池をめぐる小径に面して、高さ1メートル半の古い石碑が、ひっそりとたたずんでいる。
一部欠損している上に、薄い線彫りで刻文は判読にくい。
説明板がある。
文章責任は、筑波大や文京区ではなく、東京教育大学であるのが、珍しい。
やや長文だが、転載しておきます。
旧守山藩邸碑文
この碑は、延享三年(西暦一七四六年)春三月に建てられたといわれるから、今から二百三十年ほど前になる。ここ吹上邸を上屋敷とされた守山藩主松平頼寛(三代目)が、その臣岡田宜汎に命じて記させたもので、高さ一.四米、幅〇.七七米の鉄平石に刻まれた碑である。この碑文には、藩祖頼元より頼寛に及ぶ三代の占春園にまつわる記事があり、特に占春園と命名された由来を持り持つ古桜樹や、桜花の春に催された佳会の盛宴などが興味深く記されていて、往時の大学頭邸の景観と歴史が追憶される。
我公之園名占春。其中所觀、梅櫻桃李、林鳥池魚、緑竹丹楓秋月冬雪、凡四時之景莫不有焉。而名以占春者何也。園舊有古櫻樹、蔽芾数丈。春花可愛、夏蔭可憩。先君恭公之少壮也、馳馬試剣、毎繁靶於此樹而憩焉。因名云駒繋。至荘公之幼也、猶及視之。於是暮年、花下開宴、毎会子弟、必指樹称慕焉。我公追慕眷恋、専心所留、遂繞此樹、増植桜数百株、花時会賓友、鼓瑟吹笙、式燕以敖、旨酒欣欣、燔炙芬芬、殽核維旅、羽觴無算。豈啻四美具乎哉。物其多矣、維其嘉矣。偕謡既酔之章、且献南山之壽。我公称觴、顧命臣宜汎曰、是瞻匪亦所為。後世子孫、徒為游楽之場是懼焉。書於石。宜汎捧稽首曰、桑梓有敬、燕胥思危。誦美有辞、陳信無愧。謹寿斯石。万有千載、本支百世、永承景福之賜時延享丙寅春三月 岡田宜汎捧撰 宇留野震謹書
占春園は春爛漫たる桜樹を始めとして四時の美をそなえた名園で、杜鵑も巣を作るという野趣に富み、冬春の候には多くの鴨が園地に聚まり、青山の池田邸、溜池の黒田邸と合わせて江戸の三名園と称せられたという。本学は、その史実をここに記して占春園を永久に記念するものである。
昭和52年1月 東京教育大学
持参資料によれば、この守山藩邸碑が、もう1基あることになっている。
探しても見当たらないので、筑波大学の守衛所で訊く。
なんと占春園ではなく、筑波大入口前にあった。
これも又、東京教育大学による説明板があるので、引き写しておきます。
「東京教育大学」がこうした形で、まだ残っていることに若干の嬉しさを覚えながら。
東京教育大学の大塚の敷地は、その昔、水戸家の分家である守山藩主松平大学頭の上屋敷であった。文政十年(西暦1827年)に小石川水戸中納言の礫川邸が類焼し、当主8代
目の斉修公(水戸烈公の兄)は夫人峰姫と共に駒籠邸に難を避け、そこから大塚吹上の松
平大学頭の屋敷に移った。これを迎えた大学頭頼愼公はよく斉修公(天然子)を待遇したので、公はその厚意を謝し、吹上邸の庭(占春園)の景観を称えて詠んだのがこの碑文で格調たかいものである。
丁亥之春、礫川邸罹災。以
幕府之命、與夫人峰姫遷居於
守山侯吹上邸。々中多山水之
勝。園之東有梅林。明年、春
遊于林中賞花、頗忘舊歳之憂
因賦一律 以攄幽懷云
吹上邸中山苑東 幾株梅樹遠連空
落英渓畔千林雪 斜月樓頭一笛風
疎影婆娑留舞鶴 清香馥郁伴詩翁
人間何處無春色 春色須從此地融
天然子
昭和52年1月 東京教育大学
小石川の邸宅が火災に遭い、ここ守山藩の吹上邸に移ってきたが、春になって、林中にあって花を愛で、頗る去年の憂いを忘れることが出来た、というのだから、占春園の景観はそれほど見事だったということになる。