石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

113 東京都大田区の指定文化財石造物(下)-3

2015-10-22 05:46:23 | 文化財

◇日待供養塔(南馬込1-49-1 万福寺)

〈大田区指定 有形民俗文化財〉  昭和49年2月2日指定
    日待供養塔

 この供養塔は寛永十五年(1638)に馬込村の人びとが造立した。
 高さ三.一メートル。現在は新しい台石の上にのせられ、総高約四メートル。相輪が大きく、笠石・基礎が比較的小さい、近世初期によく見られる形式の宝篋印塔である。
 昭和三十年頃までは、中馬込三丁目二十五番付近の梶原塚と呼ばれるところに建てられていたが、今は当寺の境内に移されている。
 馬込では大正期まで日待の習俗が行われており、江戸初期から現代まで伝承された民間信仰の資料として貴重である。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

日待とは日の出を待つ意であるが、江戸時代から待は祭だとする説がある。その当否はさておき、日待は本来、人々が一定の日に決められた場所に集まり、夜もすがら忌みごもりなどして日の出を拝した行事であった。」『日本石仏事典』

日本石仏事典には、日待塔の主尊として大日如来ほか8種類の刻像塔をあげ、文字塔も庚申塔など5種類の日待塔を紹介しているが、宝篋印塔の日待塔は載っていない。

極めて珍しい石塔のようだ。

その隣に一石六地蔵がある。

万福寺は、崖地の高低さを巧みに利用して、立体感のある境内となっている。

山門は、都内では希少価値となった茅葺屋根。

◇桃雲寺再興記念碑(山王3-29-8 新井宿薬師堂)

〈大田区指定 有形文化財〉  昭和49年2月2日指定
    桃雲寺再興記念碑

 当地(新井宿村)の領主、木原木工義久が、村内の古寺を再興し、家祖吉次の号をとって桃雲寺と命名した。この事績を後世に伝えるため嗣子木原内匠義永が、寛文四年(1664)に建立したのが当記念碑で、撰文は林春斎である。
 碑文は木原氏累代の世系と、当時の近郊の様子を知る好資料であり、江戸初期の記念碑としても様式上注目される。
 桃雲寺は、明治十三年(1880)八月に馬込万福寺と併合され廃寺となったが、現在は境内地若干と薬師堂のみが残されている。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

JR大森駅西口前のバス通りを下って、すぐ右に入った場所に薬師堂はある。

そこだけ違う時代の空気が流れているかのように、ひっそりとお堂は佇んでいる。

お堂の前に2基の石塔。

2基とも大田区指定文化財で、そのうちの1基、富士講碑については、「112東京23区の石造物指定文化財)大田区ー4)で取り上げた。

今回は、別の1基、桃雲寺再興記念碑。

説明板を読んでも、知らない人名と場所ばかりで、まったく興味が持てない。

肝心の碑文を読む能力がないから、初めから勝負はついているのです。