○ヤナーチェク 「イェヌーファ」(第2稿)
E.ゼーダーシュトルーム(S)、E.ランドヴァー(Ms)、W.オフマン(T)、P.ドヴォルスキー(T)、M.ムラソヴァー(A)
C.マッケラス/ウィーン・フィル・ウィーン国立歌劇場合唱団ほか 1982年4月
昨日、クーベリックの「イェヌーファ」を紹介したので、こちらも紹介しないわけにはいかないでしょう。
ということで、久しぶりに全曲を聴きました。
もう素晴らしい演奏で、申し分ありません。
演奏の詳細は、色々なところで語られていますので、ここでは、このCDの解説にある稿について記したいと思います。
イェヌーファには、3つの稿があります。
第1稿は、作曲完了時(1903年3月)のもので、これでブルノでの初演(1904年1月)が行われました。
第2稿は、ブルノ初演後に改訂(1907年)したもので、1911年と1913年のブルノでの上演に使用されました。
第3稿は、プラハ初演(1916年)に伴い、指揮者のコヴァルジョヴィツが改訂したもので、その後の上演では、この第3稿が使用されています。
指揮者のコヴァルジョヴィツは、彼のオペラ「花婿たち」をヤナーチェクが酷評(1887年1月『音楽新聞』紙上)したことを根に持っていて、プラハでの上演をかたくなに拒否していたのです。このため、ヤナーチェクが切望していたプラハでの初演が叶わず、ブルノでの初演となったわけです。その後、ヤナーチェクの友人の取り計らいにより、ブルノ初演から12年たってようやくプラハでの上演が叶ったのです。このとき、コヴァルジョヴィツは、自分が改訂した版を使用することを条件にしたのです。ヤナーチェクは、喜んで(本心はしぶしぶ)これを了承しました。
このブラハでの上演が成功し、第3稿の楽譜も出版され、またマックス・ブロートがドイツ語台本を作成し、国外でも上演されるようになったのです。(1918年2月ウィーン、1918年11月ケルン[クレンペラー]、1924年3月[E.クライバー]・・・)
イギリスでの初演は、第二次世界大戦後の1956年で、コヴゥント・ガーデン歌劇場でクーベリックが指揮、その後は、マッケラスと交替で指揮をしています。
出版された第3稿は、高い評価を得ていますが、ヤナーチェク自身は、「頼んだのでも望んだのでもない改訂」であったのです。
そこで、マッケラスはこの録音に際し、ヤナーチェクの最終稿である「第2稿」を使用したのです。
E.ゼーダーシュトルーム(S)、E.ランドヴァー(Ms)、W.オフマン(T)、P.ドヴォルスキー(T)、M.ムラソヴァー(A)
C.マッケラス/ウィーン・フィル・ウィーン国立歌劇場合唱団ほか 1982年4月
昨日、クーベリックの「イェヌーファ」を紹介したので、こちらも紹介しないわけにはいかないでしょう。
ということで、久しぶりに全曲を聴きました。
もう素晴らしい演奏で、申し分ありません。
演奏の詳細は、色々なところで語られていますので、ここでは、このCDの解説にある稿について記したいと思います。
イェヌーファには、3つの稿があります。
第1稿は、作曲完了時(1903年3月)のもので、これでブルノでの初演(1904年1月)が行われました。
第2稿は、ブルノ初演後に改訂(1907年)したもので、1911年と1913年のブルノでの上演に使用されました。
第3稿は、プラハ初演(1916年)に伴い、指揮者のコヴァルジョヴィツが改訂したもので、その後の上演では、この第3稿が使用されています。
指揮者のコヴァルジョヴィツは、彼のオペラ「花婿たち」をヤナーチェクが酷評(1887年1月『音楽新聞』紙上)したことを根に持っていて、プラハでの上演をかたくなに拒否していたのです。このため、ヤナーチェクが切望していたプラハでの初演が叶わず、ブルノでの初演となったわけです。その後、ヤナーチェクの友人の取り計らいにより、ブルノ初演から12年たってようやくプラハでの上演が叶ったのです。このとき、コヴァルジョヴィツは、自分が改訂した版を使用することを条件にしたのです。ヤナーチェクは、喜んで(本心はしぶしぶ)これを了承しました。
このブラハでの上演が成功し、第3稿の楽譜も出版され、またマックス・ブロートがドイツ語台本を作成し、国外でも上演されるようになったのです。(1918年2月ウィーン、1918年11月ケルン[クレンペラー]、1924年3月[E.クライバー]・・・)
イギリスでの初演は、第二次世界大戦後の1956年で、コヴゥント・ガーデン歌劇場でクーベリックが指揮、その後は、マッケラスと交替で指揮をしています。
出版された第3稿は、高い評価を得ていますが、ヤナーチェク自身は、「頼んだのでも望んだのでもない改訂」であったのです。
そこで、マッケラスはこの録音に際し、ヤナーチェクの最終稿である「第2稿」を使用したのです。