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ドヴォルジャークの交響曲第2番について-その2

2020-12-17 19:18:24 | 他の音楽
【交響曲第2番の作曲】
前回触れましたが、ドヴォルジャークが交響曲第2番の作曲を開始したのは、1865年8月1日です。これは残されている自筆譜に記されています。この自筆譜では、第1楽章を8月18日、全楽章を9月18日に書き上げ、全体のオーケストレーションを10月9日に終えたと書かれています。
まだ、無名の作曲家で、演奏される見込みのないこのような大曲をなぜ作曲したのかは、よくわかっていません。ケルテス/ロンドン交響楽団による交響曲全集をプロデュースしたレイ・ミンシャルによると、失恋したもののヨゼフィーナへの熱烈な愛情が、1865年に交響曲第2番はじめ大曲を4つも誕生させた一つの原動力ではと推定しています。この曲の無尽蔵のようなメロディを考えると、頭に溢れる曲想を書き留めずにはいられなかったのではないかとも私は思います。
もう終わりましたが、連続テレビ小説「エール」でも、古関裕而のモデル、古山裕一はメロディが降ってくるといっていましたが、そのような感じなのでしょうか。

その自筆譜の表紙には、チェコ語で「交響曲 変ロ長調 アントニン・ドヴォルジャーク」と書かれており、そこには当初、第2番と書かれていたようですが、掻き消されていたそうです。そして、五線譜の1ページ目に「交響曲(変ロ長調)第1番」と書かれています。これは、のちに書き足されたもののようで、すでに行方不明になっていて、ドヴォルジャーク自身は破棄したものと思っていた交響曲第1番をカウントから外していたことがわかります。
作曲は、当時住んでいた、コントラバス奏者で指揮者のモリツ・アンガーのプラハの下宿で行われました。ドヴォルジャークは完成した交響曲を製本屋に半革装丁してもらったのですが、代金を支払うことができず、アンガーが立て替えました。しかし、ドヴォルジャークは、当時、多くの作品を書いては破棄していて、この交響曲も破棄しようと考えたため、アンガーは立て替えたお金を請求し、支払うことができないドヴォルジャークから、交響曲第2番を預かった(いわゆる借金のカタ?)とされています。アンガーは後に、ドヴォルジャークが作曲家として有名になって、この交響曲をもう破棄することはないと考え、自筆譜を返却しました。

【改訂】
この交響曲を最初に出版した際の校訂者のメモには、自筆譜からどのような改訂が行われたかを読み解いています。以下は、そのメモから要約したものです。
★改訂の時期
この交響曲は、少なくとも3回、改訂が行われています。最初の改訂は、時期はわかりませんが1887年に行われた大改訂より前に行われ、黒インクで修正されています。
1887年には、他の3つの交響曲(3、4、5)とともに出版を目論んで(結局、第5番のみが第3番として出版された)、大幅な改訂が行われました。このときは、赤インクで修正されています。最後の改訂は、1888年3月11日の初演の際の改訂で、ドヴォルジャークは鉛筆で、初演の指揮をしたアドルフ・チェフは青鉛筆で修正を行ったようです。

★カットについて
改訂の大きな部分は、第1楽章と第4楽章のカットです。
1865年に完成した時点での楽譜は、128枚から129枚であったようです。そして、最終版は、106枚です。
その内訳は下表のとおりです。

その他、残ったページにも取り除いた用紙の前後と思われる数小節のカットがあります。また、第4楽章で11小節のカットがあります。
さらに、1888年の初演の際に、チェフにより行われたと思われるVi-deで指定されている4箇所のカットがあります。
それは次のとおりです。
 第1楽章 500~543小節(再現部第2主題再現の前)
 第2楽章 131~135、140~145小節(コーダ)
 第4楽章 105~120小節(提示部第1主題から第2主題の間)

