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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「旅立つ息子へ」

2021-04-17 06:15:55 | 映画の感想(た行)
 (原題:HERE WE ARE )第73回カンヌ国際映画祭では評判になったイスラエル映画だが、実際観てみると釈然としない部分が多い。何より、本作の主人公は題名にある“息子”ではなく“親(ここでは父親)”であることに拍子抜けし、しかもその描き方はとても共感できないものだ。最初から親が冷静に対処していれば、もっと物事はスムーズに進んだはずで、物語自体が余計なものであったという印象は拭い難い。

 テルアビブ郊外に暮らすアハロンは、かつては名の知れたグラフィックデザイナーだったが、今は仕事を辞めて息子のウリと二人暮らしだ。ウリには重度の自閉症があり、介護が無ければ日常生活が送れない(ように見える)。アハロンは息子の世話に専念するため、すべてのキャリアを捨てたのだった。



 妻のタマラは夫の頑迷な態度に愛想を尽かし、とっくの昔に家を出ている。それでもタマラは息子の将来を心配し、ウリを全寮制の特別支援施設へ入れようとする。この件はすでに行政レベルで決定しており、定職の無いアハロンには反論できない。ところが入所当日、ウリは父と別れることを嫌がりパニックを起こす。それを見たアハロンは、息子を守るのは自分しかいないと思い立ち、2人で当ての無い逃避行に出る。

 アハロンの態度はとても納得できるものではない。親は子供の世話を永遠には続けられないのだが、アハロンはそのことには思い至らない。息子のために高収入が期待される仕事を投げ出し、それが結局自分の首を絞めることも分からないようだ。

 そもそも、アハロンは付き合いにくい人物である。妻の立場を理解しようとしないし、遠方に暮らす弟にも辛く当たる。プライドが高く、世の中が自分中心に回っていると信じている。そんな者を描いて何か映画的興趣が醸し出せれば文句はないのだが、最後まで見出すことは出来なかった。子離れできないオッサンの行状を漫然と追うばかりでは、面白くなるわけがない。

 ニル・ベルグマンの演出は丁寧ではあるが、脚本とキャラクター設定に難があるので求心力を発揮できていない。ウリがいつも見ているチャップリンの「キッド」を無理に伏線にしようとしているあたりも、思わせぶりでつまらない。主役のシャイ・アビビとノアム・インベルは好演で、スマダル・ボルフマンにエフラット・ベン・ツア、アミール・フェルドマンといった脇の面子も悪くないだけに残念だ。なお、シャイ・ゴールドマンのカメラが捉えたイスラエルの風景(特にリゾート地)はキレイだ。
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「テレフォン」

2021-03-28 06:23:26 | 映画の感想(た行)
 (原題:Telefon )77年作品。ドン・シーゲル監督によるスパイ・アクション編で、かつての「真昼の死闘」(70年)や「ダーティハリー」(71年)などの切れ味は無いものの、観ている間は退屈しない娯楽作だ。また、捻った設定や展開は脚本担当のピーター・ハイアムズによるところが大きいと思われる。

 米ソのデタントが展開していた70年代後半、コロラド州の修理工場に掛かってきた電話を取った店主が、爆弾を車に積み米陸軍基地に突っ込んで自爆テロを引き起こす。続いてフロリダ州で、小型機でチャーター業をしている男のもとに例の電話が掛かり、彼は米海軍基地に爆弾を積んだ自家用機で体当たりを試みる。



 どうやら、KGBにより洗脳された51人もの人間がアメリカに送りこまれ、電話によって暗示が発動して破壊活動をするようにされていたらしい。そして、その首謀者であった過激なスターリン主義者がアメリカに逃れていた。KGBはその者を抹殺するためボルゾフ少佐を渡米させる。彼は同僚のバーバラと夫婦を装って犯人のダルチムスキーを追う。

 話のアウトラインは凝ってはいるが、展開は平易だ。追う者と追われる者という形式が明確で、斜に構えたところが無く、分かりやすく進む。とはいえ、終盤には“ドンデン返し”が控えている。しかし、これは決して観る者の意表を突くようなものではなく、無理筋の居心地の悪さは存在しない。

 シーゲル監督の仕事ぶりは淀みがなく、アクション場面が少ないのは不満ながら、不要な緊張感を強いることは無い。主演はチャールズ・ブロンソンで、珍しい軍服姿が拝めるのは有り難い。東欧系の血を引き、思考よりも行動が先に出るキャラクターなので、役柄に合っている。相手役は“いつもの”ジル・アイアランドではなく、リー・レミックというのも良かった(笑)。また、敵役のドナルド・プレゼンスもさすがの存在感だ。

