(原題:August Rush )音楽の持つ素晴らしさをこれほど見事に表現した映画は稀であろう。麦畑を吹き渡る風が一大シンフォニーとなって主人公の耳に届く圧倒的なファーストシーンをはじめ、街中を埋め尽くすあらゆる音が壮大な狂詩曲となり画面を横溢する場面、それぞれ別の場所で演奏される主人公である少年の母親のチェロと父親のエレキギターとが絶妙のハーモニーを形成するくだりなど、まさに“音楽の映像化”たる画面の求心力に感服する。
何より瞠目すべきは、音楽が一部の限られたミュージシャンやコンポーザーの頭の中およびその周囲の環境だけに存在しているわけではなく、この世界は音楽で満ち溢れており、耳を澄ませば誰でも音楽が降り注ぐことを感じることが出来るという、その強靱とも思えるポジティヴな“信念”である。
残念ながら、こういう映画は日本では作れない。もちろん、我が国でも天才音楽家を主人公にした作品は散見される。最近では「神童」がそうだし、テレビドラマの「のだめカンタービレ」もある。しかしそれらは主要キャラクターも物語の舞台も一般ピープルから乖離した特定の領域に留まっている。音楽(特にクラシック)をやる人間なんて、少数の選ばれた者達に過ぎない・・・・そういった認識が製作する前から既成事実化しているような印象を受ける。
このブログでも時折書いているが、私はオーディオファンの端くれである(まあ、所有している装置は大したものではないが ^^;)。オーディオシステムでの音色を左右するのはスピーカーだ。今まで数多くのスピーカーに接してみて分かることは、日本製のスピーカーは音が暗く、反対に欧米ブランドは音が明るいという点である。当然、どちらが聴いて楽しいかといえば、欧米の製品に軍配が上がる。この差はどこから来ているのか、本作を観るとその理由が分かる。
アチラの国々では音楽は演奏家や作曲家の周りだけにあるものではなく、日常の一部である。普段の生活のすぐ隣に、驚嘆するような音楽のワンダーランドが控えているという絶妙な図式。日本にはそれがない。
さて、福祉施設を抜け出した天才音楽少年が両親を探すというストーリー自体は、さして面白味のあるものではない。ハッキリ言って凡庸な御都合主義に終始している。主人公役のフレディ・ハイモアは今回も達者な演技だが、予想の枠内に収まっているし、指揮をする場面のヘッピリ腰には脱力だ。思わせぶりに登場するロビン・ウィリアムズも頑張っている割には損な役回りだ。
しかし、前述のようにそれらの瑕疵を忘れさせてくれる魅力がこの作品にはある。カーステン・シェリダン監督の抜群の音楽センス、両親役のケリー・ラッセルとジョナサン・リース=マイヤーズの好演も相まって、観賞後の気分は最高だ。音楽好きは見逃してはならないだろう。