mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

山中に忽然とカタクリの群落――川苔山

2016-04-21 10:56:41 | 日記
 
 昨日は、山の会の月例山行――奥多摩の川苔山。8時2分に到着する電車に乗ってきた人が乗車して、バスは8時10分に発車する。9日前に下見に来たときには12人が乗車してきた。ところが昨日は、座席が全部ふさがるばかりか、立っている人をふくめて、満員という状態。月曜日と水曜日でこんなに違うのか。下車したとき車掌さんに聞くと、今日はことに多いそうだ。なぜだろう。下見のときに下車したのは6人であったが、今日は20人近くが川乗橋で降りる。単独行の人たちは、それぞれがさかさかと登山口へすすむ。3人とか4人の団体客が多い。私たちは6人。平均年齢は70歳。これから、コースタイム6時間15分の山歩きをしようというわけである。
 
 下見からわずか9日しか経っていないのに、緑が広がっている。枯れ木を通して見えた山肌が、新緑に遮られてみえにくくなっている。ヤマザクラはまだ花をつけていて、彩が美しい。そちらこちらにミツバツツジが満開の濃い紅紫を咲かせている。振り返ると背中の方の山肌に、桜色が点在する。ところどころに白いサクラのような花が咲いていみえるのは、オオシマザクラだろうか。葉か花か、樹木の一部が赤く彩られた木々もあって、山笑う季節になったと喜んでいるようだ。
 
 45分で細倉橋に着く。先行していた人たちが一休みしている。あとから来た若い人のグループが賑やかだ。ここでストックを出して、山道に入る。川乗谷沿いの道は、沢を下に眺めながらゆるやかに高度を上げる。随所にしっかりした木橋が設えられていて、整備に手間をかけていることがうかがえる。細い道の片側は切れ落ちて谷の流れが20mほど直下にみえる。後ろから先ほどの若い人グループがやってくるが、追い越してもらえるほど道幅がない。しばらくして、先行してもらう。「転落注意」の標識がある。ここで、落ちた人がいるように見える。9時59分、百尋ノ滝に着く。出発して1時間半、ちょうどコースタイムだ。50mほどの高さがあろうか。ド~ンと落ちて、広い滝つぼをつくる。落下する水量が多い。滝に近づくとしぶきが飛んでくる。「酸素が多いって感じだね」とKさん。
 
 しばらく眺め、写真に収めて出発する。ここから急傾斜の岩場がつづく。分岐にある最初の階段を上っていると、30歳代の3人連れがやってくる。やはりにぎやかにおしゃべりしている。私が先頭に立ちMrさんがつづいて、順調に足を運ぶ。高度がたちまち上がり、標高1000mを超えるあたりで傾斜が緩やかになった。Mrさんに先頭を歩いてもらう。右手の下方に火打石谷の水音が聞こえる。だが、背の高いヒノキが林立して、沢の流れにまでは目が届かない。ところどころに色鮮やかなミツバツツジが花をつけて鮮烈な印象を刻む。陽が当たり、ひときわ赤紫が際立つ。カメラに収めていると、「行けばいくほどいいのが出てくるんですよね」とMrさんが茶化す。スミレが、枯葉のあいだから花を出している。茶色の鐘形の花を下に向けて幾輪も咲かせている草を見つける。ハシリドコロだとKwさんが教えてくれる。その脇にキクのような葉をいくつも広げた草があり、「これって、間違えて食よべると当たる毒草」と誰かが話している。トリカブトだろうか。
 
 火打石谷の源流に降り立ち、それを渡って、一呼吸入れる。そこからは緩やかな上り。やはり枯葉が降り溜まった道をすすむ。左に川苔山の大きな山体が居座っているように迫る。分岐がある。どちらも「川苔山→」と表示している。Mrさんは上の道をたどる。「どうしてそちらを選んだの?」と聞く。「えっ、こちらが道なりでしょ」という。すぐ後ろを歩いていたMsさんが「上の道の方が近いよ」とMrさんを応援する。Kwさんが地図を出して、「ほらっ、ここの分岐にいるんでしょう。上の道が正解よ」と説明する。下の道を行くと、別ルートを通って川苔山に至る。Mrさんは「だってせっかく上ったのに、また下るのは、勘弁してよ」とそのまま進む。
 
