石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

112 東京都大田区の指定文化財石造物(上)-2

2015-10-03 07:25:41 | 文化財

東京には、23区それぞれが指定する文化財石造物が多数あります。その指定文化財石造物を通して各区の歴史と民俗に触れようという企画、1回目は大田区です。件数が多いので、(上、下)編2回に分けて連載します。なお、青色文字は大田区教育委員会の解説文の写し

◇海難供養塔(大森東1-27)

 

〈大田区指定 有形文化財〉  昭和50年3月19日指定
 総高232センチ。
 安政二年(1855)に再建されたもので、海難供養塔としては、東京湾中屈指の規模をもつ。
 塔は、五輪塔の変形のような形で、水輪に当たる部分に胎蔵界大日如来の種子が刻まれている。
 台石に刻まれた銘文には、江戸や神奈川の魚貝業者をはじめ、一般の江戸町民や武士など約300名に及ぶ名が刻まれている。この塔は、地元の人ばかりでなく、広い地域のいろいろな階層の人々の協力寄進によって再建されたことがわかり、貴重である。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

 カメラを構えた背後は小学校の塀。

えっ、なぜこんなところに海難供養塔が?と誰もがいぶかるだろうが、江戸時代は、ここは海に面していたはずです。

大森海岸に流れ着いた水死者は相当な数だったのではなかろうか。。

地輪に刻まれた経文は、観無量寿経から。

「佛心者.大慈悲是.以無縁慈.攝諸衆生」。

仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもつてもろもろの衆生を摂す。

 

 ◇池上道道標(大森中2-7-10 大林寺)

 〈大田区指定 有形文化財〉  昭和49年2月2日指定
  享保十四年(1729)に、大森村の日蓮徒で組織された甲子講の人たちが建てたものである。
 もとは、東海道から分かれて池上本門寺に至る池上道の分岐点にあったが、道路拡張などの事情により近来当所の移された。道標の旧位置から、15町(約1.5キロ)で池上本門寺に至り、更にそのまま品川宿に行けることを示している。
 江戸時代に街道の諸所にあった道しるべは、しだいに失われつつある現在、交通史の資料として貴重である。(大田区教育委員会設置の標識板より〕

 めざす大林寺は下町商店街のど真ん中にある。

はて、お寺はどこでしょう?

手前の花屋の大売り出しの幟と宅急便のブルーの看板の向こうが参道入口。

山門脇に二基の石塔、左が区指定の道標です。

黒焦げているのは、震災か戦災か。

道の分岐点にあって初めて存在価値がある道標なのに、無関係な場所に移されて、果たして「交通史の貴重な資料」と言い切れるだろうか。

◇森ケ崎鉱泉源泉碑(大森南5-1-2 大森寺)

 〈大田区指定 有形文化財〉  昭和49年2月2日指定
 明治三十四年年(1901)に、森ヶ崎鉱泉の発見と泉効試験を記念に建てられた石碑である。もとは立田野旅館の側にあったが、現在地に移設された。
 正面には泉効をたたえた詩文が刻まれ、背面には百八十余名に建立発起人の名が記録されている。これらの人々は、おそらく鉱泉の開堀を発起し尽力した大森地区の有力者であったと考えられ、森ヶ崎鉱泉開堀当時の事情を伝える資料として貴重である。
 森ヶ崎鉱泉は、同三十五、六年頃には鉱泉宿ができはじめ、次第に東京近郊の保養地、臨海行楽地として栄えたが、太平洋戦争を契機として転廃業した。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

私は、森ケ崎鉱泉を初めて知った。

森ケ崎という地名も温泉街花街もとうの昔になくなって、知らなくて当たり前ではあるのですが。

森ケ崎は大森南に地名変更され、今やバス停に「森ケ崎」の名を残すのみ。

森ケ崎という素敵な地名を大森南に変更するなんて、なんたる愚劣。

そういえば、この一帯は大森東、大森西、大森中と安直な地名ばかり。

腹立たしい。

バス停「森ケ崎」の後ろが大森寺(だいしんじ)。

無住寺のようでひっそりしています。

本堂と塀の間の狭い場所に2基の石碑。

その右側が指定文化財の「森ケ崎鉱泉源泉碑」。

造立発起人に170人もが名を連ねるのは、小なりといえどもこの地に忽然と生じた歓楽街の関係者でしょう。

(森ケ崎鉱泉と海水浴場http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Spotlight/1052/fukuoyu.htmより借用)

源泉碑の左の石碑「魄光大尊霊」は何か気になる所だが、吉川英治の森ケ崎紹介記事を読んで、疑問が解けました。

維新当時、官軍に敗れた烈士彰義隊の一部が船橋から船で逃れやうとした。然るに羽根田沖辺りで暴風に遭って難破し、哀れにも死骸が森ケ崎の岸に漂着した。土地の者がそれを発見して懇ろに葬り塚を築いた。夫れが現に存っている無縁堂(大森寺)である。或夜不思議にも無縁塚に葬られた武士姿の若衆が夢枕に立って土地の者に霊泉の湧くことを暗示した。早速井戸を掘ると滾々として尽きぬ鉱泉が噴湧したのである」(『志がら美』第1巻第1号 大正7年3月)

溺死者の供養塔として造立されたのが「魄光大尊霊」だったというわけ。

森ケ崎鉱泉は大正から昭和にかけて、旅館50軒を擁する花街として栄えたが、太平洋戦争突入と共に寂れ、戦後、再び復興することはありませんでした。

かつての歓楽街の痕跡は、今、どこにもなく、つまらない街並みがだらしなく続くだけです。