今回のテーマは、徳本(とくほん)名号塔。
徳本は、江戸時代後期の木食行者で、日課念仏の普及に努めたカリスマ宗教実践者。
宗源寺(平塚市)所蔵の徳本行者座像
名号塔は、六字名号、すなわち「南無阿弥陀仏」の石塔のことで、この場合は、徳本行者の独特な書体の「南無阿弥陀仏」を彫った石塔を指します。
徳本行者の生地であり修行地でもあった紀州に徳本名号塔が多いのは当然ですが、50歳半ばの晩年江戸に下向、関東、信州等を数度にわたり巡錫したので、小田原、相模、武蔵、信州、下総に今でも数多くの徳本名号塔が残っています。
しかし、と、ここからがいいわけですが、私の写真フアイルには、紀州や信州の写真はありません。
わずかに相模と江戸の徳本名号塔が、20数基あるだけです。
タイトルに「徳本名号塔」とつけるには、お粗末な限りですが、肝心なのは、徳本行者の魅力を伝えること。
必然的に文章が多くなりますが、ご容赦ください。
「鰯の頭も信心から」。
江戸時代、民衆支配の走狗と堕した既成宗教に背を向けた大衆の心をつかんだのは、現世利益を満たすと噂の流行神(はやりがみ)でした。
「はやれ」ぱ「すたる」。
すたれたかと思うと、また、流行りだす。
流行神とは、そのようなものなのです。
「立花候下屋敷に稲荷の宮有、此屋敷拝領已来勧請有けるよし、宮の床下に狐穴ありて、狐四五匹もこれあるや、白昼にも屋敷中を走り廻るよし、享和三亥年、いかなる故ありにしや諸人参詣群集し、近辺酒食の肆夥しく出来、賑やかにありしか、半年も過ぎれば、参詣人まれにて、元の田舎のごとし、俄かに盛るものひさしからすといふ理なり」(小川顕道『塵塚談』)
厳しい修行を経て、奇蹟を生じて見せる霊力を保持した山岳修行の行者=木食行者も人々から崇敬される「生き仏」であり、行く先々、人々が群がったという点では、流行神と云っていいでしょう。
江戸時代前期の木食弾誓や但唱はその典型例ですが、幕末の生き仏といえば、徳本行者をあげて差支えはないでしょう。
『増訂武江年表』の文化11年の項に
「七月頃より、徳本上人、小石川伝通院にて諸人に十念(南無阿弥陀仏を十回唱えること)を授らる、貴賤の参詣群集夥し」とあるように、徳本の説教を聞きたくて集まった人たちで、本堂の床板が抜けることもあったほど、その人気は群を抜いていました。
その人気ぶりを目の当たりにした野次馬有名人がいる。
一茶。
一茶の信仰心については、小林計一郎氏が『小林一茶』の中で次のように指摘している。
「一茶は信仰心が深く、神仏に対して、いつも敬虔の念を失わなかった。しかしその信仰は庶民的な俗信であって、参詣も物見遊山を兼ねている事が多かった。好んで参詣していたのは、願い事がかなうという理由で当時流行している神仏が多かった」
流行神が大好きだった一茶が、幕末の生き仏、徳本行者とどのように接したのか、それは次回をお楽しみに。