北区の石造物1回目は、赤羽西を3回に分けて紹介した。
赤羽西1丁目は、JR赤羽駅からスタートしている。
同じように赤羽駅西口から1丁目が始まる町としては、赤羽台1-4丁目がある。
◇赤羽台1-4丁目
赤羽台という名称は、赤羽の高台を意味し、旧陸軍での通称として使われていた。
赤羽台1-2丁目にあった陸軍被服工廠は、そのまま占領米軍に接収され、返還後は東京最大の団地、赤羽台団地として再生した。
昭和37年(1962年)のことです。
▽猿田彦神社(赤羽台1-4-50)
その赤羽台団地の東端、49号棟北東の公園内に猿田彦神社があり、3基の青面金剛庚申塔があると資料にはある。
早速行って見た。
だが、49号棟が見当たらない。
あるべき一帯は塀に囲まれていて、道路は金網で遮られている。
金網の向こうから出てこようとしている工事人に訊いてみた。
「49号棟は解体されてない。小さな祠があったけれど、それがどうなったのか、今は何もない」とのこと。
行き先不明の猿田彦神社は、もともとうつり坂上にあったという。
うつり坂へ行って見た。
神社は見当たらない。
うつり坂は板橋への坂の一つで、大正8年、陸軍被服本廠の移転とともに一般人の通行はできなくなった。
昭和37年(1962)赤羽台団地誕生とともに元に復したものです。
▽庚申塔(赤羽台3-1-8)
坂下に小さな祠があり、板庇型庚申塔が祀られている。
延宝8年(1680)造立だから、かなり古い庚申塔になる。
▽陸軍境界石(赤羽台3-4)
移り坂の一本北側の坂、その左側は宝憧院墓地だが、その西角には軍用地境界席石が埋まっている。
「陸軍」の文字がかすかに読み取れる。
墓地は民有地、カメラ側は陸軍用地ということになる。
被服本廠の広さは9万坪。
そこで働く何万という人たちか赤羽の活気を支えてきたのだった。
この坂を100m上ると信号があり、左折すると赤羽台トンネルに入る。
団地の真下を通るトンネルで、半地下掘割方式を提示した行政側に、全面地下を主張する住民側とが対立し、決着を見るまで数年を要した。
トンネル上の公園広場にあるモニュメントには、トンネル工事の経緯が刻されている。
▽真宗大谷派・赤羽山法善寺(赤羽台3-24-2)
石造物は灯籠が1基あるのみ。
墓地もない。
代わりにというわけではないが、ペッド霊苑があって、
黒御影の「万物供養碑 やすらかに」の石碑には、多くの花が供えられている。
実は、我が家の秋田犬「ふう」ちゃんもここに眠っている。
何度もこの辺りを歩いていたのに、こんな所に神社があったなんて!
80歳を過ぎて、驚くことは少なくなったが、これには驚いた。
驚いたというよりは、自らの観察力、注意力のなさを恥じる思いが強い。
▽赤羽八幡神社(赤羽台4-1-6)
見逃した原因は、神社があるとはとても思えない高みに、赤羽八幡神社はあるからです。
道路の右側に無機質なコンクリートの坂道が上へと伸びている。
坂道右側に「八幡神社」の看板があり、坂上に鳥居が見えるので、これが参道だと分かるのだが、社殿らしきものは見えないから、一歩を踏み出すのに躊躇してしまう。
躊躇させる要因の一つは、この坂道が参道というにはあまりにも無機質で、素っ気ないからでもあるようだ。
実はこの無機質参道は、参拝者用車道で、徒歩での参拝者の多くは、奥まった場所にある石段を上る。
坂道参道から目を右に転ずると電車の高架下に殺風景な道があって、左に「入口」とある。
高架下は暗く、その向こうに鳥居らしきものが見えるので、「こっちかな」と歩き始めるのだが、まるで工事現場への入口のようだ。
なぜ、参道の上に電車が走っているのか、その理由は後ほど分かることになるが、初めての参拝者は誰も本殿に向かうのに、迷うに違いない。
鳥居をくぐるとやがて石段が見えてくる。
結構な急坂で、デブで膝痛の爺にはきつそう。
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