石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

138 東京都北区の石造物-16b-飛鳥山(王子)の続き

2020-03-22 08:23:12 | 石造物巡り

▽飛鳥山の歴史

自然石に黒御影をはめ込んだ碑は、王子ロータリークラブ造立の、飛鳥山由来記。

 

   飛鳥山公園は、明治6年に定められたわが国最初の公園の一つです。この公園のある台地は、上野の山から日暮里、田端、上中里と続いている丘陵の一部です。このあたりは古くから人が住んでいたらしく、先土器時代(日本で最も古い時代)、縄文時代、弥生時代の人々の生活の跡が発見されています。ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは、昔この丘の地主山(現在の展望台のところ)に飛鳥明神の神が祀られていたからと伝えられています。江戸時代の中頃元文2年(1737)徳川八代将軍吉宗が、この地を王子権現に寄進し荒地を整備して、たくさんの桜や松、楓などを植えたので、それからは桜の名所として有名になり、周りに茶屋などもできました。その説明は右手の大きな石碑に詳しく刻まれていますが、この文章がとても難しく、すでにその当時から読み難い石碑の代表になっていました。飛鳥山のお花見は、向島とともに仮装が許されていたので、まるで落語に出てくるような仇討ちの趣向や、変装などのためにたいへんな賑わいでした。また東側の崖からは、カワラケ投げも行われ、土皿を風にのせて遠くまで飛ばす遊びも盛んでしたが、明治の末になって、危険防止のために禁止されました。この山は東から西へのなだらかな斜面でしたが道路拡張のためにせばめられ、先に中央部につくられていた広場の跡地に噴水ができ、夜は五色の光に輝いています。            

    昭和55年2月吉日       東京王子ロータリークラブ

 

そしてその右、覆い屋の中にあるのは、「飛鳥山碑」。

 

▽飛鳥山碑(飛鳥山公園内)

 

飛鳥山何と読んだか拝むなり

飛鳥山どなたの墓とべらぼうめ

この花を折るなだろうと石碑見る

何だ石碑かと一つも読めぬなり

川柳四首は、公園内の「飛鳥山碑」の難解さを詠んだもの。

「飛鳥山碑」は、大正15年に東京都の文化財に指定されています。

碑建設の経緯、碑の意義などについて、都教委作成の説明板があるので、まず、紹介しておきます。

 

東京都指定有形文化財  飛鳥山碑

 八代将軍徳川吉宗は飛鳥山を整備し、遊園として一般市民に開放した。これを記念して、王子権現社別当金輪寺の住職宥衛が、元文2年(1737)に碑を建立した。

 石材は、紀州から献上されて江戸城内滝見亭にあったものである。碑文は儒臣成島道筑によるものである。篆額は、尾張の医者山田宗純の書である。建立に至る経緯については。道筑の子和鼎の「飛鳥山碑始末」に詳しい。碑文の文体は、、中国の五経の一つである尚書の文体を意識して格調高く書かれている。吉宗の治世が行き届いて太平の世であることを喧伝したもの考えられる。

 碑は、総高218.5cm、幅215cm、厚さ34.5cm。元享年中(1321-24)に豊島氏が王子権現を勧請したことが記されている。続いて、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来や、土地の人々が王子権現を祀りつづけてきたことが記される。最後に、吉宗が飛鳥山に花木の植樹を行い、王子権現社に寄進した経緯などが記される。異体字や古字を用い、石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解であるが、飛鳥山の変遷を理解するうえで重要な資料である。

 平成23年3月 建設                東京都教育委員会

 

平成4年(1993)、北区教育委員会から『飛鳥山』が刊行されました。

難解な碑文の解読と『飛鳥山碑始末』を元に飛鳥山碑にまつわる出来事を紹介しています。

 

以下は、その『飛鳥山』からの引用です。

まずは、難解碑文の読解から。

全文は、量が多いので、冒頭7行です。

 

惟南國之鎭   これ なんごくのしずめを

曰熊埜之山   くまののやまという

有神曰熊埜之神 かみあり くまののかみという

實 伊奘冉尊也 げに いざなみのみことなり

配祀伊奘諾尊  いざなぎのみこと

事解王子    ことさかのおうじをはいしす

或稱之三神   あるいはこれをさんじんとしょうし

 

訳文

南国の鎮めを

熊野の山といい

神様がいて熊野の神という

実はイザナミノミコト(女神)である

これにイザナギノミコト(男神)と

コトサカノオウジをあわせまつり

これを三神ともいう

碑文の作者成島道筑は、幕府坊主職で、吉宗より5歳上、毎日、吉宗に諸書の講義を行っていました。

飛鳥山開発と一般開放という己の功績を、後世に伝えるべく吉宗が建立した石碑は、歴代将軍の中でも唯一のものです。

吉宗は、拓本を表装して部屋にかけ、文章と云い、手蹟といい、これに比すべきものはないと愛玩したと言います。

使用した石は、五代綱吉の時に紀州から献上されたもの。

石工には、八丁堀の名工・佐平治が選ばれます。

仕事賃200両の見積もりに佐平治は、20両で十分と断ったそうです。

彫りあがった碑は、八丁堀から飛鳥山へ。

牛20頭と人足300人が力を合わせての大仕事。

その労をねぎらって牛1頭につき銭1貫文が支給されたという。

 

「飛鳥山碑」の右隣は「明治三十七八年戦役記念碑」。

明治37・8年というのは、日露戦争。

北区は、陸軍の後方支援施設が集中していたから、この種の石碑は枚挙をいとわない。

こども広場に入る。

その北方にあるのが、「船津翁の碑」。

明治初期の農業指導者・船津伝次平の顕彰碑。

碑は、彼の故郷、赤城山に向いて立っています。

碑文は線刻が薄くて読めないが、傍らの北区教委政策の説明板に、その全文が載せられている。

 

しかし、長文なので、ここに転載はしません。

 

 

 


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