 両側から迫る谷あいの道をたどる。踏み跡があちらこちらにあるように見える岩礫帯。少し戸惑っていたけれども、調子よく進む。また急斜面の登りに転じ、その先に峠のものらしいスカイラインが見えてくる。下の方から、人の話し声が聞こえる。滝のところで追いついた3人組かもしれない。峠に出る。先行していた人たちが何人かやすんでいる。ベンチもある。くたびれたと、声が聞こえる。「あと10分、頑張りましょう」と声をかけ、Mrさんは出発する。山頂から降りてきた若い単独行者は、今朝いちばんに私たちの先へ行った人だ。彼は本仁田山を経て鳩ノ巣に下ると言っていた。挨拶をしてすれ違う。枯葉の溜まった広い稜線を踏んで、山頂へ着く。11時45分。出発して3時間15分、休憩時間を入れてコースタイムより15分早く到着している。上々。いくつかあるベンチはすでに先行者が占めている。滝への途中で追い抜いていった若い人たちも食事にしている。私たちもお昼にする。
 
 富士山は雲に隠れて見えない。西の方に奥秩父の山々が見せる。雲取山も見えるが、どれがどれと特定できない。黄色い小粒の花がいくつもついた木が陽ざしの中に浮かぶ。アブラチャンといったっけ。その向こうに、白い穂をつけたような木の花が薄いベールをかぶったように見えて美しい。双眼鏡を出してみると、ネコヤナギの穂のようだ。後から登ってきた人たちが、てんでに座って、食事にかかる。ガスストーブを出して、お湯を沸かしてラーメンをつくっている若い男2人連れもいる。風もなく暖かい陽ざしが、何よりもうれしい。
 
 30分ほどして、出発する。風が少し冷たくなった。寒冷前線が通過しているのだろうか。Khさんが先頭でとんとんと下る。「早すぎるわよ」とMrさんが後ろからこぼす。曲ヶ谷北峰の「古里駅→」へ進路をとるところで、Oさんが先頭に立つ。しばらくは急な下り。すぐ後ろ着いたMrさんが一歩ごとに愚痴をこぼしながら、それが笑いをとるのを確かめつつ、歩を進める。好調である。その先が、下りを苦手とするMrさんのロイヤルロードだと冷やかしていると、彼女はさかさかとOさんに続いて先達を務める。スミレがたくさん咲いている。葉の丸いのもあれば、細長いのもある。紫もあれば、白いのもある。Kwさんが名前を言ってくれるが、頭に入らない。いったん林道に降り立つ。木を伐りだしたのであろう。500mほども山腹を縫うように林道がつづき、その先で舗装路に出ていた。登山道はそこからまた、稜線沿いに緩やかな下り、樹林の中を歩く。
 
 標高1000mほどのところで、ニリンソウが咲いているのを見つける。その脇に、カタクリが一輪咲いている。「おや、カタクリ」といって立ち止まると、皆さんカメラやスマホを取り出して撮影をはじめる。と、あっちにもあるよと、誰かが言う。目を転ずると、枯葉に覆われた斜面のあちらこちらに、カタクリが大輪の花をつけている。先へ進んでも、道の両側にカタクリがあることがわかる。陽ざしの当たるところのは、ひときわ輝きを増してみえる。「こんな群落が、こんなところにあるなんて……」と、感慨深げな声も上がる。しばらくは、撮影会だ。標高1000mの山中である。
 
