観自在菩薩冥應集、連體。巻3/6・13/29
十三清水寺の縁起幷報恩大師の事。
京都東山清水寺八尺(2.4m)の千手観音の像は光仁天皇宝亀十一年(780年)に始まる。本願は延鎮法師(奈良-平安時代前期の僧。法相宗。子島寺の報恩の弟子。宝亀9年(778)行叡とであい,京都東山の音羽山に庵をむすぶ。延暦17年(798)坂上田村麻呂が同地にたてた清水寺の開山)檀主は大納言坂上田村麻呂なり。其由来を尋るに大和州高市郡八多郷子嶋寺の住持に報恩大師の弟子に堅心法師と云人あり。少年にして出家して六時三昧(晨朝 ・日中・日没 ・初夜・中夜・後夜の六時に念仏・懺法 などを一心に勤めること)年を重ねて怠らず。苦修練行日を積んで倦む事無し。或る夜夢に告げありて、宝亀九年四月八日に長岡に至んとするに、淀川に金色の流れ一すじあり。即ち水の源を尋ねて河を泝に山城國愛宕郡八坂郷音羽川の水上、清水の滝の下に到るに岸の上に一の草庵あり、中に白衣の老人あり、千手陀羅尼(「のうぼう。あらたんのうたらやあや。のうまくありや。ばろきていじんばらや。ぼうじさとばや。まかさとばや。まかきゃろにきゃや。おん。さらばらばえいしゅ。たらだきゃらや。たすめい。のうばそきりたば。いまんありや。ばろきていじんばら。たばにらけんた。のうまくきりだや。まばりたいしゃみ。さらばあらたさだなん。しゅばんあぜいえん。さらばぶたなん。ばばまらぎゃびしゅだかん。たにゃた。おんあろけい。
あろうきゃまち。ろうきゃちきゃらんてい。ちい。ちい。かれい。まかぼうじさとば。さんまらさんまら。きりだや。くろくろ。きゃらまん。さだやさだや。どろどろ。びじゃえんてい。まかばじゃやえんてい。だらだり。んどれしゅばら。しゃらしゃら。あまら。びまら。あまらぶくてい。えいけいき。ろけしゅばら。らがびし。びなしゃや。どべいしゃびしゃ。びなしゃや。もうかしゃらびしゃ。びなしゃや。ころころ。まらころかれい。はんどまなば。さらさら。しりしり。そろそろ。ぼうじやぼうじや。ぼうだやぼうだや。まいとりや。にらかけんた。きゃましゃ。だらしゃなん。はらからだまやな。そわか。しつだや。そわか。まかしつだや。そわか。しつだゆけい。しゅばらや。そわか。にらけんたや。そわか。ばらかぶきゃ。そわか。ぶきゃや。そわか。はまかしつだや。そわか。しゃきゃらあしつだや。そわか。 はんどまかさたや。そわか。しゃぎゃらゆくたや。そわか。しょうきゃしゃぶたねい。ぼうだのうや。そわか。まからくただらや。そわか。ばまそけんたじしゃしちたきりしっだじなや。そわか。びぎゃらしゃらまにばさなや。そわか。
のうぼう。あらたんのう。たらやあや。のうぼうありや。ばろきてい。じんばらや。そわか。しっしゃじんとう。まんたらばだや。そわか。」)を誦す。堅心その名を問ふに答て曰く、「我をば行叡居士といへり。此の地に隠居すること既に二百歳なり、汝を待つこと久し。今ここに来れり。我東国行脚の願あり。我に代はり暫く此處に住すべし。此の草庵は伽藍の地によし。庭前の大樹は千手大悲の像を作る料木なり。是過去拘留孫佛の時の木なり。千佛手摩の木槵子を植られたり。若し我遅く帰らば汝早く造立せよ」と言終りて居士即ち東に向て去りぬ。