(日本書紀・孝徳天皇・大化元年645八月)
「癸卯(八日)、大寺に使を遣り、僧尼を喚聚して詔して曰く「磯城嶋宮御宇天皇の十三年中、百濟明王、佛法を我が大倭に奉傳す。是時、群臣倶に傳へんと欲せず、而して蘇我稻目宿禰、獨り其の法を信ず。天皇乃ち稻目宿禰に詔して、其の法を奉りしむ。譯語田宮御宇天皇(おさたのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと,敏達天皇)の世、蘇我馬子宿禰、考父之風を追遵ひて、猶ほ能仁(ほとけ)の教を重(あが)む。而して餘の臣は不信なり、此典幾亡(こののりほろびなんとす)。天皇、馬子宿禰に詔して其の法を奉らしむ。於小墾田宮(おはりたのみや・推古)御宇天皇之世、馬子宿禰、天皇の奉(おんため)に、丈六繡像・丈六銅像を造り、佛教を顯揚し、僧尼を恭敬す。朕、更に復た正教を崇んで大猷を光啓せむことを思ふ。故に沙門狛大法師・福亮・惠雲・常安・靈雲・惠至・寺主僧旻・道登・惠隣・惠妙を十師と為し、別に惠妙法師を以て百濟寺々主と為す。此の十師等、宜しく能く衆僧を教導し釋教を修行(おこなふこと)、要かならず法の如くせしむべし。凡そ天皇より伴造にいたるまで所造の寺、營(つく)ること能はざる者は朕皆助け作らむ。今、寺司等と寺主とを拜(めさ)し、諸寺を巡行し、僧尼・奴婢・田畝之實を驗(かんが)へて、盡に顯し奏せ。卽ち來目臣(闕名)・三輪色夫君(みわのしこふのきみ)・額田部連甥(ぬからべのむらじおひ)を法頭と為す。」