元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

円城塔「道化師の蝶」

2013-11-15 06:48:28 | 読書感想文
 第146回の芥川賞を田中慎弥の「共喰い」と共に獲得した作品。無活用ラテン語という架空の言語で書かれた小説「猫の下で読むに限る」をめぐり、多言語を操る幻の作家・友幸友幸と、資産家A・A・エイブラムスとの、曖昧模糊とした関係性を延々と綴る。

 芥川賞の選考委員であった石原慎太郎が本書を評して“言葉の綾取りみたいな出来の悪いゲームに付き合わされる読者は、気の毒と言うよりない。こんな独りよがりの作品がどれほどの読者に小説として罷り通るかは、はなはだ疑わしい”と述べている。石原嫌いの私だが、この意見に関しては同感である(笑)。



 チャプターが変わる度に意味も無く主役が交代し、しかも一人称の表記がすべて同じ。ストーリーらしきものは見当たらず、何やら取り留めも無い言葉の“感触性”(?)みたいなものを徒然なるままに書き連ねているだけだ。

 もっとも“意味不明だからケシカラン!”と言うつもりは無い。ナンセンスな記述の連続であっても、書き方のメリハリやリズムの付け方によって独自のエンタテインメントを提示することは不可能ではないだろう。しかし、この小説には何も無い。最初から最後まで、散漫で求心力皆無の落書きじみた文書が垂れ流されるだけだ。

 取り柄と言えば、文体に“障害物”が無くてスラスラと読めるぐらいか。読後感で言えば、赤川次郎や東野圭吾と同レベル。飛行機の中で読める小説云々の話で始まるが、この本自体も“その程度のもの”であろう。いわば“乗り物の中で気軽に読める純文学もどき”だ(爆)。

 余談だが、芥川賞は年二回もくれてやる必要は無いと思う。もちろん受賞作の中には面白いものもあるが、多くは誰に読ませたいのかさっぱり分からないようなシロモノだ。真に賞を与えるに相応しい小説が出てきたときに限り、進呈されるべきものであろう。そうなると10年に一度か二度しか受賞者が出ないかもしれないが、それで良いと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「共喰い」

2013-11-11 06:35:08 | 映画の感想(た行)

 終盤まではイイ線行っていたのだが、原作には無いエピローグが全てをぶち壊してしまう。原作者の田中慎弥はこの部分を絶賛したらしいが、冗談じゃない。取って付けたような脚色など、百害あって一利無しだ。

 昭和63年の夏。下関市の河口近くの寂れた地区に住む高校生の遠馬は、粗暴な父親の円(まどか)とその愛人の琴子と3人で暮らしている。実の母の仁子はとっくの昔に家を出ているが、近くで鮮魚店を営んでおり、密かに遠馬を見守っている。円には性交の際に相手を殴るというクセがあり、仁子が出て行ったのもそれが原因なのだが、遠馬はその性癖を自分も受け継いでいるのではないかと悩む。

 遠馬には千種というガールフレンドがいるのだが、ある日彼女とのセックスの途中で相手の首を絞めてしまったことに愕然とする。円の子を宿した琴子もやはり家を後にし、欲望を持て余した円は千種をレイプする。逆上した遠馬はこの歪んだ家族関係を清算しようとするのだが・・・・。

 淀んだ川の水のような、登場人物達の行き場の無い情念が交錯し、映画は濃密な空間を提供する。血の濃さから抜け出そうとして藻掻く人物像は、言うまでもなく青山真治監督が出世作「Helpless」(96年)から継続して取り上げてきたモチーフだが、本作でもそれは踏襲されている。

 さらに本作の時代設定は80年代後半のバブル景気の頃であり、浮かれる世間とは裏腹に、目の前の懊悩に身もだえする主人公達を接写することで目を見張るコントラストを生み出している。演出テンポには弛緩したところが無く、今井孝博による撮影や山田勲生の音楽も的確だ。

 さて、問題はラスト近くの扱いである。原作とは異なり、映画は“昭和の終わり”を強調しているが、これがまるで不発だ。仁子は空襲で片腕を失っているが、それを無理矢理に天皇の戦争責任やら何やらに結びつけようとしている。脚本担当の荒井晴彦は団塊世代であるから、リベラルな視点を挿入せずにはいられなかったのだとは思うが、そのあたりがドラマから完全に浮いている。

 だいたい、小市民的な彼らに大仰な“歴史認識”なんかをさせる義理は無いではないか。そういうネタを扱いたいのならば、映画のあちこちに抑制的な暗示を配備するに止めておくべきだったろう。