 音楽はラロ・シフリンだが、ここでも的確なスコアを残している。それにしても、本作が撮られた当時は冷戦が緩和されるような雰囲気があったのだが、その後のソ連のアフガン侵攻によってフッ飛んでしまったのは何とも皮肉だ。
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「時の面影」

2021-03-21 06:27:31 | 映画の感想(た行)

 (原題:THE DIG )2021年1月よりNetflixにて配信。事実を元にした題材は興味深く、映像は素晴らしく美しいのだが、ドラマの内容はあまり評価出来ない。ストーリーの焦点が絞り切れていない印象を受ける。各キャストはかなり健闘しているのに、もったいない話である。

 1930年代終盤、イギリスのサフォーク州に広大な土地を所有する未亡人のエディスは、敷地内にある墳墓を発掘するため、アマチュアのベテラン考古学者バジルを雇う。当初、墳墓は盗掘されて中には何も無いと予想していたが、実際に作業を開始すると、バイキングの時代よりも遥かに古い時代の歴史的遺産が眠っていることが判明。エディスらは近所や親戚筋から人を集めて、本格的な発掘に乗り出す。しかし、遺跡を大英博物館に移設することを主張する当局側の人間たちもやってきて、バジルと対立する。やがて第二次大戦が勃発し、この地にも影響が及んでくる。ジョン・プレストンによるノンフィクション小説の映画化だ。

 恥ずかしながら、このイギリスの著名な遺跡“サットン・フー”のことは本作を観るまで知らなかった。7世紀のアングロサクソン人のものだというが、日本だと古墳時代の後期に当たる。物語は当然、この遺跡を巡ってのエディスたちと当局側の駆け引きと、バジルとエディスの触れ合いを中心に描くものだと思われた。

 しかしどういうわけか、途中でエディスの親戚筋の若い男と、考古学者の妻との恋愛沙汰がストーリーの真ん中に躍り出る。この男は従軍が決まっており、映画としては戦争の不条理をも強調したつもりだろうが、話がチグハグになるばかりだ。当然、そのあおりを食ってバジルとエディスの描写は扱いが軽くなる。この2人の“その後”の人生も表面的に触れるのみになってしまった。

 サイモン・ストーンの演出は今回は要点を間違えただけで、本来は実力があると思われるだけに惜しい。とはいえ、マイク・エリーのカメラによるこの地方の風景は、目覚ましい求心力を発揮している。ここをチェックするだけでも、観る価値はある。

 エディス役のキャリー・マリガンは、最初彼女だと分からなかったほどの老け役に徹していて驚いた。バジルに扮するレイフ・ファインズの高年齢メイクにも感心する。リリー・ジェームズにジョニー・フリン、ベン・チャップリンなど、その他のキャストも悪くない。それだけに、作劇の不備は残念だ。
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「チャイナ・シンドローム」

2021-03-08 06:29:35 | 映画の感想(た行)

 (原題:The China Syndrome)79年作品。今年(2021年)は、東日本大震災による福島第一原発の事故から10年目に当たる。そこで思い出したのがこの映画だ。公開当時はセンセーショナルな扱いをされ、いくつかの映画アワードを獲得している。描写自体は古さを感じさせるかもしれないが、主題やモチーフは現在でも通用するはずだ。

 地方テレビ局の女性リポーターのキンバリー・ウェルズは、硬派なネタを扱うジャーナリストを目指しているが、実際は地域のどうでもいいニュースを担当させられている。その局では原子力発電所のドキュメンタリー特番を制作することになり、彼女はカメラマンのリチャードと共に現地取材に向かうのだが、誤って撮影禁止の場所で回していたカメラに、思わぬものが映り込む。それは、原子炉に何らかのトラブルが発生してスタッフが何とか抑え込んでいる画像に見えた。

 後日、キンバリーはこの映像を原子力の専門家に見せると、これは事故一歩手前の状態であることを指摘される。一方、発電所のコントロールルームの責任者ジャック・ゴデルは、安全対策に手落ちがあることに気付いていた。彼はキンバリーに接触し、この件をマスコミに発表するように要請する。