★その他の改訂
その他は、楽器の受け持ちの変更や、音の高さの変更(1オクターブ下げる)等があります。その中で、1箇所興味を引くのは、次の改訂です。
おそらく、1887年の大改訂より前の改訂で、第1楽章の388、389小節(展開部の終わり頃の2回の休止)にあったフェルマータが削除されています。この箇所について、ドヴォルジャークは、「休息のため休符をもっと長く」と註釈をつけていましたが、後に取り消し、「この註釈は本当に意味があったのだろうか、それとも冗談だったのか!」と書いています。興味を引くというのは、ビエロフラーベクはこの削除されたフェルマータを実行しているのです。

★1888年に行われたカットについての私見
私が一番興味を持っているのは、1888年に行われたカットのうち、Vi-deで楽譜に残されているカットについて、ドヴォルジャークの本心であったかということです。このカット部分のVi-deは青鉛筆で書かれており、チェフが入れたもののようです。しかし、校訂者は、ドヴォルジャーク自身、リハーサルや演奏会に立ち会っていることから、ドヴォルジャークの許可なしにはできないとしています。
確かに、ドヴォルジャークが許可したことは間違いないと思いますが、本心であったかどうかです。
カットのうち、第2楽章のものはコーダでの中間部の回想部分です。
緩徐楽章のコーダで中間部の主題を回想することは、すでに第1番の交響曲でも行っていまし、3番でも行っています。また、この改訂の翌年に作曲された第8番の交響曲でも同じです。とすると形式的には以前にも以降にもやっていることで、ドヴォルジャークとしてはカットする必要性はなかったのではないかと思います。それどころか、このときにカットされたことが本心でないことを第8番の緩徐楽章で示したのではないかと思っています。
私としては、その他の楽章のカットも含め、本心ではなかったのではと推定しています。

★1865年版で演奏したらどのくらいの演奏時間
1865年の作曲時の自筆譜は、第1楽章で取り除かれた楽譜が一部残っていないため、オリジナル版を演奏することは不可能な話ですが、もし演奏できたとしたら、どのくらいの演奏時間になるのでしょうか。
カットが行われた第1楽章と第4楽章について、楽譜のページ数で比較するとそれぞれ89ベージ→72ページ、91ページ(元が46枚の用紙と想定して)→61ページになります。これをケルテス/ロンドン交響楽団の演奏時間で計算してみると、第1楽章16分28秒→19分36秒、第4楽章11分10秒→16分38秒、トータルで54分20秒→62分56秒になり、1時間を超える大曲であったことがわかります。(1楽章についは、提示部にカットは存在しないことが想定されることから、反復の時間(3分10秒)を引いてから計算し、再度反復の時間を足しました。)
第1楽章を完全に復元することは不可能ですが、可能な範囲で復元し、第4楽章も復元して演奏されるようになればと思っています。

【初演とのちの作品への転用】
初演は、すでに触れたとおり1888年3月11日、プラハでアドルフ・チェフが国民劇場オーケストラを指揮して行われました。このときは、ドヴォルジャーク自身がリハーサルから演奏会まで立ち会いました。演奏は好評であったようで、ドヴォルジャークが友人に宛てた手紙には、「みんなが大変気に入ってくれた。」と報告しています。
なお、交響曲第1番のときと同様、のちに作曲された「影絵」などに動機が使われています。
「影絵」で使われている動機は以下のとおりです。
影絵 作品8 B.98(1879年)
   第3楽章スケルツォ動機 第11曲
   第4楽章第1主題動機 第6曲
また、内藤久子さんは、著書「チェコ音楽の魅力」(東洋出版2007年)で、「最終楽章にあっては、晩年のオペラ《ルサルカ》(1900)に登場する水の精の主要なモチーフを予感させるようなメロディを鳴り響かせている。」と解説しています。

(第1楽章のカットについて、提示部の反復を考慮してなかったので、考慮に加えました。(表と演奏時間を修正)12/18)
(続く)
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