 いつしか先頭はMsさん、Mrさんがそれにつづく。2人は快適に飛ばしているように見える。2時間ほど歩いて「古里駅→」の標識で一休みし、「あと45分」と声をかけて下りはじめる。ここから急傾斜と言っていたが、大して気に求めず、足の運びは速い。ところどころの細い下り道に枯葉が大量に降り積もって、歩きにくい。へっぴり腰の人は、まるで枯葉と戯れて遊んでいるようにゆっくりと下っている。こうして古里駅へ着いたのは、3時5分。歩きはじめてから6時間35分の行動時間であった。お昼の時間を覗くと、歩行時間は6時間5分。コースタイムよりも10分速かった。われわれはまだ、この程度で歩けるということだ。

若い人の搾取――身体が反逆を始めた

2016-04-21 08:53:01 | 日記
 
 知り合いのAさん、2月に65歳になったことを機に定年退職を迎え、悠悠自適の身になった。一緒に山歩きができますねと言祝ぐと、「いや、朝起きたときに何もする予定がないというのが、これほど不安な気分にさせるものかと驚いている」という。仕事という日々のルーティン・ワークがあってこそ、目覚めも寝起きも、家事万般がさかさかとためらいなくできて、「わたしのくらし」という感触が身に満ち溢れていたというのだ。
 
 そこで彼女は、新たな「勤め」を探した。新聞の折り込みチラシを見て応募する。前歴までは問題ないのだが、年齢を聞いたとたんに向こうの人の応対が渋りはじめる。高齢者には相応しくないと、やんわりと断ってくる。常勤は諦めパート探しに切り替えたが、それでもダメ。とうとう、ご近所から少し外れたところにあるコンビニの募集案内をみて応募し、めでたく採用となった。早朝6時から9時までのアルバイトである。それでも「わたしのくらし」の、若い人のことばでいう「リア充」が復活した。
 
 今月初めに会ったときには「コンビニって結構大変なんですよ」と話していた。品物を売るだけではない。宅配の受け付け、コピー機やチケットなどの料金支払い機の操作、税金やネット販売商品の授受など、覚えなければならないことが「たんとある」と。それでも、嬉しそうであった。まだ見習い中というわけである。
 
 半月経って、昨日、出逢った。
 
「どうですか、早朝のお勤めは」
「やめたの」
「えっ、どうして?」
「だってね、私にはとてもできないと分かったの」
 
 と言って説明してくれたのは、以下のようなことであった。
 
 コンビニは最小限の店員をおいているだけ。販売する商品は、時間差を置いて配送されてくる。それをその都度、陳列棚に置いていく。その間にもお客さんがくると、料金の清算をしなければならない。お弁当などの食品は「賞味期限」がある。期限(時間)を過ぎておいておくことはできないから、それ(何時か)を覚えておいて、時間になると「廃棄」に回さなければならない。実はバックアップ(裏方)で、おでんやお弁当をつくったりもしている。レジの「計算」も決まった時間ごとに済ませて、お金を所定のところに「計算書」と一緒に納めておかねばならない。ところがその途中でお客が来ると、「清算」しなくてはならないから、レジ台の下に数えている途中の仕分けた現金を置いたままで、ほかの作業をしている。彼女は「あぶないな」と思うそうだ。
 
 彼女が勤めていたのは、デパ地下の食品売り場だったから、そういう綱渡りのような金銭の扱いはしたことがないのであろう。誰が何を考えているかわからないことを想定して当然であったのに、コンビニにはそういう気配がない。というよりも、そういう配慮をする余裕が、まったくない。足の幅だけがあれば人は歩けるというような人員配置で経営していると言える。彼女は、とてもこういう勤めは私には無理だと思って(申し訳ないが)辞めることにした、という。
 
 時間給は、埼玉県の「最低賃金・820円」だったそうだ。
 
「高校生ならね、お小遣いもらえるってんでいいんかもしれないんですけど、あれだけの仕事をさせて最低賃金なんてひどいですよね。」
「フランチャイズのセンターが(昨年比)最高益だったって、先日新聞にもあったでしょ。」
「若い人を搾取して、コンビニって成り立ってるんですよ。」
「ブラック企業ですよね。」
 
