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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「鑓の権三」

2020-07-12 06:23:59 | 映画の感想(や行)
 86年作品。篠田正浩監督のこの頃の代表作である。原作は近松門左衛門の世話浄瑠璃「鑓の権三重帷子」だが、単なる古典の映画化ではなく、見事に現代にも通じるテイストを獲得している。キャストの仕事ぶりや映像も申し分ない。その年のキネマ旬報ベスト・テンでは、6位にランクインしている。

 江戸時代中期、出雲・松江藩士である笹野権三は槍の使い手で美男、城下町で歌にまで持て囃されるほどの人気者だった。江戸詰の夫の留守宅を守っている妻おさゐは、権三を娘の婿にと望んでいるが、心のどこかで“私だって、一緒になりたいくらいだ”と思っていた。権三は茶の湯で立身出世を狙っており、茶道の師匠でもあるおさゐの夫から秘伝書を見せてもらう交換条件に、娘との結婚を承諾する。



 ところが、権三には別に付き合っていた女がおり、それを聞いて怒ったおさゐは深夜、権三を問い詰める。そのことを偶然知った権三の同僚の伴之丞は、てっきり2人が不倫していると思い込み、街中にそのことを触れ回るのだった。窮地に立たされた権三とおさゐはやむなく逐電するが、おさゐの夫市之進がその後を追う。

 確たる証拠も無いのに、一部のアジテーターの物言いだけでデマが広がり、当事者たちが辛酸を嘗めるという図式は、まるで今の管理社会と同じだ。そんな無責任な言説が一人歩きしてゆく様子は、本作が撮られた80年代よりもSNSが普及した現在の方が最終的なダメージは大きくなる。そういう事例が多発している昨今だ。

 本来、恋愛関係には無かった2人であったが、破滅への道行きの間に思わず心を通わせる。建前だけの生活を送ってきた権三とおさゐは、初めて人間らしい生き方を模索するのだ。残念ながらこのあたりはもっとパッションを盛り上げて欲しいと思うが、クールな持ち味の篠田監督はそこまで踏み切れなかったのかもしれない。

 権三を演じているのは郷ひろみで、当時は意欲的に映画に出ていた。本作では演技が少し硬いところがあるが、主人公の造型としては万全だろう。おさゐに扮する岩下志麻はまさに“横綱相撲”で、安心してスクリーンに対峙出来る。火野正平に田中美佐子、加藤治子、大滝秀治、竹中直人、浜村純など、脇の面子はかなり豪華。武満徹の音楽、そして当時は朝日賞を受賞したばかりの宮川一夫の、深みのあるカメラワークは素晴らしい。
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「悪の偶像」

2020-07-11 06:39:18 | 映画の感想(あ行)

 (英題:IDOL)脚本がダメ。そもそも、この設定はいくらでも話を面白くすることが出来る。たとえ経験の浅い脚本家がストーリーを手掛けたとしても、何とかサマになる筋書きを考え付くはずだ。しかし本作は、そんな発展性のあるアウトラインを打ち消すかのような迷走ぶりを示し、まるで“典型的な失敗例”を展観しているかのようだ。せっかく良い役者を揃えているのに、もったいない話である。

 韓国の地方都市の市会議員ク・ミョンフェはクリーンなイメージで高支持率を得ており、次の知事選への立候補も取り沙汰されていた。ところがある日、息子のヨハンが飲酒運転した上に人をひき殺してしまう。帰宅したミョンフェが見たものは、ヨハンが運び込んだガレージに横たわる遺体だった。ミョンフェは、死体遺棄の罪を免れるためその遺体を事故現場に戻し、ヨハンをひき逃げ犯として自首させることにして、イメージダウンを最小限にとどめようとする。

 被害者は工具店の主人ユ・ジュンシクの長男プナンで、事故はプナンが妻リョナとの新婚旅行の最中に起きたことが判明する。しかし事故を目撃したはずのリョナは行方不明で、ミョンフェは警察がリョナの身柄を確保する前に彼女を探し当てるため、裏社会の探偵を雇う。一方ジュンシクは、担当弁護士との打ち合わせ中に、この事故に不審な点があることに気付く。

