徳本行者は、生き仏として抜群の人気を誇った。
俳人一茶がその説教を2度も聞きに行ったことは、先述した。
では、流行神としてもてはやされた徳本行者とはいかなる人か。
その生い立ちと厳しい山岳修行を振り返ってみたい。
徳本行者は、現在の和歌山県日高町の農家の長男として、宝暦8年(1758)6月22日、誕生。
徳本行者生家
2歳の時、名月を指して南無阿弥陀仏を唱えたなど、偉人としての伝説には事欠きません。
9歳になって、両親に出家を請うが許されず、自ら日課念仏(毎日、回数を決めて唱える念仏のこと)の修行を始めた。
27歳になって、念願の出家を許され、財部往生寺の大円大徳和尚より得度を受けます。
本格的な修行は、29歳になってから。
千津川上流の渓谷に入り、穀絶ちの木食戒を始めます。
渓谷の岩の上に草庵を結び、麻縄を袈裟とし、腰巻を巻いた乞食同然の姿で、食事は雑穀の粉を一日1合水で飲むだけ、ワラビや木の実も重要な食材でした。
徳本行者が木食僧と云われる所以です。
夜が明けての、水垢離が一日の修行の始まり。
木魚をたたいてひたすら念仏を唱え、五体投地を一日、1万回もするという荒行を6年間続けます。(五体投地1回につき7-8秒はかかりそうだが、5秒と早くみつもっても1時間720回、10時間で7200回でしかない。毎日1万回の6年は信じられない)
その頃の逸話が、江戸後期の『わすれのこり』に掲載されている。
「太守(紀州八代藩主重倫)ここに狩し給ふに、谷を隔てて石上に端座合掌して念仏するものあり、髪髭ながくのびて身にはみるのごときものをまとひ、人とも獣ともわかたず、近臣をして射るさしめ給ふに皆当たらず、太守驚きたまひて、自ら其来歴を問ひたまふに、答ふるところ少しも滞りなく、生まれながらの活僧成として、城中に止めて厚くもてなしたまふ」。
この逸話は、徳本行者が師と仰ぐ木食弾誓の箱根山中で大久保小田原城主に矢を射られた逸話とそっくり。(このブログ「石仏散歩」のNO64『それは佐渡から始まったー木食弾誓とその後継者たち(2)』https://blog.goo.ne.jp/fuw6606/c/1a136ffe02c24259f3a352a979b1a1da
を参照ください。)
その後も紀州を中心に各地を転々としながら、修行を続けるが、55歳の時、紀州10代藩主治宝公から、幕府の重大事解決への助力を依頼されます。
重大事とは、11代将軍家斉が、側室お美代の方の願いを受けて、日蓮宗寺院を将軍家の祈祷寺にすることにしたこと。
将軍家斉
これに危惧を覚えた増上寺の和尚が、徳川家本来の浄土宗に戻すべく、念仏行者徳本に依頼します。
57歳という晩年になって、江戸へと下向した背景には、こうした事情があったのでした。
「文化11年戌年の7月始方より、江戸四里四方老若男女大に群集することこそできたる。其ゆえは紀州の山奥に壱人の聖あり、其名を徳本という。彼僧すでに7,8年以前小石川の伝通院へ来りて、日課念仏を人々にすすめ、十念を授ることにて有けるに、ことし又来りて前の如し。しかるに7月中旬より日に日に参詣の者多くしてい幾千ということなし。されば我も人も授かりて極楽に往生せんと、老いとなく若きとなく日夜朝暮伝通院に充満せり。夫れ故に、月の五の日斗出席して押し合い、押し合い、上が上に群集するほどに、其庭にて悶絶せし老人も少なからず、。今日はかしこの諸候へまねかれ、一ツ橋の御館へ行給ふとて其日をよく聞き知りて往還につづく人さながら山をなす。そもそもこの徳本という僧は不食の疾にて、幼稚の時より五穀を嫌ひただ一向専念に仏名を唱へ、更に世事にかかわらず」(『我衣』より)
もともと徳本行者が江戸に下向したのは、日蓮宗に傾きかけた大奥のムードを本来の浄土宗に戻すというミッションにあった。
泉蔵寺(秦野市)の石像
そのため徳本行者は、増上寺で数多くの大奥の女中に説教し、且つ、紀州、一ツ橋などの親藩諸侯の屋敷にも通っていた。
大奥の女中たちに説教したと云っても、別間にあってのことは無論のことです。
「徳本固より一間に容ることを禁じて婦人は皆下の間にありしに、徳本出ると年寄り衆も女臈も皆下の間に平服し首を挙ぐる者なし」(『甲子夜話』より)
民衆から圧倒的な支持を受けていたかに思える徳本行者だが、権力の中枢との関係性が深まれば深まるほど、念仏講の民衆性を弱める結果になったと批判する向きもあります。