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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「カメレオンマン」

2019-01-20 06:18:55 | 映画の感想(か行)

 (原題:ZELIG )84年作品。ウディ・アレンのフィルモグラフィの中では、1,2を争うほど“冗談のキツい”映画である。卓越かつ屈折したキャラクター設定と玄妙な筋書き。そして高いメッセージ性。しかも見事にコメディ映画の枠内に収まっているという、作り手の(良い意味での)意識の高さを見せつけられる。

 1930年代のアメリカ。人々はゼリグという風変わりなユダヤ人を目撃するようになる。彼は周りの環境に順応し、身体的にも精神的にも変貌を遂げるという特異な体質の持ち主で、数々の有名人と“まるでその関係者であるがごとく”一緒にいる様子を多くの者が目にしていた。彼に興味を持った女医のユードラはゼリグを診察するが、彼はたちまち精神分析医に変身してしまう有様だ。

 実はゼリグは子供の頃に疎外され、いつしか身を守るため周囲の環境に合わせて姿かたちを変えるようになったのだ。ユードラはそんな彼に同情するうち、恋心を抱くようになる。だが、ゼリグの姉ルースの恋人マーテはゼリグを見せ物にしようと画策する。

 当時のニュース映像や記録フィルムの中にゼリグを登場させてアンマッチな笑いを誘うだけではなく、随所に識者による回想シーンがもっともらしく挿入されるのがおかしい。ギャグの繰り出し方は、さすがアレンだと感心させられる。ゼリグの立ち位置はユダヤ人全般の暗喩なのだろうが、転じてトレンドに付和雷同する一般ピープルをも皮肉っていると言えよう。

 本当はゼリグが周りの環境に合わせているのではなく、確固としたアイデンティティを持たない大衆が揺れ動いているだけで、ナイーヴなゼリグはその度にやむ無く対応しているだけという図式が内包されている。それが表面化するのが、ゼリグがヒットラーの背後に立っている場面だ。独裁者に対しては盲目的な支持者に“変身”するしかないという、作者のアイロニーが際立っている。

 ゼリグに扮するのはもちろんアレン自身で、屈折した内面を巧みに笑いに転化させている。ユードラ役のミア・ファローをはじめ、ギャレット・M・ブラウンやステファニー・ファローなどの脇の面子も良い味を出している。ゴードン・ウィリスのカメラによる凝った映像も見ものだ。
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「カー・ウォッシュ」

2019-01-04 06:32:52 | 映画の感想(か行)
 (原題:CAR WASH)76年作品。洗車場の一日を追った映画で、何もドラマティックなことは起こらない、淡々としたタッチで進行する。もちろん“何もドラマは無い”というわけではなく、数多い登場人物にはそれぞれの生活やポリシーがあり、時として(個々人にとっての重大な)事件が起きる。ただ、それが映画として面白くなるのかといえば、そうではないのだ。

 ロスアンジェルスの下町にある“デラックス・カー・ウォッシュ”には、経営者のミスターBをはじめとする個性的な従業員が揃っていた。客の方もタクシー代を払わずに女子トイレに身を隠す黒人娘とか、指名手配の爆弾魔と思しき怪しい男とか、成金の牧師とその取り巻きとか、いろいろと賑やかだ。閉店後にも、ミスターBがその日の売り上げを計算しているところに、クビになった店員が腹いせに強盗に入るというハプニングが起きる。



 全体的にそれぞれのエピソードが単発的に並べられるだけで、盛り上がることは無い。たとえば本作と同じような構成であるジョージ・ルーカスの出世作「アメリカン・グラフィティ」(73年)のように、ひとつの大きなテーマに収斂されるような仕掛けは見当たらない。

 しかしながら、全編を覆うディスコ・サウンドの賑々しさには目覚ましいものがある。ローズ・ロイスによるお馴染みのテーマ曲をはじめ、ノーマン・ホイットフィールドが担当したスコアはどれも万全だ。くだんの牧師の助手としてザ・ポインター・シスターズが登場するシーンは、盛り上がりの少ない本作において、唯一画面が華やかになる箇所である。

 キャストはリチャード・プライヤーを除いて印象に残らず。マイケル・シュルツの演出は特筆出来るものはないが、脚本を若き日のジョエル・シュマッカーが担当している点が興味深い。アクションやサスペンス専門と思われる向きもあるが、シールやスマッシング・パンプキンズなどのプロモーションビデオを作成しているなど、音楽関係の仕事もこなしている。そういえば「オペラ座の怪人」(2004年)も彼の作品であった。
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「来る」

