小石川植物園には、3基の石碑がある。
〇柴田圭太記念碑
〇甘藷試作跡碑
〇関東大震災記念碑
入口から一番近い、柴田圭太記念碑から見ていこう。
◇柴田圭太記念碑
正門から緩やかな坂道を登り切ったところの十字路を右に回ると「メンデルのぶどう」と「ニュートンのリンゴ」の木がある。
「ニュートンのリンゴ」はイギリスから持ち込まれた珍しいもの。
ここだけにあるものと思っていたが、科学の啓蒙啓発の為にという名目で、穂木で各地に分譲され、今や数えきれないほど多数になっているのだそうだ。
この「メンデルのぶどう」と「ニュートンのリンゴ」の木を左に見ながら進むと、白壁に男の肖像のレリーフがはめ込んである。
レリーフの下部に「KEITA SHIBATA 1877-1949」。
碑面には「日本植物生理学は柴田圭太によってこの地に創始された」とある。
右隣りの建物は、レリーフの主の名がついた「柴田記念館」。
柴田圭太は、明治10年(1877)、東京の生まれ。
ドイツに留学後、東大植物学教室で植物生理化学を研究、学士院賞を受賞した。
その賞金を元に、この地に大正9年(1920)、植物生理化学実験室が建設され、以来、昭和9年、植物学教室が本郷に移転するまで、ここで研究、講義が行われたという。
内部は、見学自由。
植物園の歴史や研究内容の展示、関連出版物と植物をあしらったクーリーティングカードの販売をしている。
◇甘藷試作跡碑
私は、80歳。
同年配から上の世代は、さつまいもが嫌いな人が多い。
太平洋戦争末期から戦後にかけての食糧難時代、さつまいもばかり食べて、みるのも嫌になったかららしい。
植物園本館から中央道を進むと左手に薩摩芋の形をした自然石が立っている。
これが、「甘藷試作跡碑」。
「甘藷先生」こと青木昆陽は、江戸近辺で甘藷栽培が可能ならば、備蓄食料として有効だろうと考え、享保20年(1735)、吉宗に進言、命を受けて、ここで甘藷を試作、成功した。
昆陽が幕府に提出した甘藷試作の見積書がある。
『日本薬園史の研究』から転載しておく。
〇御薬園竝養生所所薩摩芋可作場所見分仕候養生所之内百八十三坪御薬園之内百五十坪合 三百五十坪之処可宜奏存候
〇猪防の垣養生所之内には入不申候御薬園之内十間に十五間の處四方にて五十間杉丸太四寸間に一本高四尺に仕、貫二通打一間に一本づつ柱混入、二尺余に仕木戸二ケ所付此御入用金八両
〇作人は養生所中間部屋に被差置候はば別段に小屋建候に及申間敷候也
◇関東大震災記念碑
震災記念碑といえば、家屋の倒壊、火災、死者数などを記念するものが多い。
植物園の記念碑は、地震後、被災者約2000人が、園内に避難していたことを記念するもの。
2基が並んで立っている。
向かって右の自然石には
大正13年9月1日大震災記念
我が家の悲しかりし歴史、植物園内避難者の一人記す
光円寺佐藤良智師により一千貫の花崗岩を居住者の善男善女老幼により白山下より大綱にて引き来り御殿町青年団戸崎町青年団及在郷軍人諸氏の援助のもとに記念にすえた
とあり、
又、向かって左の角石には
大震災記念石 大正13年9月1日建立
男爵板谷芳郎書 当園一ケ年居住者有志
と刻されている。
小石川植物園での避難者の状態はどんな状態だったか、文京区立真砂中央図書館で写真を探すが見当たらなかった。
文京区は、墨田、江東、葛飾区に比べると地盤が固く、被害が少なかったようだが、皇居前、上野公園、日比谷公園などが満杯で、内務省は小石川公園にも震災救護所を設けることを決定した。
大正14年4月1日まで1年半の長きに渡って、約2000人が避難、収容されていたと云われている。
小石川植物園の震災後の写真はなかったが、震災直後の上野駅前と日比谷公園の被災者仮設住宅の写真があった。
上野駅前
日比谷公園仮設住宅
小石川植物園も同様な光景だったと想像してください。