このブログは、私の興味関心を満たす学習のプロセスと結果を報告するものです。
「東京都大田区の指定文化財石造物」が今回のテーマですが、その全貌はネット検索すれば一目瞭然、あらためて報告するまでもありません。
それなのに、なぜ、写真を撮ってブログに載せるのか。
私が見たいと思い、知りたいと思ったからです。
なぜ、大田区なのか。
私が住んでいる板橋からは最も遠く、なじみの少ない区だから。
石仏めぐりでいくつかの地域を回ったことはありますが、なにしろ大田区は広い。
区の面積59平方キロは、23区最大。
回れなかった地域も少なくありません。
それと、池上本門寺があるからか日蓮宗の寺が多い。
こと石仏に限ると日蓮宗寺院は不毛な宗派ですから、敬遠しがちで、未訪問の寺ばかり。
と、いうことで、指定文化財石造物を撮ることを目的に改めて大田区を回り、その歴史と文化の一端に触れたいと思います。
今回を1回目として、いずれ23区全部の石造物指定文化財を見て回るつもり。
つまり東京23区をくまなく歩きまわるのがもう一つの目的ということになります。
指定文化財とは何か、など小難しいことはパス。
早速、紹介してゆきましょう。
写真下の青色文字は、大田区教育委員会の説明文です。
◇お七地蔵(大森北3-5-4 密厳院)
〈大田区指定 史跡〉 昭和49年2月2日指定
この地蔵は、江戸大火〔天和二年(1683)十二月二十八日〕をひきおこした、八百屋お七の霊を慰めるため造立されたと、伝えられている。
この事件は当時、井原西鶴の「好色五人女」に描かれ、その後も、浄瑠璃などで人々に親しまれた。
お七の刑死は天和三年(1683)三月二十九日で、台石銘文の貞享二年(1685)四月二十四日はその三回忌に当たる。
建立者は小石川村百万遍念仏講中。本像はもと鈴ヶ森刑場に建てられていたが、ある日。一夜にして当寺に飛来したという伝説がある。
地蔵なのに指定有形文化財ではなく、なぜ、史跡なのか。
大田区の文化財担当者の話では、鈴ヶ森刑場とのからみで史跡にしたとのこと。
なるほどと思いはするが、肝心の鈴ヶ森刑場は品川区にあるのだから、大田区の文化財担当者としてはちょっと残念な気持ちか。
写真フアイルから鈴ヶ森刑場跡地を出してみる。
おどろおどろしい写真が2点。
まず火あぶり台。
「台の穴に立てた鉄柱に処刑者を後ろ手にしてしばりつけ、足元の薪に火をつけて生きたまま焼き殺した」とは傍らの説明文です。
もう一つは、首洗い井戸。
処刑者の首を切り落とし、この井戸の水で洗ってからさらし首にしたのだそうです。
再び、密厳寺に戻ることにします。
お七地蔵は境内の傍らの簡素な覆い屋の下におわすのですが、その向かって左の石仏も区の指定文化財です。
〈大田区指定 有形民俗文化財〉 昭和49年2月2日指定
石造舟型で、阿弥陀如来像を彫った庚申供養塔としては、時代的に古いものに属し、造型的にもすぐれたものである。
大きな光背には庚申供養塔のためにつくられた趣意と、その造立年月が記されている。
この塔は寛文二年(1662)のもので、庚申塔としては本区では二番目に古い。
また、本塔のように法界定印を結ぶ弥陀の坐像を彫った庚申供養塔は、全国的にも稀といえよう。
三猿などは見られないから、庚申の文字が彫られているはずだが、目を凝らしても読み取れない。
大田区では、指定文化財の庚申塔は、全部有形民俗文化財に分類されています。
≪続く≫