 ジェームズ・ブリッジスの演出は圧倒的で、危機を回避しようとするジャックとキンバリーたちが、当局側や会社の妨害を潜り抜けて核心に迫るプロセスは下手なアクション映画よりも数段スリリングだ。さらに、刻一刻と不気味な振動を増してゆく原子炉と、原発問題に無関心な一般ピープルの有様とが、ドラマを通奏低音のごとくフォローする。

 考えてみれば、原発事故なんてのは全て“人災”だ。しかし権力側はそれを隠蔽する。福島第一原発の一件も同様だが、いまだにあれを“仕方なかった(天災だった)”と片付ける向きが多いのは、事態はこの映画が作られた頃とほとんど変わっていない。主演のジェーン・フォンダとジャック・レモンのパフォーマンスは素晴らしく、自らの職務と社会正義との板挟みになって苦悩する人物像を上手く表現していた(レモンは本作で第32回カンヌ国際映画祭において最優秀男優賞を獲得)。

 リチャード役のマイケル・ダグラスは、当時まだ30歳代ながらプロデュースを担当していたことも感心する。余談だが、彼の父親カーク・ダグラスは、同年に作られ原発問題をネタにしたアルベルト・デ・マルチーノ監督の「悪魔が最後にやってくる!」に主演しているのも、単なる偶然とは思えない。
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「デンジャー・ゾーン」

2021-02-19 06:35:16 | 映画の感想(た行)

 (原題:OUTSIDE THE WIRE)2021年1月よりNetflixにて配信。外観は面白そうなアクション仕立ての近未来SFなのだが、中身は本当につまらない。ストーリーはもちろん、演出のテンポやキャラクター設定、そしてキャストの仕事ぶりに至るまで、褒めるべき点を見つけるのが難しい。もっとも一箇所だけ少し興味を惹かれた部分はあるが、そのことをもって作品の評価が上がるわけでもない。

 2036年、東欧では激しい内戦が巻き起こっていた。平和維持活動に従事するため、アメリカ海兵隊は無法地帯に駐留していた。ドローンのパイロットであるハープ中尉は、味方がやられているのを見かねて独断で空爆を敢行。結果として多くの兵の命を救うが、上層部に逆らったことで倫理委員会からハープは厳しく叱責されてしまう。結果として彼は別の遊撃隊に飛ばされるが、新しい上官のリオ大尉は何とアンドロイドだった。2人は反乱軍の首魁で、核ミサイルの奪取を狙うヴィクトル・コバルを追い詰めるため、最前線を奔走する。

 最新AIを搭載しているはずのリオ大尉だが、あまり頭がキレるようには見えず、最後までその行動規範は合理的ではない。ハープとのやり取りは、黒人のアンチャン同士の言い合いとしか思えない。敵への対処も行き当たりばったりで、とにかく近未来らしくロボット兵士も登場させていながら、ロクに活躍もさせていないのには閉口した。

 背景こそ東欧の風景が広がっているが、出てくる人員の数が異常に少なく、戦闘シーンがスカスカだ。リオ大尉は機械人間らしい腕っ節の強さを見せはするが、「ターミネーター」シリーズなどには遠く及ばない。2人がたどり着いた国境近くのロシアの核地下サイロは、守備兵を含めてスタッフがほとんどおらず、兵器や設備のメンテナンスは誰がやっているのだろうと心配になるほどだ。

 ミカエル・ハフストローム監督の仕事は気合いが入っておらず、各シークエンスの繋ぎに難がある。アンソニー・マッキーをはじめダムソン・イドリス、エンゾ・シレンティ、エミリー・ビーチャムといった配役には魅力が無く、感情移入できるる相手がいないのには困った。あと、冒頭に述べた“少し興味を惹かれた部分”というのは、劇中で“この事態を招いたのはアメリカだ”と断言していることだ。したがって、単純な米軍バンザイ映画になっていないところは認めて良い。ただもちろん、それだけで映画のクォリティが上がることはないが。
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「どん底作家の人生に幸あれ!」

2021-02-06 06:36:48 | 映画の感想(た行)
 (原題:THE PERSONAL HISTORY OF DAVID COPPERFIELD )こういう映画は嫌いだ。向こう受けを狙いすぎたケレン味たっぷりの展開と、小手先の映像ギミックの洪水。いかにも“(文芸作品を下敷きにして)オフビートなタッチを披露してみました”と言わんばかりのモチーフの連続に作り手の鼻持ちならない態度が透けて見え、観ている間は何度も中途退場しようと思ったほどだ。

