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福聚講

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金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・53

2017-07-03 | 霊魂論

弘法大師の提撕によれば顕密二教の実相観に因分と果分との異なりがある。その因分とは顕密の説にして果分とは密教の義である。

顕教の諸法実相観一概に釈しえざるものあるも、かの智度論第二十に明かすが如く、諸法の無自性空義を実相の意義となすものである。即ち諸法は因縁生無自性なるがゆえに、その実相常寂滅の涅槃真実相なりとは顕教の諸経論に等しく説かれたるところである。

かく諸法の寂滅の空義を実相の体となすはさきにも述べたるが如く、顕教は衆生の我執煩悩を滅除するを専らとなす教へなるゆゑ、無我性空の理を観じ、寂滅の理に相応せしめんとするものである。即ち顕教の実相観とは無我空観である。

この空観はこれ因果制約の世界を超越し、主客対立の認識の世界を超越し、生佛(衆生と仏)を超越し、自我をも超越する道なのである。この空観によって微細なる能所の細惑を断ずるところに開顕せらるる超越界こそ自性の本土である、如来の果境(覚りの世界)である。

( 密教は)この世界に入って初めて一切諸法は本来の面目を露呈し、本来の意義を開顕せるものである、かく如来自証の境、即ち我の絶対自覚の立場より一切を見、一切は皆如来常住の生を体せる毘盧遮那具体なりと見るを密教の實相観となす。

かくのごとく顕教の実相観は無我観が根底となり、密教の実相観は[絶対我]肯定がその根基となれるは、これ因果二分の立場の相違に依るものである。なほ顕密二教の所説の相違を認識について釈せば、小乗にては六識を説き、大乗にては七識八識九識十識等の識体を明かす。
その第七識(末那識)とは我見を生する迷妄の識にして、第八識(阿頼耶識)は不生滅の真心と生滅の妄法と和合(但し法相宗所用の第八阿頼耶識は唯生滅の有為法)せる識である。この六、七、八識はこれ迷界の個別体の本質たるものである。空観に住し、この六、七、八の分別識を破り、相続の心相を滅するところに主客未分、真妄未和合、意識以前の自心の本性が顕はるるのである。この自心本来の自性清浄心をば、第九阿摩羅識,第十一一心識等といひ、また第十識の上に開設するところの密教の無量の心識、不二心識等も凡てこれ自心性の開演である。

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