 加害者の親と被害者の親、そしてそれぞれの社会的地位も違う。この2人が思い掛けず関わり合うようになり、互いに苦悩を抱えつつも激しい心理戦を展開してゆくという設定ならば、映画としてある程度のレベルは約束されたようなものだが、なぜか本作ではそうならない。

 まず、リョナは中国出身の不法滞在者で、取り調べを受ければ強制送還される可能性が高かったというモチーフが示されるが、それ自体はまだ問題は無い。ところが実は彼女は妊娠中で、相手の男がプナンではないらしいことや、リョナと一緒に中国からやってきた異父姉がいて、その周囲を怪しい男がうろついていること、さらにはなぜかジュンシクがミョンフェの選挙活動に協力することなど、余計な話や意味不明のエピソードが次々と積み上がってゆく。

 プナンは知的障害があり、リョナが彼を夫としたのは滞在の名目を得るためだったのは確かだが、その結婚に関して周囲が黙認するのは奇妙としか言いようがない。中盤を過ぎるとミョンフェが凶行に走ったり、件の謎の男が暗躍したりと、ストーリーはさらに迷走。いつの間にかヨハンはスクリーン上からいなくなり、ジュンシクは訳の分からない奇行に走る。見終われば違和感しか残らない。

 シナリオも手掛けたイ・スジンの演出は、行き当たりばったりで求心力を発揮出来ず。ハン・ソッキュにソル・ギョング、チョン・ウヒなどの上手い役者を集めておきながら、ロクな仕事もさせていない。正直言って、観て損したという感じだ。
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「髪結いの亭主」

2020-07-10 06:38:33 | 映画の感想(か行)
 (原題:LE MARI DE LA COIFFEUSE )90年フランス作品。パトリス・ルコント監督作品としては89年に撮られた「仕立て屋の恋」にクォリティは一歩譲るが、知名度ではこちらの方が上である。日本ではタイトルと同名のことわざがあるので題名の訴求力が高いというのも確かだが、変化球を駆使したピュアな恋物語としての存在価値は大いにある。

 ドーヴィルの海岸沿いに住む少年アントワーヌは、アラブ音楽に自己流の振り付けを施して踊ることと、床屋に行くことが大好きだった。彼は理髪店のシェーファー夫人のことが気に入っており、夕飯の席で“僕は女の床屋さんと結婚する!”と宣言して父親に怒られる始末だ。大人になった彼は、フラリと入った床屋で魅力的な女理髪師マチルドに一目惚れしてしまう。



 いきなり求婚する彼だが、彼女は無視する。それでもめげずに床屋に通い詰める彼だが、三週間目で何とマチルドは彼のプロポーズを受け容れるのだった。彼女と一緒に暮らすことになったアントワーヌは幸せの絶頂で、しばらくは平穏な日々が続いたが、ある雷雨の日に思いがけないことが起きる。

 映画の舞台が基本的に2つしかないことに、まず驚かされる。具体的にはアントワーヌの子供時代と、結婚後の彼が理髪店で訪れる客と繰り広げる寸劇めいた人間模様だ。さらには、2人の住居で映し出されるのは店舗のみ。寝室もキッチンも居間も画面には出てこない。これは純粋に映画をアントワーヌとマチルドの恋模様にフォーカスさせたということだが、どこか現実感の無い、夢の中の話のように思える。

 だが反面、互いに好きな相手のことだけ考えていられたら、どんなに素敵なことかと感じさせるのも事実だ。誰だって、この2人のような生き方を選ぶチャンスはあるのだろう。しかし、社会的なしがらみやら何やらで、それは実現しない。ルコント監督は、この“あり得ない話”をロマンティックに語ることにかけては目覚ましい手腕を発揮する。

