すぶんろこ!のジャパニーズドリーム

■『すぶんろこ』とは、コロンブスの逆転の発想

■日本国独立宣言!「日本国憲法」無効宣言、日本軍再構築宣言!

+ 名乗りたる老兵の蝉・・・ 素直とはなにか  スポーツの神聖

2011年08月11日 22時09分37秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

  

 

 

 時の声  あげたる蝉の  羽折れて 

    梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 かわいがっている夏みかんの木に、ワシワシワシワシと

クマゼミが大音量で鳴き始めた。

 大阪城でも増え始めたと聞いたが、九州の無骨な蝉で

ある。

 蝉の王者でもある。

 

 ジュワワワワ~というのが時の声の終い文句であるが

しばし鼓膜の振動を耳痒く堪能してからカメラで探した。

 枝と枝の隙間に、そのボクトツなありようを発見した。

 望遠で撮ったその羽は、刀折れ、矢も尽きた古戦場の老兵

のように擦り切れていた。

 

 厚い胸板といい、その大音量のときの声と言い、現役の

力に満ちていたが、今朝が最期の戦であったかもしれない。

 そう思うと、切ない感傷があった。

 小さい頃から英雄的蝉の最期の勇姿は、戦友の最期を

見送るような気持ちになる。

 

 「君よ、涙の谷を渡れ」という、幸福の科学会員限定のセミ

ナー冊子があるらしいが、そのような響きを感じるもので

ある。

 he~のような地球時間であるが、heの推進力で、涙の

谷を一気に飛び越えたいものである。

 

 

 

 

 

 

 死ぬことの  恐ろしくもなし  大銀河

   梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 在日朝鮮人の学生が耳打ちするように聞いてきた。

 「先生、素直ってどういうことですか。先生にしか聞けないもんで・・・」。

 「まず、受け止めることだ。」

 

 「で、自分に対して素直ってどうすればいいんですか。」

 「自分をまず受け止めることだよ。自分のことだから、理解してあ

げなきゃ。」

 「え、でも、自分の嫌なところもですか?」

 「そうだよ。いいとこも悪いとこもあるだろうけど、トータルではプラス

なんだから。そういう風に、自分を全体としては肯定的に受け止める

ことが素直ということだ。お前、自分が嫌いなのか?」

 「はい・・・」

 「まず、自分を肯定的に受け止めることだな。」

 「・・・」

 

 学生は、しばらく空ろに焦点を合わせて考えている風であった。

 否定の中に育ったのだろう。

 反日的教育を受けながら、祖国朝鮮文化至上主義教育を受けな

がらも、結局どれも肯定できなかったのだろう。

 自己否定から太宰治症候群に陥っていたのかもしれない。

 

 即答した素直の定義は、彼の守護霊からのインスピレーションで

あったかも知れない。

 言いえて妙である。

 度量の狭い自分にとっても、反省すべきことであった。

 

 

 

  

 

  スポーツの神聖 


 学生に出題した、「オリンピックの発展的成果と課題」という出題の

模範答案を書きながら納得できないで5回ほど改訂した。

 確かに世界最大の国際イベントに発展したオリンピックであるが、

国家的利害、企業的利害、選手の個人的利害に

毒された手段を選ばない勝利至上主義に毒されてきた。

 

 国際政治に活用することは当初からの目的である。

 戦争ではなく、異文化理解、敵ながら天晴れという友情の文化とし

て機能することが期待された。

 しかし、勝つことに最終的目的を求める勝利至上主義はどこに巣

食ってきたのか。

 

 オリンピックを象徴するものは聖火である。

 ところが、神を否定する中国でもオリンピックを開催するに至って

は、その精神が唯物論に妥協したという印象を拭えない。

 

 神を否定したら、モラルが根拠を失う。

 人はごまかせるものであり、戦術として成り立つ。

 しかし、神を裏切ることは恐るべきことである。

 そこに、モラルの根拠がある。

 

 本来、スポーツは神聖なるものである。

 日本武道は、まさに神前の礼節を本質とした。

 国技である大相撲も、神聖なる伝統武道の代表である。

 それを見過ごして単なる競技スポーツだと規定されるのではたまっ

たものではない。

 そういう軽薄が横綱審議会のメンバーにいる。

 愛国心と教養のある人選をしてほしいものだ。

 

