同じだったのだろうか。
子供の戒名に「夢まぼろし」と付けた親の心情を思うと、切ない。
生前の故人を髣髴とさせる墓がある。
荒川区K寺
碁盤の上に酒樽。
酒を飲みながら毎日、碁を打っていたんだ。
墓の形は、本人の遺言か、女房の亭主愛か、後者だと私は思いたい。
品川区K寺
サイコロと壺。
まさか女房の差し金ではあるまい。
サイコロが崩れかけているのは、ギャンブラーが削ったから。
まだ見たことはないが、競馬競輪、パチンコ狂いの墓もあるに違いない。
御存じだったら教えてください。
下の写真、酒樽に大盃がのっている。
大盃に刻された戒名は「好酒院杓盃猩々居士」。
向島の長命寺にあるので墓に見えるが、実は、江戸の風流人の遊び心の産物。
戒名を付けたのは、大田蜀山人。
隣に「好色院道楽寶梅居士」もある。
形は言わずもがな。
「寺の境内に何たる不謹慎。子供の教育に良くない」などと喚くヒステリー女がいなくて、江戸時代はいい時代だったなあ。
ちょっと横道にそれた。
それたまま、今回は終わりとなる。
やや真面目さを欠く流れとなった。
その流れに乗って、最後の一枚。
江戸川区T寺前の民家
「葷酒山門を入るを許す」。
寺の前だから、ジョークが辛辣だ。
「不許葷酒入山門」の石碑を門前に立てて、内で般若湯を呑んでいる坊主の姿が浮かんでくる。
十辺舎一九も太田魯山人も、称賛を惜しまないだろう。。
フアイルにはまたまだ無数の写真がある。
その中から一枚。
赤坂S院の墓地から
明と暗、過去と現在。
何か意味ありげで、悪くない。
今回のブログが有意義だったとすれば、それは2010年の写真フアイルに一応目を通したこと。
東京都23区に限定したものだったが、すっかり忘れていた大事な写真が何枚もあった。
年度と地域を変えて、又いずれフアイルチェックをしようと思う。