自分でつけておいて、こういういい方はおかしいが、「日本一庚申塔の多い町ー佐野市田沼地区ー」というタイトルには問題がある。
まず、「日本一」かどうか怪しい。
確証がなく、間違っている可能性が高い。
「佐野市田沼地区」というのは、2005年、佐野市と合併するまでの「栃木県安蘇郡田沼町」のことである。
愛宕山から旧田沼町を臨む
旧田沼町の『田沼町史資料編1』によれば、旧田沼町の庚申塔の数は約3500基。
人口は約28000人だから、町民8人で1基の庚申塔という計算になる。
平成の大合併で行政区域の広い市が増えた。
庚申塔の絶対数が、3500基を超える所はあるかもしれないが、対人口比0.125、8人に1基という割合は、日本一ではないか(これも推論でしかないのだが)。
8人に1基だから旧田沼町を行けば、いたるところ庚申塔だらけと思ってしまうが、そんなことはない。
路傍に馬頭観音と肩を寄せ合っていたり、寺の山門脇にお地蔵さんと並んでいたり、他の町と変わった点はないのです。
では、3500基の庚申塔はどこにあるのか。
その大半は、山の上や林の中に群立しているのです。
『田沼町史第2巻資料編1(1981)』では、こうした群立地点を16カ所指定、地図に明記しています。
上の地図は、旧田沼町の一部だが、赤丸は庚申塔の所在地、青の四角は群立地を指す。
四角の大小は、群立する庚申塔の数の多少を表している。
ちなみに左の大きな四角、12番には、なんと1244基(1981年当時)もの庚申塔があるのです。
で、今回の趣旨は、この16カ所の庚申塔群立地をすべて尋ねてみようというもの。
町史と地図を持って、いざ、スタート。
①愛宕山庚申塔群(123基)田沼町
愛宕神社参道
愛宕山庚申塔群は、365段もの石段を上がった愛宕神社西側に点在している。
大きな石の庚申塔は残っているが、小さなものは姿を隠している。。
枯れ草に見え隠れする小石は、みんな庚申塔。
掘り起こせば、どれにも「庚申」の文字がある。
こうして頭を出して見えるものはまだいい。
地面の下に埋もれているものが多い。
造立年が分かるものが51基。
そのうち47基が万延元年となっている。
万延元年の庚申塔
明治44年編纂の『田沼郷土史』によれば、「万延元年に愛宕山頂で古墳が発掘され、人骨や武器が多数出土した。その時一緒に出た石灰岩を用いて庚申塔100基を建てた」とある。
ちなみに万延元年は1860年で、庚申年。
江戸も後期で、庚申信仰が最盛期の頃だった。
庚申塔100基建立の背景には、「百庚申」の思想があったと思われる。
百庚申というのは、1か所に百の庚申塔を建てること。
海上宮(銚子市)の百庚申
市杵嶋神社(前橋市)の百庚申
もともと庚申塔の造塔そのものが諸願成就の手段であったから、100という多数の庚申塔を建立すれば、願いはさらに達成されやすいだろうという庶民の計算がそこに透けて見える。
だが、「百庚申」でもなさそうなのだ。
なぜなら「千庚申」と彫られたものがいくつもあるからです。
しめ縄に隠れて「千」の文字 寄り添っている右も千庚申
実は、「百庚申」には①一カ所に百の庚申塔を建てる、②一石に百の庚申の文字を刻む、③一石に「百庚申」と刻む、の三種類がある。
「千庚申」は、一カ所に千の庚申塔を建てる例はさすがにないが、千個の文字を一石に刻むものは佐野市の隣、足利市にある。
徳蔵寺の千庚申(足利市)
だが、99.99%は一石に「千庚申」と彫ったもの。
安逸というか怠惰というか、人はこうまでして楽して利益を得ようとするものかと呆れるほどである。
単に「庚申」と彫った庚申塔と「千庚申」と彫ったものとどっちがよりご利益があったのか、設立者それぞれに訊いてみたいものだ。
このあと旧田沼町庚申塔群に「千庚申」が続々と登場する。
しつこくて、くどくなるので、ほどほどにしておきたいが、珍しいものなのでついついとり上げてしまうことになりそうだ。
②籠山庚申塔群(100基)戸奈良町
籠山を探すのに苦労した。
旧田沼町役場へ行って聞いた。
あいにくの日曜日で守衛が3人詳細地図をめくって探してくれたが、分からない。
この辺りと見当をつけたところで年配の男の人に聞く。
「鹿島神社の奥さんに訊けばいいよ。多分、こう行くんだと思うけれど」。
鹿島神社では、ご婦人が草むしりをしていた。
訊けばいいものを「多分、こう行く」方向へ車を走らせる。
道が狭くなり、車を止めて山の中へ。
行けども行けども庚申塔は姿を現さない。