 主人公デイヴィッドは母と家政婦の3人で幸せに暮らしていたが、母親の再婚相手は横暴な野郎だった。デイヴィッドはその男が経営する工場に売り飛ばされ、辛い労働を強いられる。母の死も知らされずに酷使されていたことが分かった時、彼は脱走して唯一の肉親である裕福な伯母のもとに身を寄せる。

 名門校にも通えるようになり、やっとマトモな生活を送れるかと思ったのも束の間、伯母の家は破産して路頭に迷うことになる。それでも、今まで体験したことを面白おかしく書き留め、自分なりの物語を綴ることを忘れなかった。イギリスの文豪チャールズ・ディケンズの代表作「デイヴィッド・コパフィールド」の映画化だ。

 原作は読んでいないのでこの映画がどの程度元ネタを網羅しているのか知らないが、ドラマのデタラメぶりには呆れる。主人公はどう見てもインド系なのだが、親は白人。さらには黒人や東洋人が血縁関係を完全無視して跳梁跋扈する。それが面白いのかというと、全然そうではない。単に奇を衒っただけに終わっている。

 ならばストーリーはどうかというと、これが行き当たりばったりに進むだけで何の興趣もカタルシスも無い。登場人物たちは大仰な身振り手振りでコメディ風味を強調するが、少しも笑えない。フェデリコ・フェリーニ作品の劣化コピーみたいなキッチュな美術セットや、ヘンに凝ってはいるが目が疲れるだけの映像処理にも脱力だ。特に、画面の中心部分だけピントを合わせ、周囲をソフトフォーカスでボケさせるという処理が頻繁に出てくるが、これが実に鬱陶しくてイヤな気分になる。

 アーマンド・イアヌッチの演出は、自分だけが楽しんでいるだけで広範囲な訴求力に乏しい。主演のデヴ・パネルをはじめ、アナイリン・バーナード、ロザリンド・エリーザー、ティルダ・スウィントン、ベン・ウィショーらキャストは面白みがない。わずかにピーター・キャパルディとヒュー・ローリーだけは目立っていたが、ドラマを引っ張る原動力にはならず。結局、本作を観て敵役のユライア・ヒープが、あのロックバンドの名称の由来になったことを知ったことが唯一の収穫だった。
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「チャンシルさんには福が多いね」

2021-01-18 06:23:59 | 映画の感想(た行)
 (英題:LUCKY CHAN-SIL)淡々とした展開だが、楽しめる映画だ。特に、タイトルの“福が多い”というフレーズの根源的意味を追求しているあたりが実に玄妙である。少しでも生き辛さを感じている層(おそらくは、かなり多くの観客)にとっては、文字通り“福音”になりそうな映画だろう。

 主人公のイ・チャンシルは40歳の女性プロデューサー。長年玄人受けする映画を作り続けてきたベテラン監督を支えてきた。ところが飲み会の最中にその監督が急死。途端に仕事が無くなり業界から放り出されてしまう。気が付けば彼女は人生の全てを映画に捧げたため、結婚相手はもちろん住む家も恋人もいない。やむなくチャンシルは下宿を探し、妹分の若手女優ソフィーの家政婦として当面は糊口をしのぐことになる。



 そんな中、彼女はソフィーの家庭教師キム・ヨンと知り合い、憎からず思うようになる。しかし、なかなか自身の想いを相手に伝えられない。一方、チャンシルは住んでいる下宿屋でランニングシャツ姿の怪しい男を目撃する。つかまえて問い詰めてみると、彼は“自分はレスリー・チャンの幽霊だ”と名乗る。ちっともレスリーには似ていないが、彼は彼女以外の人間には見えないのだ。こうして、片想いの相手とおかしな“幽霊”をまじえたチョンシルの平穏ならざる日々が始まった。

 金にも仕事にも交際相手にも恵まれない冴えない中年女子の生活には、実は“福が多かった”という逆説的なことが無理なく語られるのが面白い。なぜなら、何も無ければこれから何かを得るだけだから。合理的に行動を起こせば、今後は人生はプラスにしかならない。もちろん、誰しもそんなに上手くいくはずはない。だが、周囲を見渡せばいくらでもチャンスは転がっているのだ。そんな前向きな姿勢を無理なく奨めてくるあたりが、本作の大きなアドバンテージである。