2018-12-29 06:55:05 | 映画の感想(か行)

 タイトルとは裏腹に、あまり“来ない”シャシンである。とにかく、ホラー映画という触れ込みにも関わらず、ちっとも怖くないのだ。もちろん、作品の狙いが怪奇描写ではなく“別のテーマ”であっても一向に構わない。それが上手く扱われていれば文句は無いのだが、これが中途半端である。結果として要領を得ないままエンドマークを迎え、鑑賞後の印象は芳しいものではない。

 田原秀樹は交際していた香奈とゴールインし、これから幸せな家庭を作るはずだった。だが、彼の勤務先に謎の訪問者が現れたことを切っ掛けに、夫婦生活に暗雲が立ちこめる。その訪問者と最初に対応した後輩は急死し、秀樹たちが住むマンションの一室には怪異な出来事が相次いで起こるようになる。友人の民族学者である津田に相談したところ、津田はオカルトライターの野崎と、霊媒師の血をひくキャバ嬢の真琴を秀樹に紹介する。

 どうにかして超常現象を抑えようとする彼らだが、犠牲者が増えるばかりか秀樹の2歳になる娘の知紗もその“何か”に取り込まれてしまう。どうやら“何か”は田原家の故郷の民族伝承に由来する妖魔らしいが、その力は強大で野崎たちの手に負えない。そこで真琴の姉で、国内最強の霊媒師である琴子が事態の収拾に乗り出す。琴子は全国から霊能者を集め、大規模な“祓いの儀式”を敢行する。

 まず、この“何か”の正体が示されていないことが噴飯ものだ。もちろん、ハリウッドのB級ホラーみたいにクリーチャーの全貌を明らかにすべきとか、説明的セリフで粉飾せよとか、そういうことを言いたいのではない。災厄をもたらしている“何か”の出自や生態および形状、さらに弱点(らしきもの)といった事柄をある程度提示しておかないと、文字通り“何でもあり”の状態になり、ドラマが空中分解してしまう。

 だからクライマックスの対決シーンは見た目は派手だが、何がどうなっているのか分からないし、ラストも腰砕けだ。かと思えば、家庭よりも“子育てブログ”の更新を優先させる秀樹や、家事を放棄する香奈、津田の屈折した心情などを通じて人間関係の危うさを描出する素振りが見受けられるが、そんなものは別の映画でやってほしい。

 また、野崎と元カノとの因縁や、真琴が抱えるディレンマなど、さほど重要とも思えないネタが不用意に詰め込まれており、映画は迷走するばかり。中島哲也の演出はこれらの交通整理が出来ないまま、勢いだけで乗り切ろうとしている。

 野崎を演じる岡田准一が一応“主演”ということになるのだろうが、ハッキリ言って野崎自体が不要なキャラクターだと思う。黒木華や妻夫木聡、小松菜奈、青木崇高、松たか子など顔触れは多彩ながら、いずれも熱演が空回りしている印象は拭えない。
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「かぞくいろ RAILWAYS わたしたちの出発」

2018-12-22 06:23:59 | 映画の感想(か行)

 脚本に不備があるため、評価は出来ない。こういう込み入った設定のホームドラマに説得力を持たせるためには、キャラクターの掘り下げが不可欠だが、本作はそれが十分ではないのだ。ロケ地や素材の面白さはあるのに、もったいない話である。

 突然に夫の修平を亡くしてしまった晶(あきら)は、残された夫の連れ子である小学生の駿也と一緒に、東京から夫の故郷である鹿児島県阿久根市に住む義父の節夫のもとを訪れる。妻に先立たれて一人暮らしの節夫は、実は修平の死も知らなかったほど、息子とは疎遠であった。行く場所も無い晶たちは、節夫と共同生活を送ることになる。

 何とか仕事を探さなければならない晶は、肥薩おれんじ鉄道の運転士である節夫を見習い、運転士になることを決意する。修平は鉄道が好きで、駿也も同様だ。晶はいつか自分が運転する列車に駿也を乗せることを夢見るようになる。

