カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

三十三間堂廻リ町

2016-04-20 18:55:57 | しゃじ
熊本・大分を中心にした九州地方の大地震、被災された皆様には、
心からお見舞い申し上げます。
未だおさまらない余震、交通網、ライフラインの復旧もままならず
避難されている方々の不安、いかばかりかと心が痛みます。
私に出来ることは何か、を模索しつつ今は見守り、応援するだけですが



う~ん!まだ三十三間堂の記事が残っていました。
ちょっと京都の地震事情も加筆してアップしてみます。

三十三間堂の東側は、三十三間堂廻り町と言います。まんまですが!



東大門(ひがしおおもん)から続く修復されたばかりの回廊塀。
その先に見えるのが南大門(みなみおおもん)重要文化財建造物です。

〈南大門〉

      〈太閤塀〉
三十三間堂の門なのですが、境内から一度出ないと観られない・・・
大きな門です、普通乗用車・軽・ライトバンは通行可。

現在はこのように三十三間堂の南東角の外に建っていますが、
そもそも豊臣秀吉が造営した大仏殿・方広寺の南門として造られた
もので、秀吉没後、秀頼がこの位置に移したと伝えられています。
三間一戸の八脚門で、それに続く築地塀(太閤塀)は屋根瓦には
五七の桐の紋があります。
熱田神宮(名古屋市)の信長塀、西宮神社(西宮市)の大練塀と
並び、日本三大塀のひとつなんだそうです。


南大門からの通路を挟んで、東側には一見、塔頭かなと思われる寺院が
並んでいます。



二軒並んでいるのですが、その内のひとつが「養源院」。



おぉ!「桃山御殿 血天井」の文字が・・・(◎_◎;)



今は浄土真宗遣迎院派の寺院ですが、このお寺の見所は
こんな1枚の高札だけでは済みません。
一時代の歴史と芸術のエキスがぎゅうぎゅうに詰まっています。



今はそれほど大きなお寺では無いですが、1594(文禄3)年に豊臣秀吉の
側室・淀殿が父・浅井長政らの二十一回忌の供養のために秀吉に願って
創建したのが始まりです。
一度は落雷のため焼失しましたが、淀殿の妹で徳川秀忠の夫人であった
お江(後の崇源院)の願いにより、1621(元和7)年に伏見城の遺構を
移築して再興されました。以降は徳川家の菩提所となり、2代秀忠から
15代慶喜まで徳川幕府歴代将軍の位牌が祀られているそうです。

ちょっと複雑な浅井三姉妹、大河ドラマ『江~姫たちの戦国』で
描かれていましたからご存じの方も多いでしょうが、簡単に整理すると
近江北部の戦国武将・浅井長政は織田信長の妹であるお市(おいち)と
政略結婚しましたが、後に信長との同盟に離反し“姉川の合戦”で、
織田・徳川の連合軍に敗れ、自ら命を絶ってしまいました。
その後、残されたお市は清洲会議の承諾を経て信長の重臣・柴田勝家の
後妻となりますが、勝家と秀吉が対立、賤ヶ岳の戦いで敗れたため、
勝家とともに自害。残された三姉妹はお市の遺言で、秀吉に託されます。
茶々(淀殿)は秀吉の側室となり、豊臣秀頼を産み。次女・初(はつ)は
京極高次の正室に。三女・江(ごう)は後に徳川二代将軍となる徳川秀忠
の正室になり、三代将軍・家光、中宮源和子(後水尾天皇の中宮(正室)
となり、明正天皇の生母)たちを産みます。

ちなみに養源院を再興した徳川秀忠って人物、秀吉の小田原征伐の際、
家康から出された実質上の人質ですが、秀吉の養子的な扱いによって
秀忠という名前も秀吉がつけたもので、豊臣姓、羽柴姓を名乗っていた
時期もあります。関ヶ原の戦いでは真田の上田城攻めに失敗、関ヶ原に
間に合わなかったり、大阪の役でも真田丸に苦戦するなど、今年の
大河ドラマにも出てくるでしょうね・・・(^_^ゞ
結果的には総大将として大阪城を落城させ、豊臣家を滅ぼしますが、
豊臣秀頼の正室として実娘・千姫を嫁がせていますから、考えてみると
妻の姉と義理の息子を攻め、死に追いやったことに。
千姫は落城寸前の大阪城より戻されていますが・・・

ところで、養源院に置かれている秀忠とお江の位牌には「桐:豊臣」、
「葵:徳川」「菊:天皇家」の家紋がついていて、他では見られない
ものなのだとか。複雑さが窺い知れますね。



養源院は豊臣秀吉、淀殿が創建した寺院ですが、豊臣家滅亡の数年後、
1619年に落雷で焼失。1621年に徳川秀忠、お江(崇源院)が再建、
徳川家菩提寺として江戸時代を通じ、特別な寺院だったようです。
将軍家や大大名という身分の者だけに参拝が許されており、養源院が
発行する「桃山の印」が押印されている証書は、要求通りに幕府から
資財を調達できたといいます。

