宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

Ⅱ 七庚申と五庚申

2009年03月22日 | Weblog
  《↑ 鍋倉地森の庚申塚(後方の山は江釣子森山)》(平成21年7月31日撮影)
 ところで、安藤まこと氏の随筆『父と私と宮沢賢治(Ⅹ)』は次のように書き出している。
     =賢治と農業災害=
 宮沢賢治の詩といえば「雨ニモマケズ」が第一に思い浮かぶ。この詩は世に「雨ニモマケズ手帳」=遺品=昭和六年(一九三一)十月の上旬から年末か翌年初めてまで使用か・・・・に記されていたもの。この中で、賢治は「ヒドリノトキハナミダヲナガシ=後にヒデリノトキ=の間違いとされ、通説となっている」「サムサノナツハオロオロアルキ」気象災害への畏れと、農業科学者である自分が、それを克服できないもどかしさを常に感じていたらしい。中でも岩手に冷夏や稲の障害不稔をもたらす「山背」=初夏に太平洋から吹く北東の冷たい風。往々稲作に冷害をもたらす=には心を砕いていた。
 今の世でも解らないことが多々ある気象上の問題。先生は世俗の伝承などを手がかりにして問題解決に迫ろうとしてたのではなかろうか。
 その一つに庚申塚巡りがある。庚申とは干支でいう庚申(かのえさる)のこと。ふつうは一年に六回あるが、年によって五回だったり七回だったりする。昔の人は「七庚申は世中が良い」=豊作で皆が潤=とか、「五庚申は世中が悪い」といった。賢治は塚の年号からそれを探り出そうとしたのだろうか。(以下略)

      <句集『桐の花』より>
 たしかに安藤氏が書いてあるとおり、花巻の中鍋倉の講中の古老に聞いてみる(H21,2,25)と
   五庚申の年は凶作、七庚申の年は豊作
と言い伝えられているとのことである。
 一方、宮澤賢治はズバリ『庚申』と云う題の次のような詩
   歳に七度はた五つ、    庚の申を重ぬれば、
   稔らぬ秋を恐みて、    家長ら塚を理めにき。

   汗に蝕むまなこゆゑ、   昴の鎖の火の数を、
   七つと五つあるはたゞ、  一つの雲と仰ぎ見き。

   <『校本 宮沢賢治全集 第五巻』(筑摩書房)より>
で庚申のことを詠っている。
 ただしこの詩から推理すると、『七庚申』あるいは『五庚申』には秋の稔りが悪いと言い慣わされているので、凶作を畏れて家長達は塚を建てて供養しようとしてやって来たのだと賢治は認識していたことになる。おそらく、賢治はこのような農民達を不憫に思って詩の前半でこう詠んだのだろう。
 そして後半についてである。
 ”昴”は清少納言が『枕草子』で
   星は すばる、ひこぼし、明星、夕つつ・・・
といの一番にその美しさを称えているもちろんあの星”すばる”のことである。
【Fig.1 昴】

   <『星座図鑑』(藤井 旭著、ポプラ社)より>
 さて、この”すばる”は六連星(むつらぼし)とも呼ばれるように、一般には星が6つ集まっているように見える。ところが、毎日汗して働きづめの疲れ果ててしまった農民の目、汗をぬぐう暇さえ惜しんで働くゆえに蝕まれた農民の目からは”すばる”は7つに見えたり5つに見えたりもするのではなかろうかと賢治は推測したのだろう。
 こう賢治が捉えていたとすれば、農民にとっては「庚申」と「昴」は一般には6つだが時に5つであったり7つであったりするという同じ構造を持つことになる。そこで、賢治は『五庚申』『七庚申』に対する農民の畏れを昴に託して、農民を不憫に思って詠んだのだろう。
 さてここで気になるのは、賢治の認識は
  『五庚申』も『七庚申』も凶作
であり、先の古老の言う
  『五庚申』は凶作、『七庚申』は豊作
とは七庚申に関して矛盾があることである。