 血の繋がっていない息子、およびその祖父と同居することを選び、田舎暮らしも厭わないヒロインの造型には細心の注意が払われるべきだが、その点が疎かになっている。晶と駿也は15歳しか離れていない。そのせいか駿也は晶を母親とは思っておらず、まるで自分の姉か友人のように接している。しかも、劇中では駿也の亡き父親への思慕ばかりがクローズアップされている。

 この映画を観る限り、駿也は晶をこれからも“お母さん”と呼ぶ可能性は低い。まだ若い彼女にとってそんな境遇は耐えられないと思うのだが、それでも晶は駿也と節夫のそばにいて“疑似家族”の一員になろうとする。この筋書きが説得力を持つには、晶がそうせざるを得ない理由をしっかりと描かれなければならない。だが、その点がまるで万全ではない。

 彼女自身が親と上手くいっていなかったことや、修平と結婚する前は水商売をしていた事実が暗に示されるが、それだけでは不足だ。もっと晶の“家族”を求める切迫した心情が描かれて然るべきであった。

 吉田康弘の演出は丁寧で、列車に関する知識は興味深いし、肥薩おれんじ鉄道沿線の風情は捨てがたい。だが、前述のようにドラマの核になるようなポイントが無いので、最後まで違和感は拭えなかった。晶に扮した有村架純は好演だが、意味も無くミニスカートやショートパンツを着用しているシーンがけっこうあるのには苦笑してしまった(男性観客へのサービスだろうか ^^;)。

 節夫役の國村隼は相変わらず安定した仕事ぶり。しかし、青木崇高や桜庭ななみが脇を固め、音楽が富貴晴美で、舞台が鹿児島だというのだから、どうしてもNHK大河ドラマ「西郷どん」を思い出してしまう(笑)。
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「ギャングース」

2018-12-17 06:43:36 | 映画の感想(か行)

 入江悠監督の前作「ビジランテ」(2017年)に比べれば、質的に落ちる。だが、我々が直面する問題を真摯に捉えているという点で、ある程度は評価できる。それどころか、時事ネタをコンスタントに扱っていることは、この作家は現在の邦画界では貴重な存在とも言えるのだ。

 サイケ、カズキ、タケオの3人の若造は、親に捨てられ社会にも裏切られ、犯罪に手を染めた挙げ句に青春期のほとんどを少年院で過ごしていた。出所した彼らには身寄りも住む場所も無く、仕方なく各人の特技を活かしてヤクザや悪徳業者の収益金を強奪する“タタキ”と呼ばれる稼業に勤しむことになる。

 少年院時代の仲間が振り込み詐欺の片棒を担いでいることを知った3人は、その上前をはねるべく計画を練って実行する。一方、彼らはヒカリという少女と知り合うが、彼女は親から虐待されて家を飛び出し、行く場所も無い。成り行き上ヒカリを保護してしばらく一緒に暮らす3人だが、偶然にヒカリが犯罪組織の“顧客リスト”を見つけ、それが結果として彼らは裏社会の若き親玉である安達と相対するハメになる。

 原作漫画(私は読んでいない)はルポライターの鈴木大介による未成年犯罪者への取材をもとにしているらしいか、2時間の劇映画にまとめる必要上、十分に網羅されていたとは言い難い。3人の“タタキ”の遣り口は随分と御都合主義的である。

 大した苦労も無くターゲットを見付けるし、コンスタントに“仕事”をこなしても被害者側からの目立った報復は(後半の安達の一件を除けば)描かれない。敵役の安達にしても、カリスマ性も強力なバックもない青二才で凄みが感じられない。さらに、主人公達の説明的なセリフの多さも気になるところだ。

 だが、3人の境遇を通して社会的な病理を抉ろうという図式は良いと思う。貧困差別問題や独居老人の問題、多重債務で転落する者など、これらは突き詰めて言えば、他者や社会に対する無関心に収斂されるのだろう。せいぜいが自分よりも“下”の者を見付けてマウンティングに励む程度だ。それでも何とか矜持を保っている3人は見上げたもので、ラストの扱いなど共感出来る。

 入江の演出は荒っぽいが、勢いがあって観る側を退屈させない。今回も(終盤を除いて)舞台は自らのホームグラウンドである埼玉県の地方都市である点も、ポリシーを感じさせる。主人公達を演じる高杉真宙と加藤諒、渡辺大知は好演。林遣都や山本舞香、金子ノブアキなどの脇の面子も悪くない。
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「華氏119」

