観自在菩薩冥應集、連體。巻5/6・24/39
二十四竹生島の観音幷松室の稚児 仙人となること。
近江國浅井郡竹生島の千手観音は行基菩薩の建立なり。竹生島は江州湖水の中にありて其の岩石に水晶並びに宝珠多し。本州五奇異の一なり。傳て曰く、孝霊天皇四年(紀元前286年か)に江州の地裂けて湖水始めて湧出し駿河国に富士山忽ちに出ずと。又景行天皇十年(245年)湖水の中に竹生島初めて湧出すと。行基菩薩此の嶋に渡り玉ふ時に神女形を顕して行基菩薩に逢玉ひ、この島に寺を建て観音の像を安置し玉へと告げ玉ふ。依って弁財天女を勧請し観音の尊像を安じ玉ふと云へり。昔都良香といふ人、此の島に詣して風景を愛し三千世界眼前に盡ると一句を吟じられければ(十訓抄に「都良香竹生島に参りけるに眺望心にすすみて、三千世界眼前盡と云句を作りて其の末を安じ得ざりければ霊天託宣を下して、十二因縁心裏空、一句を加へ給ひけり。」)神納受歓喜したひたるやらん。神殿大に揺動して貴き御聲にて十二因縁心裏空と付けさせ給ふと云へり。又南都の松室の仲算と云し人は何れの處の人といふことを知らず。空晴法師(平安中期興福寺別当)興福寺の北門を過る時に六七歳ばかりの児あり。晴、問ふ、汝は何れの處の児ぞと。児云く、我に父母なく又居住なしと。晴怪しみて具して寺に帰り養育するに児の髪赤く貌も偉なり。成長するに随って博学多通なり。是を仲算大徳と云ふ。傳は釈書に詳らかなり。さて此の仲算に一人の児あり。昔は叡山の楞嚴院に在りける児なりしが如何にしてか来たりけん、仲算の方に来たりて仕ふ。容儀閑雅にして柔和慈悲なり。勤めて修学して常に法華を誦する程に仲算も殊に愛し玉へり。或る時この児失ひて見へず。仲算大に驚きて普く尋ねれども遂に行方知れず。然るに児は山中に入りて食せざる事月餘、常に法華を誦して仙人となれり。其の後仲算の奴、山に入りて薪を採るに遥かに人の聲を聞く。熟ら見れば彼の児、樹上に在りて法華を誦せるなり。児曰く、汝寺に帰りて師に告げよ、我偶たま此に来たれり。相見んとおぼしめさば急に来たり玉へと。奴、涙を流し喜びて走り帰りて斯と白すに、公悦び走りて山中に行く。児の曰く、我法華受持の功積もりて既に仙人となれり。されば人間の交りを断ちぬ。今日はからざるにおめにかかりて辞すること幸の中の幸なり。毎年三月十八日近江國竹生島に神仙の会あり。我も亦往く。今師の琵琶を請ふて持ち行かんと思ふ。願は貸し玉へと。仲算涙を流して即ち平日弾ぜし所の琵琶を以て児に授けて泣く泣く別れて寺に帰り恋慕の涙乾く事なく次の年の三月十八日に竹生島に詣して待ち玉ふ處に雲中に幽かに音楽の音聞こへければ此の中にぞ我が児もあるらんと懐かしく思ひ玉ひけるに、何やらん船の中に落としたるを見れば琵琶なり。異香薫ずること限りなし。仲算琵琶を抱きて悲泣し玉へども甲斐なく、空しく南都に帰り玉ふ。或る説には児、仲算の夢を見て琵琶を借りたるといへり。又一説に仲算竹生島に詣し玉へば天女出現し玉ふほどに、とりあへずかく、
「神となる 誓の海の廣ければ 深きもたのみ 沖津島姫」
とありければ、御返しと覚へて貴き御聲にて、
「春の日の 波間に白き朝ぼらけ 漕ぎゆく舟や 月に乗るらん」
と詠じ玉ふとかや。其後仲算も亦終る處を知らず。或は那智の滝に上り去ると云ふ。同じく昇仙して去るものか。竹生島の縁起に曰く、近江の湖を琵琶湖と云、琵琶の形なり。先ず竹生島は覆手なり、小島は撥なり。嶋の内の宮殿は陰月なり。白石と竹島とは半月なり。沖ノ島は遠山なり。勢多の橋は鹿頭なり。宇治より大海までは海老尾なり。四方の流れは四絃なりといへり。されば弁才天女所持の琵琶の形なれば別して天女の愛し玉ふなるべし。或る説に弁才天女は即ち如意輪観音の化身なりと云へり。石山三井寺も亦如意輪にて湖水の景絶勝の處なれば本迹異なりといへども不思議一なるものか。是の島は三十三所の第三十番なり。