 そこで、まずは実際花巻及び周辺に建っている庚申塔及び岩手の農業災害についての次のような年表を作ってみた。
 *********************************************************************
     《年表1 庚申と岩手の稲作(1870~1960年)》
明治3(1870)年
明治4(1871)年
明治5(1872)年
明治6(1873)年:旱魃(不作程度の損害)
明治7(1874)年:旱魃(夏期霖雨で不作)
明治8(1875)年
明治9(1876)年
明治10(1877)年:不作(9月大風雨、10/3降雹、10月長雨)
明治11(1878)年:不作(洪水・虫害)
明治12(1879)年◎◎◎=『七庚申』
明治13(1880)年
明治14(1881)年◎
明治15(1882)年
明治16(1883)年
明治17(1884)年:不作(冷害)
明治18(1885)年
明治19(1886)年
明治20(1887)年
明治21(1888)年:不作(風水害による)
明治22(1889)年◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎=『七庚申』:不作(風水害による)
明治23(1890)年
明治24(1891)年
明治25(1892)年
明治26(1893)年
明治27(1894)年
明治28(1895)年
明治29(1896)年(賢治0歳):洪水(北上川出水で田畑流損)
明治30(1897)年◎(賢治1歳):不作(ウンカ、洪水のため)
明治31(1898)年(賢治2歳)
明治32(1899)年(賢治3歳)
明治33(1900)年◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎(17基)=『七庚申』(賢治4歳)
明治34(1901)年(賢治5歳):豊作
明治35(1902)年◎◎◎◎◎◎◎△=『五庚申』(賢治6歳):冷害(春以来天候不順出穂遅れ、収穫高平年に比し61%減)
明治36(1903)年◎◎◎◎△=『七庚申』(賢治7歳):東北地方飢饉
明治37(1904)年(賢治8歳)
明治38(1905)年(賢治9歳):大凶作。冷害(6月から低温霖雨。平年に比し66%減)
明治39(1906)年(賢治10歳):東北大飢饉のため窮民多数出る。冷害(東北地方全般が低温で不作)
明治40(1907)年(賢治11歳):戦後恐慌、大豊作
明治41(1908)年(賢治12歳)
明治42(1909)年(賢治13歳):旱魃(8月高温で降雨なく水不足)
明治43(1910)年(賢治14歳):秋豪雨のため不作。(洪水)
明治44(1911)年◎◎=『七庚申』(賢治15歳):旱魃(田植時に干天が続き水不足)
大正元(1912)年◎=『五庚申』(賢治16歳)
大正2(1913)年(賢治17歳):大凶作。冷害(春以来陰湿多雨。平年に比し34%減の凶作)
大正3(1914)年◎◎◎◎◎=『七庚申』(賢治18歳)
大正4(1915)年(賢治19歳)
大正5(1916)年(賢治20歳)
大正6(1917)年(賢治21歳):豊作、全国で米騒動
大正7(1918)年(賢治22歳)
大正8(1919)年(賢治23歳)
大正9(1920)年◎=『庚申年』(賢治24歳):(洪水)
大正10(1921)年(賢治25歳)
大正11(1922)年◎(賢治26歳)
大正12(1923)年(賢治27歳):(洪水)
大正13(1924)年(賢治28歳):旱魃
大正14(1925)年◎◎◎◎◎◎◎◎◎=『七庚申』(賢治29歳):豊作
大正15(1926)年(賢治30歳):旱魃(5~7月少雨。特に紫波郡で著しかった)
昭和2(1927)年(賢治31歳)
昭和3(1928)年(賢治32歳):旱魃(5&7~8月小雨)
昭和4(1929)年(賢治33歳):旱魃(6~8月小雨のため不作)
昭和5(1930)年(賢治34歳)
昭和6(1931)年(賢治35歳):冷害(早春雪異常に多く、4月以降気候不順で冷夏、多雨で凶作)
昭和7(1932)年(賢治36歳)
昭和8(1933)年(賢治37歳):豊作
昭和9(1934)年:冷害(4月から天候不順、7月以降低温・多雨・日照不足平年に比し56%の大減収)
昭和10(1935)年:冷害(4/30に晩雪。7月中旬より冷気襲来し低温・霖雨続き凶作。平年に比し22%減)
昭和11(1936年)年◎◎◎◎◎◎△=『七庚申』
昭和12(1937)年
昭和13(1938)年
昭和14(1939)年
昭和15(1940)年
昭和16(1941)年:冷害(7~8月低温、長雨で出穂遅れ凶作)、洪水、いもち病
昭和17(1942)年:旱魃
昭和18(1943)年
昭和19(1944)年
昭和20(1945)年:冷害(5~8月前半低温で大不作)
昭和21(1946)年:旱魃(7月低温、7~8月小雨)
昭和22(1947)年◎◎△=『七庚申』:冷害(6月異常低温と7~9月の3回の洪水のため不作)
昭和23(1948)年=『五庚申』
昭和24(1949年)=『七庚申』:旱魃(5月以降小雨)
昭和25(1950)年
昭和26(1951)年
昭和27(1952)年
昭和28(1953)年:冷害(苗代~本田初期低温、7~8月低温多雨で不作)
昭和29(1954)年
昭和30(1955)年
昭和31(1956)年
昭和32(1957)年
昭和33(1958)年:旱魃
昭和34(1959)年=『五庚申』
昭和35(1960)年=『七庚申』
<注>(1) 農業災害については
    『NHK文学探訪 宮沢賢治』(栗原敦著、NHK出版)と
    『岩手県農業史』(森 嘉兵衛監修、岩手県発行・熊谷印刷)による。
  (2) 庚申日は旧暦に基づいて調べたものである。
  (3)『五庚申』『七庚申』とはそれぞれ1年に庚申日が5回、7回ある年のこと。
  (4) ◎印は単刻の『庚申塔』
    △印は併刻あるいは追刻の『庚申塔』

