○ドヴォルジャーク 交響曲第2番 ロヴィツキ/ロンドン交響楽団 1971年
1865年、ドヴォルジャーク24歳のときの作品で、第1交響曲に続いて作曲されました。第1交響曲がドイツの作曲コンクールに応募したまま返却されず、死後の1923年に発見されるまで長い間行方知れずになっていたのに対し、第2交響曲は、ドヴォルジャークの手許にあって、彼が愛した作品です。ケルテス/ロンドン響による最初の交響曲全集をプロデュースしたレイ・ミンシャルは、「第1交響曲の動乱のあとに第2交響曲の叙情的な愛がやってくる。」と評しています。
1887年には出版を意図(出版社に楽譜を送ったものの出版にはいたりませんでしたが)して修正を行い、翌1888年には初演されました。
この修正の際、主に第1楽章と第4楽章でカットがされたそうです。
今日、第2交響曲は、主に交響曲全集の一環として多くの演奏家が録音していますが、何箇所でカットのある演奏が主流になっています。
それは、第1楽章再現部で第2主題が再現する前の同じパッセージを違う楽器で繰り返す部分、第2楽章の終りの部分、終楽章の主部の第2主題の前の経過部をカットして演奏しているのがほとんどで、これをノーカットで演奏しているのは、私が知っている限りでケルテス、ロヴィツキ、ロジェストビンスキーのみです。
このカットが作曲者が修正を行った際のものか、そうでないのかは、私にはわかりません。ただ、私が最初に聴いた演奏が、このロヴィツキ盤であったため、カットされている版は馴染めないのが実情です。
さて、なぜドヴォルジャークが若いこの時期に大きな交響曲を2曲、さらには歌曲集「いとすぎ」、チェロ協奏曲(未完)といった作品を続けて作曲する動機となったのは、一人のピアノ生徒、ヨゼファ・チェルマコヴァーに思いを寄せていたことにあります。残念ながらこの恋は実らず、ドヴォルジャークは彼女の妹、アンナと結婚しています。
女性の存在が、創作意欲を掻き立てるということはよくある話で、ヤナーチェクも晩年、カミラという女性との出会いが、彼の主要な作品への創作意欲を高めたと言われています。
第2交響曲の話に戻しますが、レイ・ミンシャルが評しているように、この作品は、全体にわたって叙情的な美しいメロディで満たされ、幸福な音楽です。ロヴィツキは、自信をもってこの曲を演奏しており、私は一番好きな演奏です。