mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

独裁制を望む「核心的感情」

2020-08-27 08:25:03 | 日記

  2020/8/23に「なぜホンネをさらけ出すのはみっともないのか」を取り上げた。「みっともない」と感じるのは古い道徳規範から来る感覚、今の時代はホンネをさらすのがニンゲンらしいのか、と時代相の変化をみる思いであった。
 イアン・カーショーの『ヒトラー(上)傲慢1889-1936』(白水社、2016年)を読んでいて、平凡なヒトラーが大舞台に担ぎ上げられいく経緯が、本人の言葉と周りの彼を評価する声とで、徐々にかたちを取りながら募っていくのが、手に取るように描かれている。

《私は、大勢の聴衆の前で話をしてみないかと言われた。分かっていたわけではなく、感覚的にはそうではないかと常々思っていたことが、今、確証された。私は、「弁」がたったのだ。――ヒトラー》
《ヒトラー氏は生まれながらの大衆演説家なのだと思う。集会では、その熱情と人を惹きつける語り口のために聴衆は氏に注目し、その意見には同意せずにはいられなくなってしまうのだ。――ある兵士》
《何ということだ。一端のしゃべりだ。彼は使える。――ドイツ労働党指導者》

 まさに人は「人閒」である。ヒトラー自身がユダヤ人に対する憎悪を持つに至るのも、挫折と転落と彼の周囲にあった人と言説とが、「弁」が立つという才能の発見とともに、文字通り彼の内心において核心に近い感情をかたちづくっていく。他人を真似て始まったユダヤ人への憎悪が彼の「せかい」を一挙に集約する役割を果たしたと、後追い的にいえば言える。これは、わが胸に手を当てて考えてみると、同じように思い当たることはいろいろとあった。

 上記引用の「ある兵士」のことばが、ライブのもっている「ちから」をよく表している。「演説に惹きつけられる」のも、「その意見に同意せずにはいられなくなる」のも、聴き手の側にそうしないではいられない「核心的感情」が底流しているからだ。
 そこに目をつけると、ホンネをさらすのが「ニンゲンらしい」と受け止める「核心的感情」にこそ、注目することが必要だ。そうしてなぜ、そうした「核心的感情」が鬱屈しているのか考察して、社会関係や時代の変容が齎している「状況」をとらえることが欠かせないと、トランプの振る舞いをみていて思う。
 
 そうやって考えてみると、果たして「民主主義と自由」がどれほど私たちの「核心的感情」に寄与しているかどうかも、踏み込んで評価しなければならなくなる。むろんこの点で、日本の私たちとアメリカの大衆との間の懸隔も、自律の志も俎上に上げねばならない。さらには、香港の人々の間、あるいは香港と中国本土の人たちとの間の「核心的感情」の懸隔も、とりあげてみなければならない。台湾がそのモデルを提供してもいる。「核心的感情」がもっぱら暮らしの立ちゆきに土台を置いていることも分かる。
 そうして思うのだが、中国政府の独裁的専横を「やむを得ない」と受け容れるのも、13億のひとびとを統治することを前提とすると、あながち否定できない。それは必ずしも、香港の暴力的制圧や、ウィグル族への暴虐をともなう支配を容認するものではないが、だとすると、「統治の視線」ではなく、「自治の視線」を組み込まなければならないのではないか。「自治の視線」を組み込むには、巨大なナショナリティは、持て余してしまう。
 現代の実際の統治は、その両者の視線を組み込んだうえで、バランスをとりながら繰り出されている。だからそのとき、トランプ支持集会の演説に熱狂し、文字通り娯楽のように楽しみ、憂さを晴らすことも、「その意見に同意しないではいられない」回路がいつ知れず流し込まれていくのも、人の性(さが)の為せるワザである。ニンゲンらしいと「惹きつけられる」「核心的感情」が、ホンネを表舞台に迫り上げ、タテマエを誤魔化しとして排斥する流路をつくっている。
 
 独裁的というと、いつもヒトラーをモデルとして考察される。独裁的権限の根拠とか、民衆操作の巧みさを取り上げるが、じつは、「核心的感情」を解放するために、科学も知的理念も近代的社会構成をも排除して、反対し、否定し、排斥しているうちに、あるとき最高権力にいきついてユダヤ人排斥が核となって結晶化が進む。トランプは「#ミー・ファースト」を主軸に据えて、敵をつくりそれを制圧し排除し、宥めたり賺したり脅したり、手持ちのカードを切りながら相手と交渉する。トランプはヒトラーの「弁」同様、「取り引きdealing」の才能に「つねづねそう思っていたこと」に確信を持ち、ほぼそれで人生を送ってきた。ホンネこそが真実という「核心的感情」が芽生え根づいた。そこには、自らが信じること以外はフェイクとして排除し、反対者は敵とみなし、自分好みの人たちに取り囲まれることによって「才能の確信」を再生産してきたのであった。彼に必要なのは、自身の自由であるが、同時に、独裁的権能である。だから習近平と較べてトランプが専制的でないというパーソナルな資質は、ない。近代政治の「民主制」システムが、独裁へ向かう習近平との違いを生み出しているだけである。
 トランプを支持するアメリカの大衆と、習近平の専制を良しとする中国大陸や香港の若干の人々と、そう大した違いがあるわけではない。そう思って観ていると、日本もけっこう危うい時代に向かいつつあるのではないかと、不作為の政府をみて思う。まだ日本は、高度消費社会の余韻を食いつぶしているから露骨化していないが、暮らしそのものが行き立たなくなると一挙に独裁的権力を期待する声が高まる惧れがある。どうしたら、民主と自由の価値を「核心的感情」に組み込むことができるのか。そういうふうに私は、考えている。