元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「評決のとき」

2013-05-25 06:55:07 | 映画の感想(は行)
 ※注意! ラストを明かしています。

 (原題:A Time to Kill)96年作品。ミシシッピー州の田舎町で起こった黒人少女暴行事件。犯人の白人二人組はすぐに逮捕されるが、怒りに燃えた少女の父親(サミュエル・L・ジャクソン)は連行される二人組を射殺。第一級殺人罪で起訴された彼の弁護に当たるのは知人でもある若手弁護士(マシュー・マコノヒー)。法学部の女子学生(サンドラ・ブロック)の助けを得て困難な裁判に挑む弁護士の周囲にはやがてKKK団や黒人解放同盟などが暗躍し始める。果たして裁かれるのは、肌の色か、正義か、愛か(←当時のチラシより抜粋 ^^;)。

 結末を言ってしまおう。被告は無罪になってメデタシメデタシだ。えっ、何かの間違いじゃないかって? ホントである。繰り返すが、悪い二人組を殺した奴が陪審員の同情を買って無罪になる話だ。これってコメディ? ファンタジー? いいや、ジョン・グリシャムの原作だから大マジな話だ。



 もし、この父親の立場だったら誰でも同じことをしたくなるだろう。でも、たぶんその場合は死刑覚悟だ。捕まったあとで泣き言も弁解もしないつもりだ。ところがコイツは、逮捕後に事の重大さに気付き、うろたえ、必死で無実を訴える。弁護側は被告の心身喪失状態を主張して無罪を狙い、検察官(ケヴィン・スペイシー)はその裏をかこうとする。このあたりは法廷物の常道だが、結末がこうなってくるとただの茶番としか見えなくなる。

 前にも書いたが、アメリカの法律を含む英米法には判例を重視したいわゆる“コモン・ロー”とは別に、超法規的な法曹界の伝統である“エクイティ”なるものが存在する。エクイティは“衡平法”と訳され、判例のないケースではその折々の社会的状況などを考慮して、裁判官が“道徳的な”判断を勝手にして良いという認識である。

 本作にはそのエクイティの“効力”が大々的に紹介されている。ハッキリ言って、これでは仇討ちを容認する江戸時代と同じではないか。“目には目を”が大手を振ってまかり通る西部劇の世界である。

 私がウンザリしたのは、この黒人が二人組を射殺するのに使った銃が猟銃でもなければ護身用のピストルでもなく、軍用の自動小銃だったということだ。こんなものが貧しい黒人層に行き渡っている事実。それを問題にもしない法廷側。さらに、ラストの弁護士とこの黒人がニコやかに談笑する場面など“殺人者の分際で能天気にパーティなんぞやってんじゃねー!”と叫びたくなった(爆)。

 2時間半のウダウダ長い上映時間の中には、KKK団の妨害など総花的にエピソードが詰め込まれているが、どれも行きあたりばったりの展開で少しもサスペンスが盛り上がってこない。弁護士役の、ちょっと顔のいいだけで“典型的な熱演”しかできないマコノヒーはこの頃は新人だから仕方ないとして(本当はそれじゃいけないんだけど)、サンドラ・ブロックは何しに出てきたのか最後までわからないし、どのキャラクターをとっても表面的な扱いで感情移入できない

 監督はジョエル・シュマッカーだが、彼のフィルモグラフィの中では出来として下から数えた方が早い。観なくても良い映画だ。
コメント
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