 と憤慨する。
 
 話を聞いていて私は思った。果たしてこれは、フランチャイズ・チェーンのコンビニだけの話なのだろうか。私たちの働くということが、社会的に必要な物品・サービスの提供であるにしても、生きていくことと切り離されていいのだろうか。賃金を得るために働くにしても、ぎりぎりまで切り詰められて、働くことのなかにサービスを提供する喜びや人ととともに作業をする愉しみをともなわないとしたら、ほんとうに単なる奴隷労働ではないか。現代日本が(全部が全部とは言わないが、おおむね多くが)そのようになっているとしたら、若い人が生鮮食品陳列棚に乗ってふざけた写真をとったりするのも、わかるような気がする。つまり、身体が反逆を始めたのだ、と。
 
 退職して14年目を迎える私にとっての職場は、もう昔話になった。昔はよかったなあというのは年寄りの口癖だそうだが、ジャパン・アズ・ナンバー・ワンと言われたころに、日本式会社経営の仕方が賞賛されていた時代は、良かった。年功序列ではあったり、生活様態の変化に合わせて「手当」も支給されていたこともさることながら、「会社」が「自分のモノ」と感じられた。福利も厚生もそれなりにあったばかりか、従業員みんなで花見をする、旅行に行く、ソフトボール大会をやるといったことに、わりと力を入れていたように思う。4月には「職場芸能誌」を発行して、全職員――といっても70人ほどだが――を紹介して、新入社員を歓迎することもしていた。そんな感慨にふけっていたら、
 
 「そりゃあ、ブラック企業だって、新人の歓迎会くらいはするわよ。そうやって、抜けられないように関係づけてしまうんだから……」
 
 と、さらに憤激の矢が跳んできた。いやはや、ニッポン昔話になっちゃいましたね、私は。

記憶の相次ぐ崩落に気づく――我が身の震災と修復

2016-04-19 17:25:23 | 日記
 
 ある本を読み終わって、ふと、今登場した巨人(のような話)をなんて呼んでいたっけと、すぐには思い出せないことに気づいた。小人国に漂着したアレだ……などとイメージは湧く。著者の名前もわかる。だが、この小人国の巨人の名前が浮かばない。記憶が剥がれ落ちているのだなあと思ったときに、そうだ、ガリヴァーだと思い出した。
 
 こんなことがよくある。考えてみると、私の記憶が「齢をとるという災厄」にあって、ぼろぼろと熊本城の城壁の石が崩れ落ちているように、欠けて行っている。とすると、こうして本を読み、その部分の記憶が崩落していることに気づいて、少しすると思い出すというのは、震災に遭って救援物資が届けられたり、もう少し長いスパンでみて、城壁の修復をしたりするのと似ている。歳をとり、本を読み、記憶の崩落に気づき、かつ修復するという手間暇をかけてやらないと、崩落個所はどんどん広がり、やがてどっかりと全面崩壊することになるのかもしれない。
 
 むろん本を読むことばかりではない。人と話をし、散歩していて草花に出逢い、樹木に触れて、えーっとこれはなんて言ったっけと、(かつて)覚えていたはずの名前を忘れていることに気づく。つまり、そうした出来事の一つひとつが、大小問わず生起する振動、本震がどれかわからないが余震でもある。
 
