慶応大学図書館で「釈宗演と近代日本展」が開催されており、拝観してきました。
実は福沢諭吉も慶応も軽薄な近代化の象徴の様に思っていていままで敬遠してきました(実際釈宗演老師も慶応は「三田の活き地獄」とおっしゃっています)。しかし尊敬する釈宗演老師の展覧会と聞いてとりあえず暑いさなか出かけてきました。結果は当時の日本のリーダー達がいかに精神的な高みを求めていたかがわかり今の日本の現状に引き比べて大変まぶしく映りました。そして今までの諭吉への反感は相当薄らぎました。諭吉は西洋化で日本の独立が危うくなることを恐れ佛教擁護を公言し、釈宗演老師や土岐法龍高野山管長のシカゴ万国宗教者会議行きを支援し、またユニテリアン協会宣教師マッコーレーに土岐や釈宗演の行う仏教伝道の協力を依頼していたこともわかったからです。
しかしなにより老師は私が年来尊敬申し上げてきた殆どの人と縁を結ばれていたことに驚きました。師は今北洪川ですし、真宗の名僧七里恒順、釈宗演の慶応学費を支援した保証人となった鳥尾小弥太、成田山新勝寺貫主池田照誓、高野山管長土宜法龍、翻訳を手伝った鈴木大拙、弟子の山岡鉄舟、中江兆民、千崎如玄等・・皆私が密かに私淑する人たちと深い御縁があったのです。
また日露戦争時、金州城外で戦死者を弔う写真がありましたが無数の死体を前に老師が立っておられる姿はなぜか東日本大震災時に仙台青葉区の体育館でお経をあげたときの夥しい遺骨群を思い出しなんともいえない気持ちになりました。大智度論二十八に「一人の一劫の中に畜生となる時は・・その手首を切られその身を切られるにこの如き等の血はこの水よりも多し。此の如くにして無辺の大劫の中に身を受け血を流すことはあげて数ふべからず。啼哭の流涙及び母乳を飲むもまたこの如し。一劫の中の一人の積骨を計るにビフラ山よりも過ぎたり・・」とあるのを思い出します。
受付には円覚寺の若い修行僧がお二人坐っておられ円覚寺の御朱印をくださいました。「慶応の学生は来ますか」とたずねると「マイナーな展覧会ですから」と謙遜した答えが返ってきました。「いや大変大切な賢覧会です。有難うございました。」といって帰ってきました。
実は福沢諭吉も慶応も軽薄な近代化の象徴の様に思っていていままで敬遠してきました(実際釈宗演老師も慶応は「三田の活き地獄」とおっしゃっています)。しかし尊敬する釈宗演老師の展覧会と聞いてとりあえず暑いさなか出かけてきました。結果は当時の日本のリーダー達がいかに精神的な高みを求めていたかがわかり今の日本の現状に引き比べて大変まぶしく映りました。そして今までの諭吉への反感は相当薄らぎました。諭吉は西洋化で日本の独立が危うくなることを恐れ佛教擁護を公言し、釈宗演老師や土岐法龍高野山管長のシカゴ万国宗教者会議行きを支援し、またユニテリアン協会宣教師マッコーレーに土岐や釈宗演の行う仏教伝道の協力を依頼していたこともわかったからです。
しかしなにより老師は私が年来尊敬申し上げてきた殆どの人と縁を結ばれていたことに驚きました。師は今北洪川ですし、真宗の名僧七里恒順、釈宗演の慶応学費を支援した保証人となった鳥尾小弥太、成田山新勝寺貫主池田照誓、高野山管長土宜法龍、翻訳を手伝った鈴木大拙、弟子の山岡鉄舟、中江兆民、千崎如玄等・・皆私が密かに私淑する人たちと深い御縁があったのです。
また日露戦争時、金州城外で戦死者を弔う写真がありましたが無数の死体を前に老師が立っておられる姿はなぜか東日本大震災時に仙台青葉区の体育館でお経をあげたときの夥しい遺骨群を思い出しなんともいえない気持ちになりました。大智度論二十八に「一人の一劫の中に畜生となる時は・・その手首を切られその身を切られるにこの如き等の血はこの水よりも多し。此の如くにして無辺の大劫の中に身を受け血を流すことはあげて数ふべからず。啼哭の流涙及び母乳を飲むもまたこの如し。一劫の中の一人の積骨を計るにビフラ山よりも過ぎたり・・」とあるのを思い出します。
受付には円覚寺の若い修行僧がお二人坐っておられ円覚寺の御朱印をくださいました。「慶応の学生は来ますか」とたずねると「マイナーな展覧会ですから」と謙遜した答えが返ってきました。「いや大変大切な賢覧会です。有難うございました。」といって帰ってきました。