 遠馬役の菅田将暉は不敵な面構えと鋭い眼光で、観る者を引きつける。今後の活躍が期待出来る逸材だ。円に扮した光石研、仁子を演じる田中裕子、共に目を見張る力演だ。琴子役の篠原友希と千種に扮する木下美咲も物怖じしないパフォーマンスで盛り上げる。それだけに、脚色の勇み足が惜しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

DEVIALETのアンプを聴いてみた。

2013-11-10 09:03:17 | プア・オーディオへの招待
 先日、フランスのメーカーDEVIALETのプリメインアンプを試聴する機会を持つことが出来た。同社の製品は以前D-Premier Airという機種を聴いたことがあるが、今回聴けたのは最近リリースされた新作の110と170である。

 ただし残念だったのは、繋げていたスピーカーがデンマークGato audio社のFM-6であったことだ。このスピーカーは前に聴いたことがあるが、消極的な展開の実につまらない音であった。今回の試聴会でも、やっぱり出てくるサウンドは面白味の無い退屈なもの。以前D-Premier Airに伊FRANCO SERBLIN社のスピーカーを接続した際に聴けた素晴らしい美音とは雲泥の差である。



 さらに言えば、110は定価78万円で、170に至っては98万円とプリメイン型アンプとしてはハイエンドクラスでありながら、他社の同クラスの製品との聴き比べが出来なかったため、果たしてこのDEVIALET製品が価格に見合った性能を有しているのか分からなかった。

 結局、今回チェック出来たのは110と170とのパフォーマンスの違いと、DEVIALET製品の定格やエクステリアだけである。

 両モデルは20万円の差しかないが、聴感上のクォリティは大きく異なる。早い話が、170の方がはるかに上だ。レンジ感、音場の広さ、音の伸び、どれをとっても110に大きく差を付ける。スタッフの話によると一番売れているのが170だというが、それも当然だろう。

 それから、DEVIALETのプリメインアンプはデザインが上質だ。一見オーディオボードかと思うほどスリムで、かつハイテックな雰囲気を醸し出している。少なくとも、従来のオーディオ用アンプが持つ威圧感は皆無だ。インテリア性もとびきり優れている。



 リモコンも未来志向の外観を有しているが、困ったことにヴォリューム表示が無い(笑)。その代わり、何とスマートフォンをリモコンとして使用可能なのだ。考えてみれば、スマホ全盛の昨今このような発想の製品が出てきてもおかしくなかったはずだが、いち早くそれを実現化した同社の企画力は大したものだ。

 なお、舶来品しかもフランス製ということでメンテナンス面で不安を覚える向きもあると思うが、メーカー担当者の話によると、今まで(前モデルも含めて)重大な故障事例は報告されていないという。それには理由があり、DEVIALETのアンプは内部配線が基盤の連結によって構成されているからだ。アンプの故障のほとんどは結線不良によるが、DEVIALET製品は内部ケーブル結線をほとんど廃止したことにより、トラブル発生率を大幅に抑え込むことに成功したのだという。

 もちろん、デジタル増幅方式に加えこのような内部構造にしたことによって筐体を小さく出来る。何度でも言っていることだが、やたらデカくて重いコンポーネントばかりを有り難がる風潮はもう古い。DEVIALETのモデルは高くて誰でも手を出せるようなものではないが、このような方法論がミドルクラスやエントリークラスにまで広まっていくことが、もしかするとオーディオの復調に繋がるのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「地獄でなぜ悪い」

2013-11-09 07:15:23 | 映画の感想(さ行)

 クライマックスの討ち入りシーンこそ段取りが悪くてあまり盛り上がらないが、園子温監督らしい狂騒的で強引なドラマ運びと、映画に対する強烈な思い入れが充満し、結果としてパワフルなブラック・コメディに仕上がった。

 新興ヤクザの北川会のヒットマン達が、敵対する武藤組の組長宅を急襲。しかし組長は不在で、いたのは留守を守る妻のしずえだけだった。夫の危機を感じた彼女は、包丁を振りかざして相手をメッタ刺しにする。逮捕されたしずえは過剰防衛で懲役10年の刑を言い渡される。10年後、しずえの出所を間近に控えた組長は、かつて人気子役だった娘のミツコが映画スターになった姿を見せるための、大々的な“自主映画”の製作に余念がなかった。

 ところが、ミツコは男と逐電。組長は彼女と相手の青年を捕らえたはずが、その男は全く無関係の通りすがりだった。このままでは彼が殺されてしまうと思ったミツコは、とっさに“彼は新進気鋭の映画監督で、自分の映画は彼に撮ってもらいたかった”と嘘をつく。かくして、ド素人の“監督”がヤクザの監視の下に映画を作るという、前代未聞のシチュエーションが現出する。

