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福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

四国八十八所の霊験その45

2014-06-14 | 四国八十八所の霊験
 「国家の品格」で数学者藤原正彦氏は宗教心の厚い、品格のある国が栄えると喝破しました。
ドラッカーは「経営者は、学習して身につけることはむつかしいがどうしても持っていなければならないものがある、それは品格である」といいました。「実業読本」で武藤三治は「品性・・・私は会社の従業員にはスマイル博士の「品性論」を与え、品性を磨くよう奨励している。品性は人生において最も大切なものであって,・・富の力よりも品性の及ぼす感化が一層社会の円満なる向上発展に貢献するものである。・・ドイツが(第一次大戦を引き起こし敗れたのは、ドイツ人の品性が粗豪驕慢で)全くドイツ国民の品性の低きがためであった。・・、しからざるものは衰亡の運命を免れぬ。・・」と書いています。

具体例をあげておきます。住友財閥の創始者は涅槃宗僧侶の住友正友です。旨意書「浮利に趨り軽進すべからず」は有名です。 昔は住友財閥の理事には座禅をやってなければなれませんでした。大阪茶臼山の住友本家には禅堂があったということです。最近でも住友金属元社長田中外次は一橋大の座禅会如意団の出、住友生命横山進一社長は40年以上朝晩1時間座禅を組んでいると新聞に紹介されています。
また三井財閥の創始者三井高利は「現銀掛け値なし」という新商法を掲げ、呉服の価格を下げ、また、呉服は反物単位で売るという当時の常識を覆し、切り売りをして大成功しましたがこれは母親の厚い信仰心によっています。客は皆佛性をもっており同じように尊いのだから相手により商いを変えてはならないという母親の考えから出た商法です。
 近江商人は浄土真宗によって育まれたとされます。西川産業・西川家の「年中諸事控」には、毎年二月八日には先祖の法要を行うとされ、奉公人も六割以上が真宗の信者であったとされます。同じく松居遊見は農業、生糸・麻布等の行商で巨万の富を築いた十八世紀の近江商人ですが、「近江神崎郡志稿」に「東本願寺の徳龍に帰依し、常に法話を聞き随喜したといふ・・遊見は仏教信者で其の信念は極めて堅固であった。・・朝夕の看経に正信偈を、一度の読み上げでは読み足らぬとて二度の三度も繰り返したことがあり、昼でも夜でも念仏を唱え所謂行住坐臥時と所を嫌わずの様であった。或る鼠賊が告白した口述中に,曽てこの家に入ろうと毎夜あたりに忍び窺うにいつも念仏声がして遂に這入られなかったということであった。」とあります。伊藤忠兵衛は伊藤忠と丸紅の祖ですが、福岡萬行寺の七里恒順和上に絶対帰依し、常に教えを乞いに出かけたということです。そして忠兵衛は、全ての店員に正信偈和讃と珠数を持たせ、毎朝店の仏前に正信偈を読誦し、店員を連れて津村別院に参拝し、店では毎月法話会を開催していたといいます。蓮如上人を慕う酬徳会を設立してもいます。また忠兵衛の座右の銘は「商売は菩薩の業、商売道の尊さは売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの」というものであったそうです。(「伊藤忠商事百年」、等)


  ・キャノン創始者吉田五郎は熱心な観音信者で国産初のカメラをKWANONと名ずけました。  
正力松太郎は昭和34年10月号の「大法輪」に「私がはじめて座禅を組んだのは24歳帝大2年に進学したばかりのときであった。・・・その後戦争犯罪人として巣鴨に収容されることになった。・・ともあれ私は(南禅寺管長勝峰大徹)師のことを思い出して在監1年9ヶ月の間座禅を続けた。」と書いています。そして「いつでも死ねるという気になった」、「世の中で自分だけの欲張りで成功した人間はいないと思った」 とも書いています。
 ・大法輪37年11号には堤庚次郎が寄稿しており、「事業の上での生き死にの関頭にもたびたびたたされた。・・若い頃国立に大学町を作ったとき、千万円の損をしたことがある。そして社債が不渡りとなったため大変な目に遭った。けれども人に迷惑をかけず土地を二束三文で売って全部返済した。・・それで私は悟ったのである。事業を金儲けの手段とするところに誤りがあり、事業に対する冒涜となるのである。社会のため奉仕することが事業の本質である。・・」といっています。
 ・旧安田生命社長の竹村吉右衛門は母から観音様が守り本尊と聞かされ浅草寺の朝参会を作り、また仏教振興財団も作りました。
 ・協和発酵の加藤辯三郎は在家仏教協会をつくりました。
 ・花王石鹸再興の立役者丸田芳郎社長は聖徳太子と道元に傾倒しさまざまな本をあらわしています。昔経営と仏教に関する本を頂きました。
 ・銀座三笠会館創始者谷善之丞の「わたしの理想とする人」(筑摩書房「現代を生きる心」)にはこうあります。「代々信仰の篤い家系であったが特に両親は先祖を大切にしたので 自然に仏教情操により育てられました。上京して倒産した友人の食堂を借金ごとひきうけることになりましたが、利息で金策もつき自殺を考えました。少年時代から座禅することができたので夜座禅しながら自殺の決意をつけようとしました。夏から秋もすぎ冬になり丁度12月の20日ごろでした。真夜中をすぎて夜明け近くになりました。銀座のほうから歌舞伎座の前にむかって1台の荷車がコトリコトリと音をたててまいります。座禅というものは無思無想で座っているのでありますからこの車の音が聞くとも無くわたしの頭に入りいつのまにかその車と一つになってその車の後押しをしてわたしがついていくよう感じでありました。そのうちはっと思いついたことがあります。そうだこの寒空の真夜中に車を曳いて生きている人があるんだ。死ぬ気でいきることだ。死ぬ気でいきるということだということを考え付いたとたんにわたしの胸の中にはっきりと生きる力がみちてくるのを私は感得いたしました。・・」とあります。この後、従業員にも座禅をさせたと書いてありました。 
 ・私は俗世のころ臨時行政調査会に出向し会長としての土光敏夫氏の下にいたことがありますがお年のせいか寡黙で木鶏のような人でした。土光家は両親本人ともに熱心な日蓮信者で自宅を教王殿という日蓮宗道場にしています。特に母親登美は、法華経の熱心な信者で、「国が滅びるのは悪ではなく、愚によってです」と唱え、女子教育の学校を創設しています。