2018-11-26 06:34:03 | 映画の感想(か行)

 (原題:FAHRENHEIT 11/9 )これまでも挑発的な作品を世に問いかけてきたマイケル・ムーア監督だが、本作はいつにも増して切迫した空気が横溢し、かなり見応えがある。それだけ現状が危うくなってきているのだ。今回のターゲットは主にトランプ大統領ではあるが、決して“トランプは悪、民主党は善”といった単純な二者択一の図式は示されていない。ムーアが告発するのは、世の中を覆う“薄甘いファシズム”の台頭である。トランプの所業に対する批判は、そのトリガーに過ぎない。

 劇中、トランプとヒトラーをシンクロさせる映像が出てくるが、これは明らかに図式的な捉え方である。しかし、全編を通して観てみるとその“ありがちな方法”が説得力を持つことに慄然とするのだ。ムーア自身が「キャピタリズム マネーは踊る」(2009年)で指摘したように、世にはびこる新自由主義は富の集中と格差の拡大を生む。それに起因する国民の不満を誤魔化すには、別に“敵”を作るのが一番だ。ヒトラーの場合それがユダヤ人等だったのに対し、トランプは不法移民やマイノリティである。

 つまり“あいつらが悪い。あいつらをやっつければ何とかなる”というデマゴーグを流布し、ワンフレーズ・ポリティクスで有権者の判断能力を奪う。何しろ今までその言動が批判され、先の中間選挙でも少なくない批判票が投じられているにも関わらず、トランプ政権は盤石なのだ。

 ならば対する民主党はどうかといえば、これもヒドいものだ。特に、劇中で描かれるオバマ前大統領のヘタレぶりには反吐が出る。ヒラリー・クリントンが大統領候補に選ばれた経緯というのも、デタラメ極まりないものとして描かれる。

 ムーアの地元であるミシガン州フリントで起こった公害問題の扱いは、与野党の立場は関係なく現代のアメリカ社会が持つ病理をえぐり出して圧巻。さらに、頻発する銃乱射事件に対して立ち上がった人々の戦いも、鮮明に取り上げられる。これらの事実は日本では報道されない。もちろん、本作で描かれていることが全て真実であると断言は出来ない。それでも、この重いメッセージ性は観る者を圧倒する。まさに、映画が持つ表現力と告発力を駆使した仕事と言うべぎだろう。

 この映画で描かれていることは、我々としても決して他人事ではない。現政権は“国民ファースト”ではなく、明らかな“財界ファースト”。対外的には“敵”、国内では“イベント”を設定し、有権者の目をそちらに向けさせている。対する野党は揃いも揃って無能の輩ばかり。この閉塞感が打開される日は、果たして来るのだろうか。
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「教誨師」

2018-11-24 06:32:26 | 映画の感想(か行)

 いまいちピンと来ない。なぜなら、明らかにディテールの積み上げが必要である題材を取り上げたにも関わらず、それが十分ではないことだ。さらに言えば、余計なケレンが多すぎる。こういうネタは、(力技の変化球がサマになる監督を除けば)正攻法の描き方こそが相応しいはずだ。

 教誨師とは、受刑者の心を救済すると共に、彼らが改心できるよう導く者で、矯正施設における教誨には一般教誨と宗教教誨がある。主人公の佐伯保はプロテスタントの聖職者で、独房で孤独に過ごす死刑囚の話し相手を務めている。彼が受け持つのは6人で、なかなか言葉を発しない者や、罪を他人のせいにする者、一方的にしゃべり続ける者など、かなり多彩だ。穏やかに見える佐伯だが、彼は受刑者たちを本当に教え諭しているのかどうか絶えず疑問を持っている。そんな中、ある受刑者に死刑執行命令が下される。

 佐伯が教誨の途中で、犯罪の背景を相手の口から初めて聞くようなシーンが多々ある。さらには、明らかに死刑判決が不当であるかのような供述が飛び出し、佐伯は驚いたりする。しかし、これはおかしい。当然のことながら、教誨師は接見する前に死刑囚の犯行内容や動機などはある程度管理側と情報共有されているはずだ(そうでなければ、執行される者の名を事前に知らされたりしない)。