 一方、自主映画製作グループ“ファック・ボンバーズ”のメンバーたちは、10年間も活動を続けてきて、何の成果も上げることが出来ない。そんな彼らがひょんなことから武藤組の撮影グループと遭遇。映画スタッフとして合流し、北川会との出入りをドキュメンタリー・タッチで撮ることを提案する。

 北川会との綿密な“打ち合わせ”を経て、血しぶきとカメラが交錯する常軌を逸した世界が展開。デタラメ極まりない設定で、ヘタをすると悪ふざけのままドラマが空中分解してしまうところだが、そこをしっかりと繋ぎ止めているのは“ファック・ボンバーズ”の狂気にも似た映画への偏愛だ。

 このグループの主宰者は間違いなく園監督の“分身”であり、彼としても“もしもオレが今でもずっと売れないままならば、こんなイカレたキャラクターに成り果てていたのだろうな”という思いがあったのだろう(笑)。演じる長谷川博己は、もう見事な変態演技で場を盛り上げる。内容空疎な映画論もどきを自己陶酔的に滔々とまくし立て、周囲の迷惑なんか何も考えない。ここまでイッてしまったら、ある意味“幸福”なのかも(爆)。

 武藤組長に扮する國村隼をはじめ、北川会会長の堤真一や巻き込まれたヘタレ青年役の星野源、しずえ役の友近、映写技師を演じるミッキー・カーチス、刑事役の渡辺哲といった濃い面々の跳梁跋扈は楽しいが、中でも監督の思い入れが強いヒロイン役の二階堂ふみは光っている。アクションシーンも難なくこなし、姉の宮崎あおい(←姉じゃねえって ^^;)とは違った挑発的な魅力を放ち、この世代における飛び抜けた逸材であることを再確認した。それから、ミツコの子供時代を演じる子役の原菜乃華がめっぽう良い(彼女が歌う歯磨きのCMソングが頭から離れなくなった)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「片翼だけの天使」

2013-11-08 06:37:32 | 映画の感想(か行)
 86年作品。生島治郎原作の同名小説の映画化。出来としては大したことはないが、主演男優・二谷英明の渋いダンディズムを堪能する意味で、決して観て損は無い(笑)。

 離婚歴のある中年のミステリー作家・越路玄一郎は惚れた腫れたの色恋沙汰はもうたくさんとばかりに、禁欲的な生活に徹していた。ある日、船越は友人のカメラマンに無理矢理誘われて川崎の堀之内のソープランドに足を踏み入れる。そこで出会った韓国籍のソープ嬢・岡野景子に、年甲斐も無く恋心を抱いてしまう。

 何度も店に通う彼だが、その度に彼女に対する想いは募るばかり。一方の景子も彼のことを憎からず思うようになるが、彼女にはヤクザな旦那がいた。果たして船越と景子の恋は成就するのであろうか。

 原作者である生島の体験を元にした作品だが、いくらインテリ人種とはいえ、主人公の風俗店における振る舞いは“紳士的”過ぎて笑ってしまう。各所に御都合主義的な展開が施されて鼻白む思いだが、いくら“実録物”といってもかなりの脚色があるのだろう。

 ただ、これを二谷が演じると“まあ、いいんじゃないの”という気分にもなってくる。知っての通り、二谷は往年の日活スターの中でも突出してモテた(有名ハリウッド女優にまで手を出したらしい)。そのスマートな物腰はトシを取っても健在で、こんな一種浮き世離れした役をやらせても違和感が無い。

 舛田利雄の演出は可も無く不可も無しだが、雑味が無いので安心して観ていられる。三枝成彰の音楽も良い。また、ヒロイン役の秋野暢子は好演で、本作でキネマ旬報の主演女優賞を獲得している。脇の面子では景子の夫に扮するケーシー高峰と調子の良いカメラマンを演じたタモリが儲け役だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「夏の終り」

2013-11-07 06:25:47 | 映画の感想(な行)

 何やら熊切和嘉監督としては“方向性を間違えた”ような感じの映画である。彼の真骨頂はダメ人間を容赦なく描くところにあると思うのだが、どう考えても本作のヒロインは“ダメ”ではなく、それどころかアグレッシヴでとことん前向きだ。この違和感が最後まで拭いきれない。