 主人公のプロフィールを活かした“映画ネタ”が繰り出されているのも出色で、小津安二郎の信奉者である彼女が、ハリウッド大作が好きなキム・ヨンと話が合わないのがおかしく、レスリー・チャンの“幽霊”はウォン・カーウァイ監督の「欲望の翼」(90年)の際の出で立ちなのもケッ作で、他にもエミール・クストリッツァ監督の「ジプシーのとき」(88年)をめぐるエピソードなど、映画好きにはたまらない仕掛けが満載だ。

 これが初監督になるキム・チョヒの仕事ぶりは達者で、静かな中にもウィットとペーソスに富んだモチーフを巧みに絡める作劇には感心した。主演のカン・マルグムは目を見張るパフォーマンスを見せる。外見は地味だが、映画が終わる頃には彼女がとても魅力的に思えてくる。下宿のおばあさん役のユン・ヨジュンはイイ味を見せ、レスリー・チャンらしき男に扮するキム・ヨンミンの怪演は面白いし、ソフィーを演じるユン・スンアはとても可愛い。ロケ地はどこだか分からないが、坂の多い街の風景が実に効果的に捉えられている。
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「ダーティ・ダンシング」

2021-01-16 06:29:58 | 映画の感想(た行)
 (原題:Dirty Dancing )87年作品。日本では封切り時にはほとんど話題にならず、短期間でほぼ忘れ去られた映画だが、アメリカでは大ヒットして、その時代を代表する青春映画の快作という評価が確定している。まあ、そんなタイプのシャシンもあることは認識してはいるが、本作ほど(少なくとも公開時において)本国と他国との受け取られ方の差が大きかった映画はないのではと思う。

 1963年の夏、ニューヨークに住む17歳のフランシスは、夏休みに州の中部にあるキャッツキル山地のリゾート地にやってくる。彼女は“いいとこのお嬢さん”であり、高校卒業後は大学で開発途上国の経済学を学び、いずれは国際ボランティアに励む予定だった。フランシスはリゾートでダンスのインストラクターを務めるのだが、ふとしたことで労働者階級のジョニーと知り合う。



 ジョニーとその仲間たちと仲良くなったフランシスは、彼らのシークレット・パーティーに誘われる。すると彼らが踊る“ダーティ・ダンシング”と呼ばれる扇情的なダンスを目の当たりにして衝撃を受ける。このダンスに興味を持ったフランシスはジョニーに踊り方を教わることになるが、やがて2人は恋仲になる。

 ストーリーとしては身分違いの2人の恋路とか、ジョニーの仲間であるペニーの妊娠騒動とか、フランシスの父親が娘とジョニーとの関係を許さなかったりとか、いろいろとエピソードが積み上げられていて飽きさせない。しかし、それほどの盛り上がりは感じさせず、全体的に安全運転でまったりと進んでいくという案配だ。

 言い換えれば、過度に刺激的なモチーフを織り込まなかったことが、当時の本国の観客に幅広く支持されたということなのだろう。ただ、この映画のセールスポイントであるダンスシーンはなかなか良く描けている。ヒロインならずとも、このダンスを見ればびっくりして心が高揚するだろう。その影響力は今でも持続しているらしく、2009年からノースカロライナ州ではダーティ・ダンシング・フェスティバルが開催されているという。

 エミール・アルドリーノの演出は特に目立った仕事をしているわけではないが、その分キャストの存在感がカバーしている。主演のジェニファー・グレイとパトリック・スウェイジは適役で、まさに青春スターといった感じだ。ジェリー・オーバックやシンシア・ローズといった脇の面子も良い。なお、続編が作られる予定だったが、いつの間にか立ち消えになったという。興行側としては残念なハナシだろう。
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「天外者(てんがらもん)」

2020-12-26 06:06:37 | 映画の感想(た行)

 2020年7月に惜しくも急逝した三浦春馬の存在感が存分に印象付けられる一作。彼の持つカリスマ性と、観る者を惹き付ける演技力を見ていると、我々は何という逸材を失ってしまったのかという、残念な気持ちで一杯になる。映画自体は(悪くはないものの)取り立てて評価出来るものではないが、彼の主演作としての最後の勇姿を拝めるという意味では、存在価値はかなり高い。

 1856年、薩摩藩士の五代才助(後の友厚)は若輩ながら藩主の島津斉興の覚えがめでたく、長崎海軍伝習所へ藩伝習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学ぶ。さらに数々の経験を積む間に、坂本龍馬や岩崎弥太郎、伊藤博文らと知り合い、志を共にする。