「熊出没」の看板が出てくる始末。
あきらめて引き返し、神社の奥さんに訊く。
「そこですよ」とすぐ後ろの小高い丘を指す。
中央の小高い丘が籠山
籠山への入り口に青面金剛。
籠山庚申塔群100基のうちただ1基の像塔。
しかも100基の中で最も古い享和8年の造立です。
小道の両側に伏せている石がゴロゴロ横たわっている。
全部、庚申塔。
「庚申」の文字が見えないものも、裏返せば文字が見える。
立っている庚申塔の方がずっと少ない。
誰も顧みなくなって何十年が経つのだろうか。
ここでも頂上の一番奥まった場所に大きな「千庚申」が立っている。
山を下りると民家の裏に出る。
そこに4基の石造物。
馬頭観音や庚申塔とともに、これは何というべきか。
四角い石の一面に「庚申」の文字が12個ほど彫られている。
庚申塔の一部だったものだろうが、完成形はいかなるものか想像できない。
この家の人に訊いてみたかったが、若い夫婦は裏の籠山に庚申塔が沢山あることも知らないようなので、質問するのをやめてしまった。
③岩崎八幡宮庚申塔群(55基)岩崎町
キツネにつままれたような気がした。
八幡宮の鳥居の脇に4基の庚申塔があるだけで、残りの51基はどこにもない。
岩崎八幡宮
鳥居脇の庚申塔
境内の裏山にも入り込んで見たが、ひとつも見つけられない。
氏子代表に訊いてみた。
そもそも55基もあったことを知らないという。
「町史にそう書いてある。30年前にはあったはずだ。いつ整理したのだろうか」。
そう聞いても、知らないものは答えようがない。
結局、分からないまま放置してある。
④鏡岩庚申塔群(344基)長谷場町
鏡岩への道が狭くなって、車は通れなくなった。
最も山際の家へ行く。
「亀山」という表札がかかっている。
60代の男の人が出てきた。
「鏡岩へ行きたい」と告げると地図を書いてくれた。
書きながら「上へ行くと道はないよ。それに傾斜がきつい。片道1時間はかかるな」とブツブツ。
地図に従って歩いて行く。
15分ほどで鏡岩入口に到着。
鏡岩入口
石組の上に庚申塔が3基もたれ合っている。
亀山さんの話では、毎年2月、ここで10軒の者が集まって酒宴を開くのだそうだ。
2月の酒宴以外、庚申講の集まりはないという。
杉林が続く。
道はないが、ところどころに転がっているなめらかな石は庚申塔だから、それを道筋にして上って行く。
杉林を出ると、とたんに傾斜がきつくなる。
木の枝をつかんで体をずり上げる。
一歩よじ登っては休み、休んでは這いつくばって登る。
傾斜が急な写真を撮ったつもりでいたが、そういう感じには撮れていない。
山の写真は難しい。
もはや地図は意味をなくしている。
真ん中の霧がかかっている山の下に鏡岩がある
どこを上っているのか、あと鏡岩までどれだけあるのか、そういうことも分からないまま、急な山道を上がるのがつらくなって、このまま折り返そうかと思った時、ラジオの音が聞こえた。
亀山さんの携帯ラジオだった。
地図を渡したものの心配になって、追いかけて来てくれたのだと言う。
崖の上から声をかけてくれる亀山さん
亀山さんに励まされながら、鏡岩にやっとたどり着いた。
出発して1時間を優に越えていた。
鏡岩は、まるで砥石で研いだような滑らかな一枚岩。
その昔、人々はこの岩をご神体として崇めたはずである。
鏡岩周辺には角柱塔の庚申塔が多い。
町史史料によれば、天鈿女尊(あまてらすおおみかみ)と猿田彦尊の文字の上に夫々の像が彫られている庚申塔があるはずだが、石の表面が剥がれおちてしまってよく分からない。
剥がれおちた一部を元に戻してみる。
「猿田彦尊」の文字の部分だった。
自然石の庚申塔も数多い。
中には庚申の文字が彫られていないものもある。
石に庚申と彫るのでも金がかかる。
貧しいが庚申塔を寄進して祈りたい。
どうしたか。
庚申と墨書した石をここへ持ち込んだ。
墨はたちまち消え去り、石だけが残った。
町史執筆者は、こう推測するのだが、同感である。
猿田彦像があることから分かるのだが、この鏡岩周辺の庚申塔はみな江戸時代後期のものばかりである。
庚申塔は江戸時代初期には講中や村の安全を祈ったものだったが、江戸時代も後期になると個人の神として、しかもオールマイティの神として信仰されるようになる。
百姓にとっては、豊作をもたらす作神であり、商人にとっては商売繁盛の神であり、漁師には豊漁の神であった。
悪疫を防ぎ、病気を治す長生きの神でもあって、人々は二世安楽を庚申さまに祈ったものだった。
