◇滝野川不動尊(象頭山本智院観音蜜寺)滝野川 1-58-2
境内は、都電「飛鳥山駅」のホームに接してあるが、金網があって入れない。
遠回りして山門から入る。
がらんとして境内は広くて殺風景。
民家と変わらない庫裡を左に
奥まで行くと本堂がある。
本堂にしては小さいから、これはお堂で、本堂は庫裡と見えた建物だろうか。
石造物もわずか。
狛犬一対と
大日如来1基のみ。
滝野川不動尊の山門に接して右に「身代わり地蔵尊」がある。
堂前の石柱2基には、「江戸三大」、「身代地蔵尊」とあり、
供花が新しい所を見ると篤い信者がいることが分かるが、
謂れなどは、資料不足で一切分からない。
チンチンチンチンと遮断機が下りて、都電が走ってゆく。
◇浄土宗・思惟山正受院浄業三昧寺(滝野川2-49)
寺の名前は、寺号だったり、院号だったり、さまざまだが、ここは「正受院」。
住職が決めるのか、「浄業三昧寺」では長すぎるので、いつのまにか「正受院」になってしまったのか。
独特の鐘楼門があるので、覚えやすい。
6年前にも来たことがあるのを想い出した。
このブログ「石仏散歩」の100回記念として、それまでの石仏巡りを回顧する特集を組んだ。
(「NO100 石仏のある風景 https://blog.goo.ne.jp/fuw6606/m/201504」 2015-04-01)
石仏についていかに無知だったか、それがどのように成長したかを、正受院の墓地の庚申塔を例に説明したものだった。
もちろん、その阿弥陀如来庚申塔は、そのままおわしますが、この庚申塔だけが正受院の石造物ではないので、もう一度、参道から順にみて回ることに。
鐘楼門は、かなり珍しい。
下から仰ぐと、鐘が見える。
脇には、鐘楼門の説明板がある。
かなりの年代物で、ペンキがはげたり、文字をペンキで塗り潰したりしてあって、ほとんど読めない。
読める部分だけを繋げると「明治35年の制作で、東京では唯一の鐘楼門。釣鐘は195キロ。戦時中、国家に献納した」とあるから、戦後、作り直したものだろうか。
鐘楼門前にあるのは、細工の細かい、銅製阿弥陀如来。
阿弥陀様が多いのは、浄土宗寺院だからだろう。
本堂前、左にある武者姿は、択捉島を探索した近藤重蔵。
彼の人となりと業績について、北区教委は次のように説明している・
石造近藤守重坐像 正受院本堂前
坐像は、現在の千島列島から北海道までの蝦夷地を探検し、エトロフ島に「大日本恵土呂
府」という標柱を建てた近藤守重の肖像です。
守重は明和八年(1771)江戸町奉行与力の次男として生まれ、家督を継いで、通称を
重蔵、号を正斎と称しました。
寛政十年(1798)3月、幕府から蝦夷地の調査を命じられ、北方交易の海商高田屋嘉
兵衛の協力で、石像のように、甲冑に身を固めてエトロフ島に渉り、現地の開発に尽力し
ました。また、利尻島の探検にも参加し、蝦夷地についての著書も著しましたが、文政五
年(1822)から九年までの四年間を正受院の東隣に、瀧野川文庫という書斎を設けて
住みました。
石造近藤守重坐像は、この記念に、江戸派の画家として著名だった谷文晁に下絵を依頼し
て製作したと伝えられます。
平成元年3月 北区教育委員会
参詣人に若い女性がちらほら。
みんな慈眼堂とその横のお地蔵さんに手を合わせている。
正受院が別名「赤ちゃん寺」と呼ばれるのは、この慈眼堂が赤ちゃん(水子)の供養納骨堂だからでした。
右隣りの地蔵大菩薩の背後には「赤ちゃん供養塔」の石塔が立ち、
真新しい卒塔婆には「〇〇家胎児追善供養」と書かれています。
どこにも名前がないのは、水子だからです。
このお地蔵さんの後ろには、浄土宗寺院なのに、なぜか石仏不動明王群が。
これは、寺の裏手に、かつて「不動の滝」が、あったからです。
江戸名所図会には「正受院の本堂の後、坂路を廻り下る事、数十歩にして飛泉あり、滔々として消壁に趨る、此境ハ常に蒼樹蓊鬱として白日をささえ、青苔露なめらかにして人跡稀なり」とあります。
不動明王が祀られている瀧だから「不動の滝」であり、「不動の滝」だから、またさらにお不動さんが祀られたのでしょう。