 才助のスタンスは攘夷あるいは開国かというレベルの低い議論とは一線を画し、日本は交易や産業振興によって世界を相手に出来るだけの経済力を備えなければならないという、将来を見据えたものだった。維新後、明治政府の高官として起用されるが、やがて退官して大阪商法会議を設立。大阪から日本経済を興そうと奮闘する。明治初期の経済に大いなる貢献を果たした五代友厚の伝記映画だ。

 正直言って、このネタを2時間の映画に収めるのは無理な注文だ。何回かに分けてのシリーズ物にするか、あるいはテレビの大河ドラマで扱うべき題材だろう。ただ主人公の功績を追うだけではなく、遊女との悲恋やら親兄弟との確執やら何やらも挿入されているのだから尚更だ。

 田中光敏の演出は「利休にたずねよ」(2013年)の頃のような破綻は無く、マジメな仕事ぶりだとは思うが、映画的興趣を生み出すまでには至っていない。各キャラクターの動かし方や映像表現などが、多分にテレビ的である。まさに大河ドラマの総集編みたいだ。また、セリフ回しがヘンに現代的で、薩摩弁もあまり使われていないのは違和感がある。

 しかしながら、やっぱり三浦春馬が出てくると場が盛り上がるのだ。不屈の闘志を秘めた熱血漢を見事に具現化。たぶん五代はこういう人物だったのだろうという、説得力がある。三浦翔平に西川貴教、森永悠希、森川葵、かたせ梨乃、蓮佛美沙子、筒井真理子といった脇の面子も上手く機能している。大谷幸の音楽も悪くない。

 なお、終盤の大阪での集会場面には大阪府知事や大阪市長もエキストラとして参加しているらしいが(私は見つけられなかった ^^;)、彼らには“本業”に精進してもらいたいものだ(あるいは、それが無理ならば辞めて欲しい)。
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「テロルンとルンルン」

2020-12-07 06:26:58 | 映画の感想(た行)
 上映時間が約50分という小品ながら、訴求力は高い。脚本も演出も適切で、各キャストのパフォーマンスは申し分ない。そして何より、我々が直面している問題の一つに鋭く切り込んでいるあたりは見上げたものである。軽量級ラブコメみたいなタイトルに相応しくない(笑)、硬派の映画だ。

 広島県竹原市に住む朝比奈類は、自分のために作ってくれた花火で父親が事故死したのをきっかけに、実家のガレージに長い間引き籠もっている。今は家電品の修理を引き受ける等して、細々と暮らしている。ある日、類が飛ばした模型飛行機を拾った高校生の上田瑠海が、ガレージを訪ねてくる。



 窓を隔てた2人の出会いは最初はぎこちないものだったが、瑠海が壊れた猿のオモチャの修理を類に頼んだことにより、次第に打ち解けていく。実は瑠海は耳が不自由で、そのため学校では辛いイジメに遭っていた。彼女にとって、類と会うことだけが気の休まる一時だった。だが、類を危険人物と断定している瑠海の母親と地域住民は、2人の仲を裂こうとする。

 類の父親が亡くなったのは単なる事故であり、当時は幼かった類自身の責任ではない。もちろん、瑠海の耳が聞こえないのも、彼女のせいではない。ところが、他の大勢と様子が違うという理由で、世間は2人を徹底的に社会から排除する。それどころか、彼らをイジメることを絶好のストレスの捌け口にしている。

 類と瑠海に問題があるのではなく、彼らを阻害する社会にこそ病理があるのだが、2人を取り巻く人々はそのことに気付かない。この閉塞的な状況を告発している点で、本作は大きな求心力を獲得している。舞台になる港町は美しいが、海と山に囲まれて、行き場の無い主人公たちの立場を象徴しているかのようだ。それだけに、風雲急を告げる幕切れが観る者な強いインパクトを残す。

 監督の宮川博の仕事ぶりは的確で、無駄なシーンも見当たらず、キビキビとドラマを進めている。川之上智子による脚本も簡潔だ。主演の岡山天音と小野莉奈の演技は上出来であり、少ないセリフでキャラクターの内面を上手く表現していた(関係ないが、瑠海が通う高校の制服はユニークだ ^^;)。川上麻衣子に西尾まり、中川晴樹、橘紗希といった脇の面子も悪くない。
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