さて、今は誰でも拝観料を払えば拝観が許されるので・・・しかも
ガイドさんの案内付です。録音テープによる説明もありますが。(^_^ゞ



血天井は後に回して、私的にはこれが観たかった♪
俵屋宗達の描いた「杉戸絵」。杉の板戸に彩色されたもので、
線に見える部分は色が塗られてなく、板のままだったりします。
「獅子」「白象」「麒麟」が、それぞれ1枚の杉戸に1頭ずつ描かれて
おり、2枚1組になっています。
撮影は禁止されているので、写真は拝観料を払ったらもらえる絵はがき。
杉戸絵は6種あるのかな、販売もされていたと思います。
この他にも本堂松の間では宗達の「金地着色松図」が観られます。
部屋の中央に座れば4面の襖絵が3方に、合計襖12面に囲まれますが
10人ほどのグループで案内が進められますから、マイペースで観られ
ないのが、ちと残念。杉戸絵ももっとじっくり観たかったな。

養源院、本堂の廊下は左甚五郎が手がけたと伝わる「うぐいす張り」、
庭園は小堀遠州作庭と、当時売り出しの人気アーティスト勢揃い?
再建にあたり徳川家の菩提所に相応しいよう集められたのでしょうね。


さてさて、メインの見せ物?「血天井」ですが、これも少し経緯を
整理する必要があるかな・・・
簡単に言ってしまえば、1600(慶長5)年、関ヶ原合戦の前哨戦で
伏見城が落城した際、家康から同城守備を命じられた鳥居元忠以下の
380余名が討死、自刃した時の床板を天井に用いたものと言われ、
俗に血天井と呼ばれている。
ここの他、京都の数カ所以上のお寺に残されているようですが・・・

そもそも伏見城とは、すでに大阪城を築城、関白の位と京都における
政庁聚楽第を豊臣秀次に譲った秀吉が、大阪と京都を結ぶ要衝の地で
あった伏見に自らの隠居所として屋敷構えの城でした。
ただ、最初に築かれたこの城は秀吉が入城、1596年に完成しましたが
その直後、慶長伏見地震によって倒壊。ここだけでも600名近い死者が
出たとか。秀吉一家は無事に助け出され、近くで避難生活をしていた
ようです。
京都を襲ったこの地震では秀吉が創建した方広寺に安置するはずだった
東大寺大仏をしのぐ大仏が開眼前に倒壊しています。

この慶長大地震、1596年9月1日に愛媛(伊予)でM7.0の地震が発生。
その3日後の9月4日には大分(豊後)でM7.0~7.8の地震を起こし、
翌日9月5日に近畿地方を襲ったもので、淡路島~神戸~大阪北を走る
六甲・淡路島断層帯での地震と考えられています。
余震は翌年春まで続いたとか。
中央構造線沿いの連鎖地震、今回の熊本・大分の地震と無関係とは
思えませんね。ちなみに慶長年間には1605年に紀伊半島沖と房総沖が
連動したM8.0の地震津波、1611年、会津地方で直下型地震、同年に
三陸沖を震源とした地震、大津波も。1614年にも広範囲の地震が
記録されているとかで、18年の間に度重なる地震被害が出ています。

伏見城の話しに戻ると、地震で倒壊した当初の伏見城、火災は起きな
かったので、その資材を再利用してすぐに再建にかかります。
すでに捨丸(秀頼)が誕生、秀次を追放・切腹させ聚楽第も破却し、
淀城などからも資材や建築物を移築、同時に大土木工事も行ない
城下町も整備された本格的な城構えが超ハイスピードで築造された
ようです。完成した伏見城は日本の城郭史上、最高の豪華絢爛な
ものだったとも・・・しかし在城期間わずか4年、秀吉はこの城で
5歳の秀頼を残して病死します。

秀吉に秀頼の行く末を託され、約束していた徳川家康、五大老の
前田利家が翌年に病死すると、全権掌握?。すぐさま石田三成を
追放し、伏見城へ留守居役として入城。
間もなく、幼い豊臣秀頼の居城・大阪城へと移り実質上の天下人の
ふるまい。そりゃおかしい、あかんやろ!と、三成が蜂起の動きを
見て取ると、1600年、家康は上杉景勝征伐に会津攻めに向かいます。
案の定、三成は反家康派の諸大名を叫号して挙兵、大阪城を制圧し、
伏見城明け渡しを迫るが、伏見城を任されていた徳川譜代の家臣・
鳥居元忠を総大将とする1800名の兵が4万の大軍を相手に徹底抗戦。
落城まで2週間近く足止めするという予想外の奮戦をみせるが、
内通者により火をつけられ、支えきれず鳥居元忠はじめ、380余名が
討死に自刃した。武将達の遺体は夏場1ヶ月以上も放置されたとか。
その血が城内の床板に沁み込み、痕が残ったと言われます。
将兵達の霊を供養するため、その床板を天井に上げたものが
「血天井」です。
今も生々しい血の痕があちこちに残る血天井、ガイドの方が棒などで
指し示し、これが手の跡、足はこっちね。これで一人分、こっちの
跡は首が無いでしょ・・・などと丁寧に説明してくれます。