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 そしてこの表からは、(もちろん想定内のことではあろうが)古老の言う伝承
  『五庚申』は凶作、『七庚申』は豊作
のとおりだとは言えそうにないことが判る。『七庚申』のときに冷害や旱魃がある場合もあり、『五庚申』のときに凶作でない場合もあることがこの表から判るからである。
 また同じような理由から、賢治の認識
  『五庚申』も『七庚申』も凶作
のとおりであるとも言えそうにないことがこの表から窺える。
 なお、私個人は『五庚申』と『七庚申』に対して次のような推測をしていた。
(1) 『七庚申』は閏年でしか起こらず、その年はかならずどこかに閏月が入るから1年13ヶ月となって平年の暦日とは大きなずれが生じる。したがって、一般に閏年は農作業が平年通りとはいかないために稲作がうまくいかず、そのために不作になる傾向があるのではなかろうかと。
(2) それに引き替え、『五庚申』は平年にしか起こらず、この年の方が平年通りの日取りで行えるだろうからかえって不作となることは少ないという傾向があるのでのではなかろうかと。
 残念ながら、上の《年表1》からはこのようなことが言えないことも判る。

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2 コメント

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庚申塔  (もののはじめのiina)
2019-01-26 10:05:56
庚申塔を気をつけてみると、至る所にあります。

宮沢賢治が庚申について詩を書いていたとは、おもしろいですね。

詳しくお調べでした。^^





ご訪問ありがとうございます (もののはじめのiina 様)
2019-01-26 20:14:11
もののはじめのiina 様
 ご訪問していただき、ありがとうございます
 一昔前に、花巻近辺を調べてみたことがありました。
 かつては花巻でも結構盛んだったようですが、最近はもうすたれてしまったようで、残念です。庶民信仰にはそれなりの意味と意義があったはずですから。
                     鈴木 守
 

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