 今日は、その振動のひとつ、エルマンノ・オルミ監督のイタリア映画『木靴の樹』(1978年)を体験してきた。
 
 《カンヌ映画祭パルム・ドールを受賞  人間愛にみちた崇高なる名作、今甦る!》
 
 と宣伝チラシに謳う。19世紀末のイタリアの寒村が舞台。だが近隣の町では、民主主義こそが人類の理想だと訴える演説が行われ、ちらりと登場するミラノではデモとその弾圧による逮捕者が連行されていたりするから、都市域では激動期と言える時節である。だがこの映画、「人間愛」というよりも、かくも切なく人間は生きてきたという「太古からの記憶」を思い起こさせる。「人間愛にみちた」ということばがもっている(と現在の私が考える)温もりよりも、地主―小作制の持っている苛烈さが身に痛い。そうして、今私は、こうしたことと似たような生き方を経過してきたにもかかわらず、すっかり忘れて、毎日を能天気にすごしているなあと、記憶の石垣の崩落を目の当たりにする。
 
 でも、なんで38年も前の映画が、今ごろ再上映されるのか。実はこの監督が第一次世界大戦の勃発百年を祈念して制作したという「緑はよみがえる」が(日本で)公開されることから、彼の登場作が再上映される運びになった、というわけ。こうして、崩落する記憶を、あの手この手で再想起してくれるのも、ありがたいことだと言わねばならない。もっとも、気づきはしたが、修復する手立てもなく崩壊したまんまにされるケースも、出来しているから、喜んでばかりもいられない。

初夏の感触

2016-04-18 21:39:21 | 日記
 
 昨日は風が強く、自転車で行き来するのに「行きはよいよい帰りは恐い」であった。日曜日というのに、図書館も生協も人が少なかった。曇り空。気温が上がり汗ばむほどなのに、花を愛でる気分にはなれなかった。そして今日は、晴れ。気温も20度になって、サクラソウ自生地へ出かけた。
 
 カミサンのボランティアの、送りをしただけだが、ついでにぶらぶらと田島ヶ原を歩く。自生地は萱が大きくなって、もうすこしすると、すっかりサクラソウもノウルシも覆い隠してしまいそうになる。昨日がサクラソウ祭りだったが、あの風で、果たして無事に運んだのだろうかと心配していた。今朝になって、大きなテントなどを片付けていたところをみると、(今朝まで)無事にテントが立っていたわけだから、なんとか無事に昨日一日を過ごせたのであろう。でも、人が来たのだろうか。
 
 今日は、9時前であったが、ボチボチ人出が見られた。アマナなどが姿を消し、アマドコロが大きくなっている。シロバナノサクラソウも、先週と変わらない姿をとどめている。そう言えばサクラソウは、寿命が長いような気がする。ボランティアの出した看板に「サクラソウ写真コンテスト募集」とある。昨年までの優秀賞をみると、なかなかアングルが面白い。私のように、ただクローズアップするのではなく、背後の風景も意識して構図に取り入れているのがわかる。それを真似て、低い位置から花をクローズアップして、遠景を入れてみた。
 
 ソメイヨシノはすっかり葉桜になってしまったが、八重桜が満開。葉桜とヤエザクラをバックに、タンポポの黄花と白い穂とを入れて、しゃれてみた。セーターを脱いで歩く。それでも汗ばむ。小学生がやってきて、ボランティアに案内をしてもらっている。彼らはノートを携えて、説明の一つひとつに反応しながら、メモを取っている。たいしたものだ。カミサンは、その向こうで、5人ほどの女性陣を相手に何か説明をしている。
 
 帰宅してお昼を食べ、午後から自転車で浦和へ出て、修理を頼んでいたカメラを引き取る。月曜日なのに、たくさんの人が出ている。ETCの料金を引き落としている郵便局の口座に入金をする。年に一回くらいしか通帳をチェックしないから、ひょっとして不渡りを出すと、と心配していたのだ。ついでに本屋による。これといって気を惹くものに当たらない。西風に押されるように、気分よく自転車をこいで帰宅。本を読んで過ごす。
 
 夕方5時を過ぎても、カミサンが帰ってこない。どうしたんだろうと思って、思い出した。今日は植物グループの「総会」があって、そのあと会食があると言っていた、と。そうか、ならば仕方がない、と夕食をつくりはじめる。みそ汁とチャーハン、あとは作り置きのおかずを並べて、ひっそりと食事をとる。TVは、熊本の震災情報ばかりだ。何だか、まだまだ治まりそうもない様子。のんびり呆けているのが、申し訳ないような気分になる。
 
 今日は、初夏の入口に立った気分だ。

四角四面のやぐらの上で

2016-04-17 14:59:19 | 日記
 
 重松清『希望ヶ丘の人びと』(講談社文庫、2015年)を読む。上・下2巻、各400ページを超える。でも二日間で読み終わった。それくらい軽いというか、読みはじめて、またかよと思う重松ワールドが展開する。中学生年代をめぐる確執と大人の哀感をしつらえて描く臭いが漂ってくる。もういい加減にしないかと私が思うのはなぜか。もう一歩踏み込めというとき、どこへどう踏み込むことを期待しているのだろうと、我が身の裡へ目が向かう。
 
 大きなテーマはデンとある。それは私の関心にも沿っていて、悪くない。希望ヶ丘というのは、30年ほど前に建設されたニュータウン。ぼちぼち住民は第二世代に移っている。山の手に分譲された住宅街という設定。一戸が200平米ほどというから、高級とまでは言えなくても、中流の上というところか。区画もかっちりしていれば、建物も皆似たようなかたちになり、住人の価値意識も一様に、右肩上がりの上昇気分、子どもにも勉強していい学校、いいとこへの就職と、勝ち組に向かう見栄の張り方も似通ってくる。家庭がそのように一途になり、それが中学校に反映され、地域の社会規範をかたちづくる。もうお分かりであろう、1980年代の中流日本を象徴しているわけだ。
 
 この作品が書きはじめられたのは、2006年の秋だという。その9年前の1997年には、神戸の少年Aの小学生殺害事件があった。そこも、神戸の閑静な住宅街。この作品の雑誌連載を執筆するために、重松自身が少年Aの暮らしていた住宅街を見に行ったというから、彼自身、少年Aの謎を解き明かしたかったのかもしれない。だからニュータウン・希望が丘の四角四面に区切られたかたちから、清潔で正しさに満ち、皆さんが希望に胸高ならせて暮らしているという絵にかいたような構図を、不適応であったり落ちこぼれたりする人たちのありようとか下町の港沿いの工場群と対照させて、クローズアップする。つまり人間は、そうそう清く正しく美しく生きてはいけないんだと、重松節を歌いあげているわけだ。
 
 それを、軽い! と私が感じるのは、なぜか。たぶん重松清が、その人工的に生活に保たれているニュータウンの社会規範(と人のたたずまい)を「冷たい」と感じて、「もっと優しく」と願っている辺りに、大いに不満なのではないかと思います。そんな「冷たい―優しい」という心理レベルのモンダイではなく、人間の見方そのものが倒錯していると、指弾する構えが欲しいのですね。暖かく、優しく、やわらかい「かんけい」というのは、どこかで「律法主義的に厳しく」「迷いなく正邪が選び取られ」「向上心のない存在は落ちこぼれであり」「人はつねに自らを磨きあげ続けなければならない」という現代社会の社会規範と、画然と袂を分かつ地平を見ていなければならないのだと、感じるからである。私たちは四角四面のやぐらの上で踊るしかないのか。
 
 もちろん重松は、「希望」に託してその形が違うところにあると、提示して見せようとしているのでしょう。また、律法主義か状況適応かという二律背反で、ものごとを考えたくないというのでしょう。それはそれで、織り合うことのできない「矛盾」として捨て置けばいいものを、「哀切さ」をもって対立を和らげてしまっている。つまり、せっかく少年Aの住宅街にまで足を運んで切り込もうとしていたのに、「殺害」という悲劇的な場面を回避する心性が働いて、腑抜けになってしまっている。
 
 そういう作劇法が、ひょっとすると今の重松清の創造/想像の限界なのかと思われて、一人のファンとして残念な気持ちがするのである。