この伏見城の戦いは家康の“仕掛け”だったとも言われてしますね。
これで敵が誰かを把握できた。鳥居元忠が奮戦、足止めをしてくれた
お蔭で、敵側諜略の準備の時間が稼げた。現に家康は会津に向かわず
江戸城に留まっていたようですから・・・
この約1ヶ月半後、満を持して決戦の地、関ヶ原へ向かいます。
ところで、捨て駒になった鳥居元忠。家康より4歳歳上で13歳の頃より
家康に仕えていた古参中の古参。家康に頼まれこの役割の意味を
承知した上で、命と引き換えに家康の天下取りを援護したもので、
家康はその忠義を「三河武士の鑑」と賞賛。この時の血染めの畳を
江戸城伏見櫓の階上に置き、登城した大名たちに元忠の忠節を
偲ばせたのだとか。同じような意味合いであちこちの寺に血天井を
置かせたのかもしれませんね。

ふぅ~っ、やっと養源院の解説が終えられそうです。(^_^ゞ
少し他も見て回っとこ。




〈毘沙門天〉と〈白衣弁財天〉


〈勅使門?〉・・・勅使門(北門)からの参道の奥にある門です。


さて、お隣りの『法住寺』も入ってみますか・・・



三十三間堂の東向かい、養源院の南隣りにあります。今は小さな寺院
ですが、ここも歴史の波に翻弄された寺院なので詳しく調べると・・・
今回はちらっと寄っただけなので簡単に。(^_^ゞ



988年、平安中期に藤原為光によって創建された寺院ですがその後、
後白河上皇が院政を行なうため広大な院御所を造営。その南殿として
法住寺殿が築かれ、蓮華王院(三十三間堂)などと同じく包摂された
ものとなります。上皇と平家の栄華を象徴する法住寺殿でしたが、
20余年後には木曾義仲により攻められ、焼失。(法住寺合戦:1183年)
後白河上皇は逃亡し、平家も都を追われます。
1192年、上皇崩御により法華堂がつくられ、御陵とさだめられます。
現在の法住寺の北に隣接したところに後白河天皇陵がありますが、
平日しか入れないようです。

そう言えば、法住寺合戦の2年後、1185年には文治地震M7.4が発生。
平忠盛(清盛の父)が鳥羽上皇(後白河上皇の父)のために造営した
得長寿院・三十三間堂が崩壊しています。ちなみに壇ノ浦の戦いで
平家が滅亡したのがこの年です。



豊臣政権下では、秀吉が造営した大仏殿・方広寺の寺領に包摂されます。
江戸時代は徳川の庇護があったようです。
元禄期には赤穂浪士・大石内蔵助がこの法住寺に参拝したと伝えられ、
その縁から四十七士木像が安置されています。
そう言えば大石内蔵助は、前述の血天井・鳥居元忠の子孫なんです。
忠臣のお家柄?それにしても縁がありますね。



後白河上皇を守った「身代わり不動尊像」、毎年5月1日から7日に
御開扉され参拝できる「後白河法王御木像」、親鸞聖人が自ら刻んだ
阿弥陀如来立像、聖人座像(蕎麦喰いの御像)などなどあるのですが。



竜宮門ですね、旧御陵正門の石標が立っています。
「あそびをせんとやうまれけん」と彫られた石碑もありましたよ。



なんと!このお寺、サザエさんの作者・長谷川町子さんの遺骨が安置
されています。生前、訪れた時に気に入られたということで。
サザエさんやタラちゃん、ワカメちゃんなど、直筆のイラストも
飾られているそうです。気がつかなかったけど・・・



ここを訪ねたのが2月14日、早くも梅の花が満開♪だと写真を撮った
のですが・・・アップするのが今になるとは。(^_^ゞ







三十三間堂の駐車場に停めて養源院と法住寺も訪ねようと思っていた
のですが、一応ルール違反ってことで。国立博物館の有料駐車場に
停めてから行ったのですが、養源院も法住寺にも無料駐車場が
あったみたいです。






智積院(ちしゃくいん)にも無料駐車場があります。
いずれ訪ねてみたいと・・・ここも充分前調べする必要がありそうです。
見落としがないようにね。(^_^ゞ
ここの寺紋は加藤清正の桔梗紋なんですね。
加藤清正といえば、熊本城。日本三名城のひとつですが、
今回の地震で・・・
すでに日本財団が熊本県や大分県の被災者に93億円規模の緊急支援を
行うと発表。このうち30億円は熊本城の再建に充てるそうです。

日本は自然災害の多い国です。日本人はそこから復興、立ち直る術を
学び、知っている民族だと思います。それは支え合うことが大切だと。
今回も大災害、家族や家を失い、生活すらままならない被災された方の
気持ちを考えれば、いたたまれないです。
直接何もできませんが、わずかばかりの支援募金、それと応援すること
くらいですかね・・・こういう時こそインターネットは力を発揮できる
と信じたいです。

くまモンがネット配信を自粛してますね。そんなくまモンを応援する
イラストメッセージ、素敵だと思います♪『くまモン応援』
「クマモンがクマっている 助っ人にいくベア」



2016.2/14、三十三間堂にて。