(原題:La Belle Noiseuse )91年作品。“諍い女”は“いさかいめ”と読ませる。実は私は本作を91年の東京国際映画祭で観ている。その際の前人気は高く、平日の昼間にもかかわらず2千人以上入る渋谷のオーチャードホールが満員になった。だが、この作品は当時すでに国内主要都市での一般公開が決まっていたのである。ちょっと待てば普通の映画館でも観られるのに、どうして映画祭での上映に皆が殺到したのか。それはこの映画を取り巻く“特殊な事情”によるものだった。
舞台はフランスの片田舎。初老の高名な画家(ミシェル・ピコリ)を中心にドラマは進んでいく。彼は昔、若かった妻(ジェーン・バーキン)をモデルに一世一代の傑作を描こうとしたが、微妙な心境の変化により中断。以来、その作品は未完のままであった。ところが、ある日屋敷に招かれた彼の友人の若い妻(エマニュエル・ベアール)に強いインスピレーションを受けた老画家は、今度は彼女をモデルにして未完だった傑作を完成させようとする。ところが、絵が完成に近づくにつれ、周囲の人々には微妙な緊張感が漂ってくる。
バルザックの短編「知られざる傑作」が原作。これをフランスのベテラン、ジャック・リヴェットがメガホンを取り、作品に仕上げた。
なぜこれが話題を呼んだかというと、まず上映時間が4時間だということだ。しかもドラマティックなストーリーがあるわけじゃない。モデルがポーズを取り、それを画家がキャンバスに描く。それが4時間延々と続く。さらに全編の3分の2はモデルであるエマニュエル・ベアールのヌードが出ずっぱりだ。
そう、まず一般公開の時には配給会社が“長すぎる”として、カットする恐れが多分にあると思われたのだ。そしてバカな税関&映倫がヌードのシーンに無粋なボカシを大々的に入れることが予想できた(この映画は、ボカシを入れるとストーリーが分からなくなるかもしれない)。つまり、一般公開の時点では“欠陥品”を見せられるのは必至で、今回が日本における最初で最後の完全版での上映になるという危機感があったのである(注:国際映画祭では規約にもとづき、作品にいっさいの修正をしてはならないことになっている)。
ヌードでポーズを取るからには陰毛が見えるのはあたりまえだ。しかもこのヌードにはワイセツさは皆無。陰毛が見えたって興奮もしなければ劣情を催すこともない。そこにあるのは美しいモデルと芸術を作り上げる画家の真剣な姿である。きれいな体の線がキャンバスにそっくりあらわれる過程をカメラは刻明に追う。ヌードよりそちらの方にドキドキさせられた。退屈なんてまったくしない。
芸術を生み出す行為とは、これほどまでに崇高で美しいものかと心底感動する。いつしか観客はモデルと画家の2人だけによる純粋な空間に引き込まれる。4時間の上映時間はカットできるところなんてひとつもない。フランスの美しい田舎の風景、ストラヴィンスキーの音楽、モデルと画家をめぐるさまざまな登場人物の確執、どれをとっても実に観応えのある作品だ。同年のカンヌ映画祭でグランプリ(銀賞)を受賞したのも当然か。
会場にいたジャーナリストの筑紫哲也が、報知新聞でのインタビューで“これにボカシを入れることは作品に対する冒涜だ”と憤慨して語っていたが、まさにその通り(後日談だが、この記事のため、映画祭事務局側は今後報知新聞にはプレスカードを発行しない、などの圧力をかけたという)。しかし、この映画は一旦映画祭での公開が決まったものの、税関からクレームがつき、上映中止になりかけたが、映画祭直前に今回は特例ということで税関から許可が降りた。そのためゲストの舞台挨拶もなく、作品上映だけのちょっとさびしい公開になったが、陰毛と見ればすぐさまスミを塗ることしか考えていない当時の税関は、よっぽどスケベな連中が集まっていたのだろう。
先進国の中で映画にボカシを入れているのは日本だけだった。どんなに優れた外国映画でも、毛が見えている、という理由だけで作品に“修正”という名の傷を入れて平然としている当局側、それをあたりまえだと思っていた観客。現在は本作の無修正版の映像ソフトも市販されているが、わずか20数年前には当局側によるかくも理不尽な行為が大手を振ってまかり通っていたとは、思わず頭を抱えてしまう。