 スポーツは神聖なる文化である。

 スポーツ競技は神前にて行われる。

 その精神を見失ったとき、スポーツは下賎な人間のやくざな遊び

に堕するのである。

 

 スポーツの退廃は、神聖なる精神を失ったことによる腐敗にほか

ならない。

 オリンピックもまた、聖火の原点に戻るべきである。

 

 

         立憲女王国・神聖九州やまとの国

          梅士 Baishi 
       

         

  

  

 

 

 

  

  

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

+ ヒグラシ・・・ 百見は一聞に如かず、心眼を開くべし   生涯スポーツのポイント

2011年08月11日 08時08分58秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

  

 

 

 ヒグラシの  キュンと響きし  山の中 

    梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 今朝の一番ゼミはアブラゼミだった。

 6時15分くらいから、クマゼミがラジオ体操を始めた。

 娑婆はワシワシと騒がしい夏であるが、それも残り十日ほどであ

ろうか。

 盆を過ぎるとすっかり勢いを失う。

 残暑厳しき中、惜しくも蝉切れになる。

 

 ヒグラシは娑婆では聞こえない蝉である。

 山奥にはいると、いかにも深山の風情でキュンキュンと響き渡る。

 一体どんな蝉なのだろうかと思うが、なかなか姿が見えないのが

ヒグラシである。

 

 その神秘のヒグラシを、終に見つけた。

 意外と小さな蝉である。

 その姿は、ヒグラシの本質ではない。

 ヒグラシの本質は幽山の胸にキュンと響き渡る声にこそある。

 

 百聞は一見にしかずというが、一見は形にとらわれて本質を見失

いがちである。

 百見は一聞にしかずという世界があるということである。

 

 現世の人の形をとって生まれた救世主も同様かもしれない。

 人の形にとらわれると、その偉大な法を見失う。

 心眼で見るということが大切である。

 目に見える世界も、真実そのものではなく、形骸に過ぎないという

謙虚を見失ってはならない。

  

 

 

 

 


  

  生涯スポーツ振興のポイント 


 スポーツ基本法というのが、形骸の手直しという官僚のポーズな

のかどうかしらないが、本気だというようには思えない。

 もし、本気で生涯スポーツの普及を考え、地域スポーツを活性化

させようと思うなら、せめて一兆円規模の予算を組んで、投資する

勢いが必要だろう。

 もちろん、天下り先の建設であってはならないが。

 

 重要なポイントを抑えておきたい。

 生涯スポーツは、いわば義務教育的に国民の健康水準を引き上

げる政策である。

 したがって、義務教育の小中学校ほどの普及が必要である。

 校区制をベースに、学校の人材と施設を併用して国民皆スポーツ

制を敷く覚悟が必要であろう。

 

 生涯スポーツといっても、体育科学の専門家による指導が欠かせ

ない。

 人材育成と配置が不可欠である。

 まずは学校に、クラス数ほどの体育教員を配置しても足りないくら

いであろう。 

 

 教員は基本的には体育専門家であり、かつ知育の専門教科を持

てる学力を修めるべきである。

 体育しかできないでも困るし、体育ができないでも困る。

 学校体育が、地域スポーツの拠点になると考えるべきである。

 

 女子スポーツの考え方も改めなければなるまい。

 かつて、女性はスポーツに参加するべきではなかった。

 まして、サッカーや野球、柔道やレスリング、重量挙げなんて、と

んでもない話であった。

 今でもそう感じている人が多いであろう。

 

 確かに男と女は違う。

 しかし、生涯スポーツは男女を問わない文化である。

 そうであれば、女がするべきではないという競技種目の

タブーも設けるべきではない。

 

 女子スポーツは男子スポーツとは違う文化である。

 同列に考えるからいけないのだ。

 スポーティーな女性は魅力的だ。

 小太刀を使う女も素晴らしい。

 

 女子スポーツという文化を育て、普及することもまた、これからの

スポーツ政策のポイントである。

 スポーツ科学とスポーツ文化の融合を探求していただきたい。  

 

         立憲女王国・神聖九州やまとの国

          梅士 Baishi 
       

         

  

  

 

 

 

  

  

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする