カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

立誠小学校にみる京都。

2013-11-11 23:50:08 | 京都徘徊記
立誠小学校は土佐藩邸跡に建てられたもので、学区内には池田屋跡、海援隊屯所跡、
阪本竜馬が暗殺された近江屋跡など数多くの史跡があり、幕末維新の舞台でした。





ここの校舎が出来たのは昭和初期、当時の京都市 営繕課では興味深い学舎建築を
多数手掛けています。それも画一的なものでは無く、それぞれ個性あふれる当時流行の
洋風デザインを取り入れたものが多く、今となってはレトロ感を味わえるものです。

これには京都の特異性が関係してます。京都では明治維新直後、政府の学制に先駆けて
学区制度を実施。それまであった町組は「上京(下京)第○○番組」という通し番号の
ついた地域的なまとまりを持つ組織に再編され「番組」と呼ばれるようになりました。
64あった番組のひとつひとつに小学校を設置、府からの援助金の他に、町衆が寄付をして
競い合って立派な学舎を建てたようです。

その内、幾つかは今でも覧られます。京都のレトロな小学校巡りはいかがでしょう。
旧開智小学校 正門=1901(明治34)年 現[京都市学校歴史博物館]
旧立誠小学校 1928(昭和3)年 [元・立誠小学校HP]
旧龍池小学校 1929(昭和4)年 現[京都国際マンガミュージアム]
旧明倫小学校 1931(昭和6)年 現[京都芸術センター]
これらはカタチを変えて保存運営されているので、気軽に入れます。(一部有料)
その他にも現役の学舎では、京都市立淳風小学校 1931(昭和6)年、京都市立銅駝美術
工芸高校 旧・銅駝小学校 1938(昭和13)年など探せばまだありそうですが・・・
※年号は現存する建物の年代です。開校はいずれも1869(明治2)年。
京都市立清水小学校 1933(昭和8)年 は、2年前に閉校、来年春までは現状保存が
決まっているようですが、その後はどうなるのかな・・・



幕末の動乱(禁門の変、鳥羽伏見の戦いなど)により、京の街は灰燼に帰し、挙げ句
明治政府は天皇を東京行幸と称し、京都から連れ出し拉致監禁?東京を首都と決めます。
これに関して一部の京都人は未だに「天皇さんは東京に長期滞在されておいやすだけ、
遷都の詔(みことのり)も出されておへんので、平安京はまだ続いておすのどす」って!
事実、京都御所ではいつお帰りになってもよいように準備が整えられているようですし
明治元年に『江戸ヲ称シテ東京(とうけい)ト爲(な)スノ詔書』が発布され、江戸改め
東京が京都(平安京)と相並ぶ帝都に昇格はしたものの、『東京遷都の詔』は未だに
発布されてはいません。・・・話しが外れました。(^_^ゞ
閑話休題
維新後の京都市民、町衆はこの頃、失望のどん底状態。そこで考えたのが、近代化に
よって日本の都たる地位を守ろうと。だからこの頃、日本初という事業がやたら多い。
教育関係だけでも、日本初の近代小学校は1869年開学の上京第二十七番組小学校
(現・京都市立柳池中学校)および下京第十四番組小学校(後の修徳小学校)。
近代中学校・高等学校も、京都府中学校(現・洛北高校)。日本初の私立大学は、
新島襄による「同志社大学」。大河ドラマ「八重の桜」をご覧の方は詳しくご存知でしょう。
ちなみに、日本で初めて制服としてセーラー服を採用したのも京都の
平安高等女学校(現・平安女学院)なんですね♪





話しを立誠小学校に戻します。この校名は当時の京都府知事槇村正直氏によって、
論語の「立誠而居敬」から命名されたようです。
槇村正直と言えば元長州藩、府会議長を努める山本覚馬(元会津藩)と対立する場面が
「八重の桜」でも描かれていましたが、どちらの人物も京都の近代化には欠かせなかった
リーダーだったと思います。特に山本覚馬は、槇村の下で、小中学校・女学校・病院・
医学校などの設立に力を尽くすなど教育にも熱心で、同志社大学の創立者新島襄の
協力者としても有名(新島襄の妻は覚馬の妹、八重)。
日本で最初の博覧会、「内国勧業博覧会」を京都で開催。その際、英文観光案内書を
刊行。それは外国人向けの英文で綴られた京都の観光ガイドブックだったわけで、
国際観光都市京都の礎を築いたともされます。
視力を無くし、脊椎損傷のため身体の自由までも失いながらの業績。京都の近代化に
大いに貢献した山本覚馬。この人物の力なくして今の京都は無かったかも。



またまた話しが脱線しました。立誠小学校の前を流れる川は高瀬川、春には桜並木が
美しく、恒例の「高瀬川桜まつり」も行われます。今年はウチの次男坊のバンドが
ここでライブをしたそうです。
この高瀬川は江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって、京都の中心部と
伏見を結ぶために物流用に開削された運河で、300年間にわたり水運に使われました。
その後は森鴎外、吉川英治をはじめ、小説の題材にもしばしば登場する名所として
観光客や市民を癒しています。



ただ、この周辺は京都の歓楽街でもあり、かなり風紀が悪い時期もありました。僕らの若い時も夜には近寄り難いエリアでしたが、今は随分改善されているようです。
元立誠小学校も祇園木屋町特別警察隊の拠点として活用されています。



立誠小学校敷地は土佐藩邸跡ということもあって、路地を隔てて北には
今でもこんな神社が残されています。



「岬神社」海の無い京都には似つかわしくない名前なので不思議だったのですが
坂本龍馬の銅像や写真が置かれている小さなお宮ですが、龍馬の誕生日で命日でもある
11月15日には、多くの龍馬ファンがお参りに来られるようです。
 ちなみに龍馬の生没月日、正確には天保6年11月15日(1836年1月3日)生まれ、
慶応3年11月15日(1867年12月10日)没なんですよね、ややこしい。







2013.10/27、立誠小学校北側にて。