 とはいえ、ラストの唐突さはさすがの私もついて行けなかった。もう少し、後味の良い処理にしても良かったのではないか。主演のジャン・ロシュフォールとアンナ・ガリエナは好演で、思わず感情移入してしまう。エドゥアルド・セラのカメラとマイケル・ナイマンの音楽も的確な仕事ぶりだ。
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「スペンサー・コンフィデンシャル」

2020-07-06 06:56:35 | 映画の感想(さ行)

 (原題:SPENSER CONFIDENTIAL)2020年3月よりNetflixで配信されたアクション・コメディ。取り立てて評価するようなシャシンではないのだが、良い感じでユルく、気軽に楽しめることは確かだ。ピーター・バーグ監督作品としても「バトルシップ」(2012年)や「バーニング・オーシャン」(2016年)みたいなハードな大作ではなく、小規模で肩の力が抜けたようなタッチで好印象だ。

 ボストン市警のスペンサー巡査は上司ボイランに暴行をはたらき逮捕される。警察をクビになって5年の刑期を終えて出所した彼は、格闘技のジムを経営する友人ヘンリーのもとへ身を寄せるが、ガサツな大男のホークとルームメイトとして同居するハメになり閉口する。そんなある日、ボイランが何者かに殺されるという事件が発生。警察はボイランの相棒テレンスによる犯行だと断定し、テレンスは程なく自殺してしまう。釈然としないものを感じたスペンサーは、ホークやヘンリーと一緒に調査を開始。やがて、警察上層部を巻き込む腐敗の構図が浮かび上がってくる。

 マーク・ウォールバーグ扮する主人公の造型が上手くいっている。事件そのものは陰惨で悪質なのだが、スペンサーは人を殺さないし、やたら銃をぶっ放したりもしない。腕っ節の強さだけで敵をねじ伏せる。ウォールバーグらしい愛嬌の良さも好印象だ。ウィンストン・デューク演じるホークはさらに憎めないキャラクターで、特に、意地悪をされた相手の車にアホな落書きをして一人悦に入る場面など、まるで頭の中が小学生である。

 アラン・アーキン扮するヘンリーに至っては、老人らしいボケたネタを披露して周囲を煙に巻く。こんな奴らが徒手空拳で戦いを挑んできては、さすがの悪の組織も相手にペースを奪われ、ついには自滅に近い形で崩壊するしか無いのだ(笑)。続編の製作を匂わせる幕切れも悪くない。

 P・バーグの演出はいい案配の脱力系で、活劇場面もオフビートながらノリで見せてしまう。イライザ・シュレシンガーやマイケル・ガストン、コリーン・キャンプ(←若い頃は美人でセクシーだったが、今はすっかり太ったオバちゃんだ ^^;)といった脇の面子も良い。

 それにしても、事件の背景にはカジノ建設に伴う莫大な利権の源流があり、ジャーナリストが“健全なカジノなんか無い。あんなものは不正の温床だ”と言い放つ場面は印象的。我が国の政治家にも聞かせたいセリフだ。なお、バックに流れる音楽がエアロスミスやボストンなどの“ご当地バンド”のナンバー中心だったのには笑った。
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「ルース・エドガー」

2020-07-05 06:23:15 | 映画の感想(ら行)
 (原題:LUCE)端的に言って、これは“何かあると思わせて、実は何もない映画”である。いや、正確には“何かある”のだとは思う。しかし、それが映画的興趣を喚起するほどに十分描き切れていないだけだ。聞けば本国での評価は上々らしいが、理解できない。あるいは彼の地ではリベラルっぽいネタを扱えば、斯様な生ぬるい出来でも評価されるということだろうか。

 首都ワシントンの郊外に住むピーターとエイミーのエドガー夫妻は、紛争が続くアフリカのエリトリアから子供を養子に迎え、10年にわたって育ててきた。その子はエドガーと名付けられ、学業とスポーツの両面で優れた成績を収める高校生へと成長。周囲の人望も厚い。だが、社会科の教師ハリエットは、エドガーが提出したレポートが過激派に与したような内容だったことに驚く。さらに彼のロッカーからは危険な花火が見つかる。彼女はエイミーを学校に呼び出して注進するが、その頃から学校やエドガー家において不可解な出来事が頻発する。