 瀬戸内寂聴による自伝的小説の映画化だ。昭和30年代、藍染め作家の知子は売れない作家の小杉と半同棲生活を送っていた。小杉には妻子があり、彼は自宅と知子の家とを気ままに行き来している。しかも、そのことは妻も承知済だという。また知子には涼太という若い愛人もいて、時折逢瀬を重ねている。

 知子には離婚歴があり、それもかつての夫に自分から“好きな人が出来たから別れて欲しい”と繰り出すという、当時としては女傑的な振る舞いを平気でおこなう女である。藍染めの仕事も順調で、私生活では渋い中年と若い二枚目とを手玉に取り、小杉の妻の食えない態度に時たま不満がありそうな表情はしてみるが、自分の行く末をこれっぽっちも悲観していない。まるで熊切作品とは相容れないキャラクターだと言える。

 あまり慣れていないタイプの登場人物を画面の中心に据えているためか知子の描き方は表層的で、観ている側に少しもアピールしてこない。扮する満島ひかりの卓越した演技力をもってしても、キャラクター造形の面では及第点には達していないのだ。

 ならばこの映画において一番重点的に描くべきで素材は何だったのかというと、それは綾野剛が演じる涼太でなければならない。涼太は知子のかつての駆け落ち相手だったが、今では彼女の熱も冷めて“どうでも良い相手”に成り果ている。ところが、小杉との関係がマンネリズムに陥ったことをきっかけに、知子は再び涼太と懇ろになってしまう。

 彼はそれが知子の“一時の気まぐれ”であることを承知しつつも、未練がましい状態に自分を置いてしまう。もう、どうしようも無いほどのダメっぷりだ。この涼太の性格を突き詰めていけば、ダメさの果てにある“何か”を垣間見せようという熊切監督得意のパターンに持って行けたのだが、本作の企画自体がそういう仕組みにはなっていない。

 では小林薫が扮する小杉はどうかというと、確かに大ヒットしそうもない小説を手掛けてはいるが、コンスタントに仕事は来るようだし、決して社会の落伍者ではない。いずれにしても、この監督に適したキャラクターではないのだ。

 彩度を抑えたストイックな映像と静かなドラマ運びで、一応文芸ものとしての雰囲気は醸し出しているが、焦点の定まらない作劇では感銘度も期待出来ないだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「シンプル・プラン」

2013-11-06 06:35:50 | 映画の感想(さ行)
 (原題:A Simple Plan )98年作品。スコット・スミスによる原作も読んだことがあり、その巧みな語り口を堪能したものだが、この映画化作品も出来が良い。

 雪に埋もれた山間の田舎町。小さな飼料店で働くハンクは妊娠中の妻サラと暮らしていたが、決して生活は楽ではなかった。クリスマスにハンクは兄のジェイコブとその友人ルーと共に両親の墓参りに出掛けるが、その際に森の中で墜落した小型飛行機を発見。中には操縦士の死体と400万ドルもの大金が転がっていた。

 幸か不幸か彼らの他には目撃者もおらず、ルーとジェイコブは金の着服を主張。最初は渋っていたハンクも、同意してしまう。彼はとりあえず大金を預かることにしたのだが、サラがそれを聞き及ぶに至り、事態は思わぬ方向に動き出す。



 金に目がくらんだ小市民達が引き起こすトラブルを、容赦なく描く。重量感のある演出、サスペンスフルな展開、火花を散らす演技合戦。どこをとっても一級の骨太人間ドラマだ。

 さて、問題はなぜこれを一見門外漢のようなサム・ライミ監督が撮ったかということ(笑)。

 もちろん真相は知らないが、私が思うに、ビリー・ボブ・ソーントン扮するジェイコブに自己投影し、撮らずにはおられなくなったのではないだろうか。メンタル部分に問題があり、仕事もできず、中年になっても女とキスしたことさえないオクテでオタクな人物は、たぶん“映画”という絶好の自己表現を持たなかった場合のライミ自身の“もうひとつの自分”をそこに見つけたのではないだろうか。

 ダニー・エルフマンの音楽とアラー・キヴィロの撮影は的確な仕事ぶり。ビル・パクストンやブリジット・フォンダ、ブレント・ブリスコーといった他のキャストも好調だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「そして父になる」

2013-11-02 06:56:37 | 映画の感想(さ行)

 かなり図式的な映画だ。しかし、それが悪いということではない。真摯なテーマ設定は、平易な御膳立ての中で効果を上げることがあると思う。本作はその成功例であり、是枝裕和監督としても代表作の一つになることは確かだ。

 大手ゼネコンで重要な仕事を任されているエリート会社員の野々宮良多は、都内の高級マンションで妻のみどりと6歳の息子・慶多と共に暮らしている。慶多の有名私立小学校の“お受験”を控えた夫婦は、突然みどりがお産をした医院に呼び出される。病院側の話によると、慶多は出生時に病院で取り違えられた他人の子であるらしい。

