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生体肝移植から今日で5年目




先日亡くなった祖母の日記、2005年と2006年はわたしの闘病の様子で
埋め尽くされている。

祖母の視点で見た家族内の闘病の様子はわたしの知らない事が多く興味深い。





それによると祖母は、父にも母にも、最初は病気の詳細を知らされていなかった
らしい。

ただ、「かなり悪いようだ」と、ただそれだけ。



移植の可能性があり、はっきりと伝えられなかったのもあるだろうし、高齢の
祖母にいらぬ心配を掛けさせられないと思ったのかもしれないし。



祖母は居間で、父母が交わす会話を聞きながら思いを巡らせていたのだろう。



日が進み、日記が進み、ある日、

『お母さんが※※(わたし)の病気の事を詳しく説明してくれた。』


と、ある。




簡単ではなく、長くなると知った母が、さすがに隠しておくこともできず、祖母
にきちんと説明したようだ。


おそらく、本当の意味での、家族を巻き込んだ闘病が、この日から始まったのだと
思う。









「劇症肝炎」という病名を聞いてピンとくる人は何人いるだろう。


「臓器移植」「B型肝炎」こそ今ではニュース等で耳にしない日が無いくらいに
なったが、たったの5年前にも関わらず、自分の、そして自分の周りでは全くの
未知のことだった。




「突然」というのは恐ろしいもので、心の準備も、もちろんそれ相応の覚悟も、
なんにも無い状態で「極限」の状態に置かれると、「無」になる。

恐怖とか不安とか、そんなものを超越して何も考えられなくなる。


初めて移植の説明を受けた後、思いを聞かれて言葉が出なかったように。






情報が少ない、というのも困ったもので、このブログを始めた理由の一つが情報
提供の為。

それがどうだ、提供するどころか、逆に、多くの方から貴重な情報をいただき、
励まされ、まるで自分の為にあるかの様なブログになってしまった。


でもこれには本当に感謝。今の自分の状況を支えてくれている大きな要因です。








もし、突然、病を宣告されたなら、必ずそこには救いの手があると思う。

たとえ結果、死に至るとしても、それは、結果、運命。



黙って死ぬか、あがいて死ぬか、それもその人なり。


でも自分は、絶対あがいて死ぬつもり。

やれるだけやって、苦しい思いも痛い思いも受け入れて、とことん闘って死にたい。


精一杯「がんばって」死にたいと思うのです。








移植を決断せざるをえなくなった時、移植後も一向に良くならなかった時、再手術
が決まった時、常に考えていたのは家族の生活。これマジで。

自分よりも。



40代、働き盛り、自営業、両親祖母と同居、子どもは教育の真っただ中。

これらが一気に怒涛の如く押し寄せてきて(オーバーではなく)、頭は空っぽ。



あの時の思いは二度とご免で、その為にも今の体調をキープさせる必要が、ある。






できない事も多い。

っていうか、病気になる前できていた事(積極的にやっていた事)が、できない。

このストレスは相当ある。


違う自分になってしまったと思う事もある。



やりたいのにやれない、ジレンマといえばジレンマ、もしかしたら心のどこかに
諦めも。




でもこれも運命。





今回、祖母を見送った一連の中で、5年前、死ななくて本当に良かったと実感した。

あと何年生きられるかわからないけど、最大の親不孝「親より先に死ぬ」だけは
避けたい。








見かけは普通の「身体障害者手帳一級」、この事に大きな意味があるようにも
感じる。


5年経過しても、今が良くても、この先の保障はまったくない。

健康な人にも同じ事が言えるだろうけど、やはりリスクは高い。



大きな大きな「移植」を経験して、悩み苦しむのは当たり前。

みんなそうだと思う。


だって殆んどの場合、「完治」は無いのだから。








法改正で脳死移植が急増している。

救われない命が一人でも多く救われるのは素晴らしいこと。

確かに問題は山積みで、反する意見も多い。

それも当然のこと。


でも、ただ一つだけ。

個人で反する意見を持つのは当然の権利で、何も言うものはない。

ただ、例えば「※※※※の会」等が集団で反対行動を取る事だけは止めて欲しい。

お願いします。


純粋に、

「助けたい人」がいて「助かる人」がいて、それでいいじゃないですか。









今日でちょうど5年、今では本当の誕生日よりも忘れない日。

(当時の事は全然覚えていないけど。)



でも特別な感慨は残念ながら無い。

それも年々薄れていく。



今は現実の生活との闘い(?)だから。





祖母は死ぬ数日前まで日記を書き続けていた。

最後の方の文字は読めないほど。


たくさんの自分で撮った写真も残していた。


今思えば、やっぱり、よく世間で言われるように「自分の生きた証」を少しでも
残しておきたかったのだと。




最期まで陽気だったばあちゃんが、自分がこれから生きていくための見本になって
くれたような気がするのです。


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