 ナオミ・ワッツとティム・ロスが扮する夫婦が得体の知れない若造に翻弄される・・・・という筋書きならば、どうしてもミヒャエル・ハネケ監督の鬼畜的快作「ファニーゲーム U.S.A. 」(2008年)を思い出してしまう。だから、いつハネケ作品のような不条理で残虐な場面が出てくるのかと待ち構えていると、大したことは起こらず肩透かしを食らわされた(笑)。

 そもそも、映画の設定自体に難がある。エドガー夫妻がどうして遠く離れた土地からエドガーを引き取ったのか、その背景が分からない。2人の間に子供が出来なかったのかもしれないが、それだけではアフリカから養子を迎える理由にはならない。しかも、ビーターは前妻との間に一子を儲けている。おそらくはこの夫婦はリベラルな思想の持ち主で“アフリカの子供を助けたい”という意向があったのかもしれないが、万人には受け入れがたい価値観だ。

 ハリエットの妹がメンタル面でのハンデを負っていたり、韓国系の女生徒がエドガーに絡んだりといったモチーフも、思わせぶりなだけで映画の本筋に食い込んでいかない。アメリカで生まれ育った黒人と、同じ黒人でもアフリカからやってきたエドガーとでは、当然のことながら立場が違う。そのあたりのディレンマを描こうとしているフシもあるが、観ているこちらには強く迫ってくるものが無い。そして映画はどうでもいいようなラストを用意しているのみだ。

 ジュリアス・オナーの演出はピリッとせず、全編に渡って煮え切らなさが漂う。原作のJ・C・リーはアジア系とのことで、黒人を描く上でどこか他人事みたいなタッチであるのは、そのことも関係しているのか。ワッツとロスのパフォーマンスは想定の範囲内だし、オクタヴィア・スペンサーやケルヴィン・ハリソン・Jr.などの面子も大したことはない。ジェフ・バロウとベン・ソールズベリーによるインダストリアル系の音楽は、映画に合っているとは言い難い。
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「コリーニ事件」

2020-07-04 06:58:28 | 映画の感想(か行)

 (原題:DER FALL COLLINI)良く出来た法廷ものだが、同時に釈然としない気持ちもある。裁判劇に歴史解釈に関するネタを持ち込むと、かなり盛り上がる反面、筋書きに対して賛否両論出てくるのは仕方がないと思う。しかも、事件の真相が登場人物達にとっては記憶が生々しい第二次大戦時の出来事に準拠しており、一方的に否定するのは相応しくないものの、諸手を挙げての高評価も付けがたい。難しい立ち位置にある映画だ。

 2001年5月、ベルリンに住む新米弁護士のカスパー・ライネンは、ある殺人事件の国選弁護人に任命される。被告人は30年にわたってドイツで模範的な市民として働いてきた67歳のイタリア人コリーニで、大物実業家ハンス・マイヤーをベルリンのホテルで殺害したという容疑だ。カスパーはこれが刑事事件としての初仕事になるが、何と被害者が彼の少年時代からの恩人だったことを知り、狼狽する。

 早速カスパーはコリーニと会うが、相手は取り調べ中から黙秘権を行使し、カスパーの問いかけにも一切答えない。それでも彼はコリーニの出生地まで足を運んで調べると、事件の背景に第二次大戦下で彼の地で起こった犯罪があることが分かる。フェルディナント・フォン・シーラッハによるベストセラー小説の映画化だ。

 ドイツ映画で第二次大戦時の出来事がモチーフになると、ナチスによる狼藉がネタとして出てくることは十分予想され、本作もその通りに進む。興味深いのは、戦時中の不祥事を不問にするという“ドレーヤー法”という法律だ。これによってかつてのドイツ兵は“恩赦”のような形で、戦後はカタギの生活を送ることが出来たらしい。だがこの映画は、そんな事実に真っ向から異議を唱えている。