今や土に戻りつつある無数の小石には、そうした人々の切ない願望が込められているのです。
帰りの下り道は、また大変だった。
前夜の雨で土が濡れていて滑りやすい。
落ち葉がズルっと動くと体勢を立て直す間もなく、そのまま滑り落ちる。
デブだから加速がついて止まらない。
ジーパンは泥だらけとなった。
杉の木の幹が泥で汚れている。
僕がこすりつけたのではない。
犯人はイノシシ。
泥の高さでイノシシの大きさが分かると亀山さんは云う。
これは中の上くらいらしい。
⑤大六天庚申塔群(84基)長谷場町
県道わきの小高い岩山一帯に庚申塔が並んでいる。
きちんと整理されている所もある。
誰かが、埋もれていた庚申塔を掘り起こして、並べたらしい。
まわりには掘り起こした跡が点々とある。
並んでいる庚申塔の数はせいぜい40基。
1981年には81基あったわけだから、半分は埋まってしまったことになる。
それともこの掘り起こした跡は、盗掘の跡なのだろうか。
川原石に彫った文字庚申塔を盗む人はいないように思うのだが。
⑥稲村観音堂庚申塔群(56基)白岩町
県道横の赤い屋根の隣が稲村観音堂。
車列は釣り人たちのもの。
道路に沿って流れる小戸川のヤマメ漁の解禁日だった。
観音堂の裏山に庚申塔が点在している。
稲村観音堂
荒れ放題の庚申塔群の一つ。
他所に比べて比較的大きな自然石の庚申塔が多い。
千庚申は2基あったが、百庚申が見当たらない。
珍しいと言うべきか、青面金剛像がある。
⑦下出庚申塔群(18基)白岩町
ここにも釣り人の車の列。
車列と岩山の間の狭い空間にお地蔵さんと庚申塔。
町史によれば18基あるはずの庚申塔は、2基しか見えない。
「庚申塔群」と名付けるには寂しい限りだ。
一つには「天明八年 奉尊拝百庚申」と刻されている。
「奉尊拝」だから「百基の庚申塔を参拝した記念にこの塔を奉納する」ことになる。
欲ボケで数字を多く書いたわけではないようだ。
実は、このあと巡る庚申塔群からは、「二千」、「五千」、「一万」の数字のついた庚申塔が見つかっている。
数が多ければご利益も多いだろうという欲深根性なら、みんな「一万」にしただろう。
書くだけなのだから「百万」があったっておかしくない。
そうではなく、「千」であるるのは、実際に千基の庚申塔を拝む行為があったからではないか、そう思えてならない。
「天明八年」造立の庚申塔だが、庚申年ではない時では「天明年間」が58基と最も多い。(『田沼町史資料編』)
天明の大飢饉で農村地帯は疲弊しきっていた。
「神にもすがる思い」の神が、庚申さまだったことになる。
もう1基は石塔の頭だけが見える。
横に右から庚申の2文字。
その下に山が三つ書いてある。
この庚申塔が全身を現していた頃、見た人の記憶では、この山形の下に「庚申」の文字が縦に、ランダムに28個か29個彫られているとのこと。
珍品なのに地面に埋もれているのは、惜しい。
珍品と言えば、下出庚申塔群にあると町史に載っている下の写真の庚申塔も見当たらない。
残念なことだ。
⑧細尾沢入口庚申塔群(129基)作原
作原太鼓橋の手前を左へ。
左に農家がある。
若い男がいたので訊く。
「庚申さま?そういえば、おじいちゃんがあそこにあるって言ってたな」と道を挟んだすぐ向こうの林を指す。(写真では赤い橋の右の林)
昼なお暗き林の中に石が傾き、横たわり、乱雑に散らばっている。
16の田沼町庚申塔群で最も見向きもされず、抛っておかれた庚申塔群だろう。
青面金剛を表す種子を冠するものが多い。
青面金剛塔もあれば、青面金剛像もある。
千庚申は5基あるはずだが、3基しか見当たらなかった。
寛政十二年と記念するものがある。
寛政十二年(1800)は庚申年で、旧田沼町では、造立年が判明している庚申塔では59基と万延元年に次いで多い庚申塔である。
庚申塔にまじって素朴な石仏がおわす。
この地は通称「十二御前の墓」と言われるのだそうだが、十二御前というのは源義家の奥州征伐にからむ伝説に登場する姫。
その姫にちなむ「夜ばい地蔵」だと町史には書いてあるが、分かったような分からないような・・・
目鼻はなく、顔立ちは分からないが、優しく微笑んでいるような味わいのある石仏です。
これで16カ所の旧田沼町庚申塔群の半分を紹介した。
後編は、4月16日にアップの予定です。
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