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+ 藤木立・・・ 「自由型平等」と「支配型平等」  「平等」には恐ろしい顔がある

2011年05月14日 20時41分27秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

  

 空青く  流れ下りし  藤の滝 

    梅士 Baishi 

 

 

 

 土曜日の仕事が終わった。

 ふ~ッと深く息を吐く。

 そのまま旅に出たい気分だが、スーツが無粋である。

 

 しかたなく、いつもの道を、なぜかやっぱり全速力で自転車

をこいで、いつものスーパーに立ち寄り、いつもの「レジ打

ちの女」のレジを通って、破れそうな袋を気にしながらよっ

こらしょと帰宅するのである。

 

 鮎の塩焼きで一杯やるつもりだが、胃腸の調子が今一つ

よくない。

 今夜は少し、機嫌が悪い。

 

 ああ、藤の花のシャワーを浴びて、早々に宇宙旅行にで

も出ようか・・・。

 

 旅は一人旅に限る。

 

 2050年には、夢の重水素核融合発電が実現するだろ

うと言われている。

 わが生徒たちが60歳近い年齢の頃のことである。

 

 しかし、この動乱の時代だからこそ生まれ甲斐があった。

 これからの10年程が生きがいと死に甲斐がぎゅっと詰

まった時代になる。

 それがわが人生の花道だろう。

 そのあとは、ふらりと一人旅であの世に帰ろうと思う。

 

 う~ん、また、英語勉強し直さなきゃなあ・・・。

 

   

   

   

 

   

  自由型平等と支配型平等 


 自由と平等の矛盾にはずいぶんと苦しめられたことで

あった。

 しかし、幸福の科学理論でその難問が解けた。

 

 即ち、自由とは何ら制約を受けないことを理想とするも

のではない。

 そんな自由ならば、社会を前提としない自分一人世界を

意味するからである。

 人間は、社会生活でなければ生きがいも成長もない。

 

 社会とは、助け合いの世界であり、役割分担の組織生活

である。

 社会生活として自由があり、そのための意思決定こそ

が自由であると言える。

 社会の理想を教えるのが宗教である。

 だからこそ、「神への自由」に価値があるのである。

 

 消極的に定義すれば、自由とは、理不尽不合理な支配

を受けないということである。

 世のため人のために制約を受け、自ら意思決定したとこ

ろに従って規制されることは自由であることの内容でこそ

あれ、不当な支配などではない。

 

 では、平等とは何か。

 思うに、平等には二種類がある。

 「自由型平等」と「支配型平等」である。

 

 「自由型平等」とは、自由の性格としての平等である。

 

 一つは歴史的な意義になりつつあるが、自由のための

身分制度の廃止である。 

 成熟した個人が自由を探求する時代において、生まれ

による身分制の縛りは不当な支配に他ならないからである。

 

 もう一つは、愛としての平等思想である。

 助け合いの精神であり、思いやりの精神、愛としての自由

の美学である。

 

 

 是に対して、「支配型平等」とは結果平等を求め、成功者

に嫉妬して倒そうとし、結果平等を実現するために自由を

禁止し、管理する権力支配となって現れる。

 すなわち、他人の自由を嫌う、結果平等思想である。

 

 共産党、社民党、民主党が、格差を非難する結果平等

主義であり、支配型平等思想をもって自由を追放しようと

する恐ろしい政党である。

 弱者の味方という表現は、嫉妬と支配欲の仮面である。

 

 亡国・民主党政権の動きはまさに、自由に対する制限、禁

止、貧困の平等化にほかならない。

 これに組する経団連の元企業家たちは、名誉欲しさに

追随する。

 哀れな末路であることよ。

 

 管理・支配型平等主義を許してはならない。

 不当な支配を嫌い、自由の精神を愛するべきである。

 「平等」という好ましい語感にだまされてはならない。

 平等には恐ろしい顔があると知るべきである。

   

   

         立憲女王国・神聖九州やまとの国

          梅士 Baishi 
       

          

   

   

   

   

   

   

     

 

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