観自在菩薩冥應集、連體。巻6/6・29/52
二十九林丘寺の観音霊感の事
叡山の麓に林丘寺と云あり。本尊は智証大師作の観音なり。初めは大津の池田圓信が家にありて諸人信仰し観音講を勤る事二十年種々の感応あり。具に記しがたし。しばらく一二を出さば、三井寺の善法院法印に幹事の人名はなにがしと云者あり。大津の能基氏と中あしくして久しき怨みなり。ねらひて討んとす。法印予め知りて常に観音の名号幷普門品を唱へしむ。能基大刀を挟んで寺の側に忍び其の出るを待って伐とする事五六日なれども終に敵の出入りの影を見付けざれば是非なく止みにけり。法印大に喜んで衆の為に普門品を講じて観音の利益を讃揚せられけるに池田圓信も毎日その講席に列なりて聴聞せり。或日一人の幼子久松と云者、刀を抜てとりて回す程に手を切て血流る。母驚きて見るに手には少しも疵なし。不思議に思ひ観音の形像を拝み奉るに宝冠より天衣に至る迄血にまみれ玉へり。さては我が子の手を切りたるを観音の身代わりに立玉ひて恙なかりけりと喜ぶ事限りなし。諸人傳聞て日々に参詣し結縁の者多かりけり。されば光子内親王(後水尾天皇の第八皇女。林丘寺開基。号は照山元瑶。元瑶内親王、林丘寺宮)此の事を聞しめして渇仰し玉ひ宮中に迎て廣大に供養し尊重し玉へば、上皇を始めて宮中の男女礼拝供養せずと云事なし。後に此の像を林丘寺に安置し奉れるなり。