 DNA検査の結果、それが事実であると判明。二人は取り違えた相手方の斎木夫妻、そして本当の息子である琉晴と会うと共に、今後の身の振り方について重大な決断を迫られることになる。

 野々宮一家が住むマンションは無機質でハイテック。良多はエリートたる自分に相応しい息子に仕立て上げるために子供に厳しく接し、稽古事のスケジュールもびっしりと詰め込む。みどりはそれに対してわずかに抵抗感を覚えつつも、夫のやることに異議も唱えられない従順なタイプである。

 対して斎木家は、北関東の田舎町で小さな電気店を営んでいる。琉晴の下にも二人の子供がいて、同居している妻の父親は認知症気味だ。決して豊かでは無い生活だが、夫婦揃って楽天的で、しかも子供好きだ。果たして子供にとってどちらの家庭が住みやすいかというと、もう火を見るよりも明らかなのである。

 さらに、良多にしても決して育ちは良くなく、彼の親は他人に対して自慢出来るような存在ではない。彼はその状態を反面教師として精進し、今の地位を築いたのだ。これはエリートの仮面と鎧でガチガチに武装した良多が、斎木家と知り合う事をきっかけに自分自身と周囲の状況を見つめ直し、本当の“親”になることを模索するドラマなのだ。

 冒頭にも書いたとおり、まさに図式的で語るに落ちるような話である。だが、どんなにミエミエの筋書きでも、作者の強い信念さえあれば観る者を力尽くで納得させられるのだ。そして、この“家族にとって愛情が一番大事だ”という当たり前の事柄が正論として通っていかない、昨今の殺伐とした社会情勢に対する強いメッセージにもなっている。

 相変わらず、是枝監督は子供の扱い方が上手い。イラン映画の秀作群を思い起こさせるような、自然体のパフォーマンスには舌を巻くばかりだ。主演の福山雅治はいつものキザっぽさが鼻に付く箇所もあるが(笑)、目を見張る熱演だ。特に嫌味なエリート気質を振りまく前半部分は見事である。みどり役の尾野真千子は珍しく“受動的な女”を演じるが、ドラマが進むにつれ能動的に内面が変化していく様子を巧みに表現しているのはさすがである。

 飄々としたリリー・フランキーと真木よう子の斎木夫婦も適役だ。特に真木は主演作では観る者を不愉快にさせるが(爆)、こういう大きくない役ではイイ味を見せる。國村隼や樹木希林、夏八木勲といった脇の面子も好調。瀧本幹也のカメラによる清澄な画面と、背景に流れるバッハの「ゴールドベルク変奏曲」(演奏:グレン・グールド)が素晴らしく効果的だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「シティヒート」

2013-11-01 06:34:48 | 映画の感想(さ行)
 (原題:City Heat )84年作品。主演の一人であるバート・レイノルズが、めでたく第5回ゴールデンラズベリー賞の最低男優賞に輝いた一本だ(笑)。

 とはいえ、もう一人の主役はクリント・イーストウッドであり、共演にジェーン・アレクサンダーやマデリーン・カーン、リップ・トーンと芸達者を揃え、贅沢なセットも使った話題作であり、ヒットして当たり前の作品だった。ところがフタを開けてみると大コケ。まあ、中身を見ればそれも当然なのだが(爆)。



 1930年代のカンサスシティ。市警の腕利き捜査官であるスピアと、女の尻を追いかけてばかりの私立探偵のマーフィーは警察時代の同期だ。しかし互いの価値観を認めずに、いさかいばかり起こしている。そんな中、マーフィーの友人がマフィアのボスの隠し帳簿を手に入れたことから、ギャング同士の抗争が勃発。スピアとマーフィーは嫌々ながらも手を組んで、事態の収拾を図ろうとする。

 とにかく、リチャード・ベンジャミンの演出がユルユルで締まりが無い。展開が冗長で、かつ行き当たりばったり。1時間40分ほどの映画ながら、えらく長く感じられる。かと思えば、楽屋落ちみたいな笑えないギャグを散りばめてウケを狙おうという浅ましさも見受けられる。少なくとも、後年のイーストウッドだったら絶対に出演を承諾しないような企画だ。

 なお、脇役にアイリーン・キャラが出ている。80年代前半に一世を風靡したシンガーだったが、レコード会社との訴訟騒ぎの後、表舞台に出られなくなってしまった。実に惜しいことをしたものだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする