goo blog サービス終了のお知らせ 

福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

高橋さんの「弓と禪(オイゲンへリゲル)」おすすめ情報

2016-01-18 | おすすめ情報
「弓と禅」オイゲン・ヘリゲル著 より
2016年1月17日

入門以来5年過ぎた時、師範は私達に(段位審査の)試験を済ますようにと勧告した。彼は説明していった、「その際肝心なのは、単にあなた方の技量をやって見せることではありません、むしろ射手の精神状態が、人目につかぬほどの挙動に至るまで、ずっと高く評価されることです。
とにかく私はあなた方が、見物人の居ることによって惑わされず、全く無頓着になって、従来通り全く我々だけしかいないかのように礼法を行じられるよう、特に期待します」と。
( 試験までの間、試験対策の実射稽古に励んだわけではなかった)その代わり我々には家庭で礼法を行ずる課題、すなわちそれに含まれた何歩かの足のはこびや身の構えを、それからとりわけ正しい呼吸法を完全に遂行して深く沈潜するという課題が与えられたのである。
我々は指示された仕方で(家庭での礼法を)稽古した。すると我々が弓矢なしで礼法を舞うことに慣れるや否や、我々は二、三歩の後早くも異常に集中する気分になることを発見したのである。
それから稽古の時に再び弓と矢を手に取ると、この家庭での練習は非常に効果的にその働きを後にまで及ぼしたので、我々はこの際にも造作なく“精神現在”の状態にはいったのであった。我々は大丈夫という安心感を持っていたので、見物人の列席する試験の日を平静な気持ちで待ち設けていた。我々は堂々と試験に及第した。・・
この時以後稽古は新しい様相をとるようになった。稽古の(実際の)射はわずかで十分であるとして、師範は弓道の“奥義”を脈絡あるように説明し、同時にこれを我々の到達した段階に適応することに移って行ったのである・・。彼は最も詳細に“術なき術”の本質に立ち入って説いた、弓射が完成されるにはそこまで行かねばならないのであると。
彼は言った。「兎の角と亀の髪でもって射ることができる人、すなわち弓(角)と矢(髪)なしで的の真ん中にあてることができる人であって初めて、言葉の最高の意味での名人であり、術なき術の名人、否、術なき術そのものであり、したがって名人と非名人が一体となっているのです。この転回点までくると弓射は運動なき運動、舞なき舞としてー禅の中に移って行くのです」と。・・
ある時私は師範に、今後我々が故郷に帰った後、師範なしでどうして進歩することができるだろうかと尋ねた。すると彼は答えていった、「あなたの問は、私があなた方に試験を受ける機会を与えたことでもってすでに答えられています。あなた方は、教師と弟子とがもはや二人ではなく、ひとつになっている段階に到達しているのです。すなわちいつでも私から別れてよいのです。・・あなた方が習った通りに稽古をする時には、いつも私がそこにいるのです。
私がそのこと(規則正しい実射練習)をあなた方に願う必要のないわけは、あなた方は精神的弓射をもはや放っておくことができないということを私は知っているからです。 ・・
(しかし) ただ、ひとつのことを私はあなた方の心構えに申さねばなりません。あなた方お二人は、この歳月の間にすっかり変わってしまわれました。これは弓道が最後の深みにまで達する射手の自己自身との対決が、もたらしたものであります。あなた方はこのことを恐らく今までほとんどお気づきにならなかったでしょう、が故国で友人知己に再会されると、どうしても感づかれることでしょう。
もはや以前のようにしっくりしないのです。あなた方は多くのことを別の目で見、別の尺度で測ります。実際私にもその通りだったのです。
そしてこれは、弓道の精神に心を打たれた人には、誰でも迫ってくることなのです」と。
別れに際して、師範は私に彼の最もよい弓を手渡してくれた。「あなたがこの弓で射る時には、名人の精神が現在していることを感じられるでしょう。この弓を決して物好きな人の手に渡さないで下さい。そしてこの弓を引きこなしてしまわれても、それを記念に保存しないで下さい。ひとかたまりの灰の外は何も残らないようにそれを葬って下さい。」
オイゲン・ヘリゲル著「弓と禅」より
福村出版 稲富栄次郎・上田 武 訳

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 高橋さんが「弓と禅」(オイ... | トップ | 神仏一体資料、10 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

おすすめ情報」カテゴリの最新記事