堅心恋慕の涙袂を湿し、追求の心尤も切なり。依て東を指して尋行くに山科の東峯に翁の著る所の履あり。堅心履を取て帰りつらつら思ふに翁は即ち観音の化身ならんと知る。然るに約束の尊像を作り伽藍を建立せんと思へども三衣一鉢の外蓄へなければ荏苒として材に対するに宝亀十一年(780)近衛将監坂上田村丸妻の産の薬の為とて鹿を追て此の山に来たり奇異の流木を見る。今の延年寺の谷と云處なり。即ち源を尋ねて滝に到り草庵の前にして堅心に逢て所住の故を問ふに行叡居士の告げし事を委しく語る。時に田村丸信心を起こして檀越とならんことを契り家に帰り妻の高子に語るに、命婦高子は三善清継の息娘なり、悦んで「我本より此の志あり」とて夫婦心を一にして先ず佛殿を造んとするに、山深くして険阻、樹林の陰寸借も平地なく、人力の及び難き事を嘆く所に、或る夜物の聲山中に満ちて岸を崩す。一夜明けてみれば地平なり。其の處に鹿の子あり。知りぬ是鹿にはあらず、唯薩埵の使たらんと。彼の鹿の頭を留めて蔵庫に納め、今に霊宝とす。かくの如くの神威一にあらず。さて霊樹を截って堅心、報恩大師と共に八尺四十臂の千手観音の像を造り奉る。像成りて後、田村丸上奏して度者一人を申し賜りて先ず堅心法師を度す。其の時に改めて延鎮と云ふ。桓武天皇の御宇延暦十四年(795年)春東海より夷蜂起の由頻りに其の聞へあり。征伐の為田村丸を以て征夷大将軍として差し下し玉ふ。延鎮法師精誠を抽んでて地蔵毘沙門の二像を造立して壇上に安置し玉へば二尊御音を出して東方に向ひ玉へり。さて戦に勝ちて上り清水に詣して延鎮法師に禮謝し玉ひ、戦場にて一人の老僧出て夷の射る矢を防ぎ拾ひ、一人の翁あって夷を射て斃す。神の力、佛の威徳あらはれて敵陣に雷電霹靂して陣中に落ちければ多く打たれて死し終に敗北せりと語り玉ふ。延鎮法師は又二尊の霊異を云ふ。将軍壇上の尊像を拝し玉ふに二尊に矢の疵、刀の痕ありて御足は泥土に汚れ玉へり。将軍大に驚て陣中の二人の翁は知ぬ是尊像なりとて即ち奏聞して延暦十七年(798年)に更に伽藍を造り本尊を安置して征夷の為に造る二尊を観音の脇侍とす。勝軍地蔵を右脇とし、勝敵毘沙門を左脇とし玉ふ。其の後も此の二尊御音を出して堂舎の吉凶を告げ玉ふ事度々なり。本尊の霊験数百条あるべしといへども、旧記多く応仁已来の兵燹にかかりて烏有となんぬ。沙石集宇治拾遺等の中に記せる七八条と近代の事三五を出すのみ。報恩大師は備中の人なり。十五にして家を離れ吉野山に入りて観音の呪を持して四五載の間に効験を得玉へり。傳は壺坂幷日差山の下に詳かなり。(「観音霊験記巻二西国六番和州壷坂寺」に「大和國高市郡壺坂寺丈六千手の像は桓武天皇の願主、沙門報恩の開基なり。・・帝御悩あり、報恩に勅して加持せしむ。帝の御悩すなわち平癒し玉ふ。・・」)(日差山は
さて新古今集釈教の歌に
「猶たのめしめじが原のさしもぐさ我世の中にあらんかぎりは」(私を頼みし続けなさい。たとえあなたがしめじが原のさせもぐさのように、胸を焦がして思い悩むことがあっても。清水寺の観音歌で、悩み事で身が衰弱した女に示された歌新古今和歌集・1916)とあるは清水の観音の詠じ玉ふと傳るなり。