 確かに、戦争中にあくどいことをやった連中が現在涼しい顔しているという構図は道義的にあり得ない。しかし、戦争というものは大抵悲惨なものだ。数多くの非道な仕打ちをいちいち摘発していては、キリがないのではないかと思ってしまう。この“ドレーヤー法”も、そのあたりのケジメを付けるために制定されたものなのだろう。

 注視したいのは、この映画はフィクションであり、実録ものではない点だ。そのため、私怨を抱えたまま戦後を生きるコリーニと、過去を悔いてはいるが努力と善行を積んで社会地位を得たマイヤーというキャラクター配置は、図式的に見えてしまう。だから、イマイチ観ている側に響かない。それよりも、トルコ移民の血を引くカスパーが差別に苦しむくだりの方が興味深い。特に、かつて恋仲だったマイヤーの娘が彼に対して侮蔑的なセリフを投げつけるシーンは苦々しく、映画としてはこちらの方を中心に描いた方が成果が上がったのではと思う。

 マルコ・クロイツパイントナーの演出は堅牢で脆弱な部分が無く、ラストの処理も鮮やかだ。主演のエリアス・ムバレクをはじめアレクサンドラ・マリア・ララ、ハイナー・ラウターバッハ、ピア・シュトゥツェンシュタインといった面々は良い仕事をしている。そして何より、コリーニ役のフランコ・ネロの存在感には圧倒される。とはいえ、毎度ドイツ国民にとっての“ナチスは絶対悪”という定説が前面に押し出されるのは、正直言って食傷気味だ。
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「サン・スーシの女」

2020-07-03 06:05:03 | 映画の感想(さ行)
 (原題:La Passante du Sans-Souci )82年作品。若くして世を去ったロミー・シュナイダーの遺作というだけでも感慨深いが、内容も悲痛で観ていて胸に迫るものがある。また演出も脚本も巧みで、主演女優の魅力を存分に発揮させている点は評価して良いし、見応えがある。

 1981年、国際会議に出席するためパリを訪れていた人権活動家のマックス・ボームスタインは、パラグアイ大使のルパート・フォン・レガートを突然射殺する。妻のニナは留置場でマックスと面会するが、彼はかつてのルパートとの関係を語るのだった。1933年のベルリン、父親をナチスに殺された10歳のマックスは、父の友人で歌手のエルザとミシェルの夫婦に引き取られる。



 ミシェルは反ナチ派の出版社の経営者で、やがて彼は当局側に拘束される。一人になったエルザに言い寄ったのがナチスの幹部ルパートだった。エルザはミシェルを釈放することを条件にルパートと付き合うことにする。拘束を解かれたミシェルとエルザは亡命者たちが集まるカフェ“サン・スーシ”に向かうが、そこで悲劇が起こる。ジョゼフ・ケッセルによる同名小説の映画化だ。

 シュナイダーの活躍の場は主にフランスであったが、実はドイツ出身だ。その遺作がドイツの現代史に暗い影を落とすナチスがらみであったことに、彼女ならではの存在を感じる。しかも過去のこととして決着をつけるのではなく、今もナチスの呪縛から逃れられないヨーロッパの状況とリンクさせたところに、この作品の存在価値がある。

 本作ではシュナイダーはニナとエルザの二役を演じているが、時代は違っても実質的に同一の女であることを感じさせて、このあたりのシナリオのは上手い。しかも、エルザとリナは双方ともその時代の犠牲者となるのだが、いつしかその運命がロミー・シュナイダーその人の不遇な晩年とも重ね合い、観ていて居たたまれない気持ちになる。

 監督ジャック・ルーフィオは、めまぐるしいモンタージュで2人の女を二重写しにするが、このあたりのケレンが鼻につくことも無く、スムーズに流れるのには感心するしかない。ミシェル・ピッコリにヘルムート・グリーム、ジェラール・クライン、マチュー・カリエール、マリア・シェルといったキャスティングに抜かりは無く、皆良いパフォーマンスを披露している。重厚な映像を創出するジャン・パンゼルのカメラと、流麗なジョルジュ・ドルリューの音楽も印象的だ。
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