 仏典には世法と仏法、あるいは俗諦と真諦という言葉で俗世の仕事と仏教の関係が多く出てきます。「法華経法師功徳品」には「・・俗世の経書、治世の語言、資生の業等は、皆正法に順ぜん。」とあり、「華厳経」には「仏の法は世間の法に異ならず、世間の法は仏の法に異ならず。」「仏法は即ち世間の法なり、世間の法は即ち仏法なりと知ると雖も、しかも仏法の中に於いて世間の法を分別せず、世間の法の中に於いて仏法を分別せず。一切の諸法は悉く法界に入る。」「仏の境涯は即ち世間の境涯なり、世間の境涯は即ち仏の境涯なり」等とあります。世間の仕事にいそしむことが仏法に通ずるといっているのです。鈴木正三も「万民徳用」の中で「商人日用(あきひとにちよう)売買せん人は、まず得利の増すべき心づかいを修行すべし。その心づかいと言うは他の事にあらず。身命を天道になげうって、一筋に正直の道を学ぶべし。正直の人には、諸天のめぐみふかく、仏陀神明の加護あって、災難を除き、自然に福をまし、衆人愛敬、浅からずして万事心にかなうべし。一筋に国土のため万民のためとおもい入りて、自国の物を他国に移し、他国の物をわが国に持ち来たって、遠国遠里に入り渡し、諸人の心にかなうべしと誓願をなして、国々をめぐる事は,業障を尽くすべき修行なりと、心を着けて、山々を越えて、身心を責め、大河小河を渡って心を清め、漫々たる海上に船をうかぶる時は、この身を捨てて念仏し、一生はただ浮世の旅なる事を観じて、一切執着を捨て、欲をはなれ商いせんには、諸天これを守護し、神明利生を施して、得利もすぐれ、福徳充満の人となる。」とのべています。昔の経済人はこういうことを知らず知らず深いところに身に着けていて励んだので今日の隆盛があるのでしょう。

神道も昔の経営者は大切にしています。
・出光佐三は神官の息子でもあり『日本人である以上、その血の祖である皇室を尊重するのは当然』と、社内セレモニー毎に出席者全員が皇居に遙拝し、 自らも「宗像大社」の氏子総代を生涯勤めたといいます。
・トヨタの豊興神社、日本航空の日航香取神社、間組の狭間組守護神社、新日本製鉄の高見神社、三菱グループの土佐稲荷神社、三井グループの三囲神社、日立製作所の熊野神社、東芝の出雲神社、出光興産の宗像神社、資生堂の成功稲荷、キッコーマンの琴平神社、東京証券取引所の兜神社など多くの企業が神社をおまつりしています。

・芸術家では棟方志巧は河合寛次郎から碧巌録を、柳宗悦から華厳経を学んだといわれています。岡本かの子は仏教の研鑚に努め「仏教聖典を語る」などの多くの宗教書を書きました。宮沢賢治も法華経に深く傾倒した宗教者です。徳富蘇峰は釈宗演を招聘して碧巌会を作り政・財界、夏目漱石ら知識人を集め研鑽しました。また、「あの世はあった。文豪たちはみた、震えた」(三浦正夫著)では遠藤周作、三浦朱聞、菊池寛、土井晩翠、小山内薫、新渡戸稲造、夏目漱石などが神秘体験を作家活動のエネルギーにしていたことがリアルにかかれています。
・湯川秀樹博士はいきつけの京都の寺の木漏れ日をヒントに中間子を発見し、岩波「現代物理学基礎Ⅱ」では李白の「天地は万物の逆旅にして月日は百代の過客なり」という禅語を引用し、「天地」を「時空」に「万物」を「素粒子」に変えて素粒子論を展開しているといいます。
・数学者岡潔は山崎弁栄上人の唱えた光明主義に傾倒しました。こういっています。「数学において自然数の $1$ とは何であるか,ということを数学は全く知らないのである。この $1$ とか点とかは,,宗教的方法を許容すればわかる,仏教の一宗に光明主義というのがある。この光明主義の笹本戒浄上人 (1874--1937) が,もう 20 年くらいになるかと思うが,こういわれた。『自然数の $1$ や幾何の点は,無生法忍を得て初めてわかる。』無生法認は法報二身(心と自然)の理法を悟るという,非常に高い悟りの位です。それだったら,情抜きで,$1$ や点をいい表そうとしてもできないのである。」(新潟大学 公開講座 新 潟 大 学 理 学 部 吉 原 久 夫)

何年か前、遍路の体験談と共に、経済人にこういう先人の事例を話して財閥の起こりは信仰心だったと思い起こさせるようにしたことがありますが、どの財閥の末裔も全くこういう自分のご先祖の最も大切な創業の動機を知りませんでした。そのうえこういう話を聞いて自らを顧みるという様子はまったくうかがえませんでした。本者を育てなくては今後の日本の姿も推して知るべしです。
 




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