 また、6人の中にはホームレスの老人も交じっているが、彼がいかにして死刑に値するような犯罪をやらかしたのか想像できない(たとえ犯行に及んでも、心神耗弱状態を疑われるケースとも思われる)。よく見ると受刑者はバラエティに富んではいるが、それぞれ特定のタイプを代表したかのような造型で意外性には乏しい。そのため、映画は受刑者たちの内面には食い込んでいかないのだ。

 ならば佐伯はどうかというと、これまた聖職に就いた動機がハッキリしない。第一、やがて死んでゆく者たちに対し、彼はどのようにして“心の救済”をもたらすのかも具体的に示されていない。佐伯は十代の頃に辛い体験をしているが、これは“為にする”ようなモチーフで思いのほかインパクトに欠ける。加えて、後半には安手のホラー映画みたいな描写が目立ち、観ているこちらは盛り下がるばかり。ラストの、受刑者からのメッセージも意味がよく分からない。

 佐伯に扮する大杉漣がエグゼクティヴプロデューサーを務め、最後の主演作となったドラマだが、アクティヴに動き回る役ならばともかく、“受け”の演技に終始するような主人公像に彼は合っているとは思えない。玉置玲央や烏丸せつこ、五頭岳夫、小川登、古舘寛治、光石研といったキャストは皆好演だが、作品の方向性に説得力が無いと感じるので評価は差し控えたい。
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「刑事エデン 追跡者」

2018-11-23 06:29:55 | 映画の感想(か行)
 (原題:A STRANGER AMONG US )92年作品。ストーリー展開よりも、舞台設定の方に興味を覚える。ニューヨーク市警の女刑事エミリー・エデンは、ユダヤ教ハシド派のコミュニティで起きた殺人事件を担当することになる。そこで彼女は、指導者の息子で熱血漢のアリエルと知り合い、憎からず思うようになる。だが、文化の違いは2人の間に高い壁を作る。潜入捜査を始めたエデンは、容疑者としてヤクザのバルデサリ兄弟を逮捕するが、誤認に終わる。やがて彼女自身が犯人のターゲットになっていく。



 本作を観てまず思い出すのが、ピーター・ウェアー監督の「刑事ジョン・ブック 目撃者」(85年)である。あの映画では主人公がアーミッシュと呼ばれるカトリック保守派のコミュニティに入り込むが、その設定はこの映画と似ており、邦題もそのあたりを考慮して付けられたのだと思う。もっとも、筋書きはあまり褒められたものではない。さんざん引っ張った挙げ句、暗示も伏線も提示されないまま唐突に登場する犯人には目が点になるばかり。

 しかしながら、劇中で紹介されるユダヤ人コミュニティの有様は面白い。男女とも服装は規定されており、生活様式は禁欲的で、アリエルはテレビも映画も見たことはなく、部外者から金品は絶対に受け取らない。そして彼は、ユダヤ教司祭の娘と一度も会ったこともないまま結婚しようとしている。このような場所がニューヨークの真ん中に存在すること自体、驚きだ。

 ただ、映画はそんな日本人とは縁のない世界を実に平易に紹介しているあたりは好感が持てる。エデンのキャラクター設定もよく考えられており、元警官である父親との断絶や、それでも自分の意思で刑事の道を選んだパワフルなヒロイン像が上手く表現されている(それにしても“エデン”という名前は意味深だ)。演じるメラニー・グリフィスは敢闘賞ものだ。

 エリック・サルやミア・サーラ、トレイシー・ポランといった脇のキャストも良い。シドニー・ルメット監督作品としては物足りない出来だが、観る価値はひとまずありそうだ。
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「客途秋恨」

2018-11-18 06:30:06 | 映画の感想(か行)
 (原題:客途秋恨)90年香港=台湾合作。興味深い映画だと思う。監督アン・ホイの自伝的作品だが、彼女自身が多様なルーツを持ち合わせており、民族や国籍などのアイデンティティにどう対峙するかという、グローバルかつセンシティヴな課題に向き合っているあたりがポイントが高い。

 1973年、ロンドンに留学していたヒューエンは、妹の婚礼に立ち会うために故郷の香港に舞い戻る。母親の葵子は娘の結婚にとても喜んでいたが、実はヒューエンは長らく母とうまくいってなかった。葵子は日本人で、かつて解放軍の通訳だった夫と結婚してマカオに移り住んだのだ。しかし、旦那は仕事で不在がちで、しかも日本人に対する周囲の視線は冷たいものだった。



 幼かったヒューエンにはそんな母の事情を推しはかる余裕はなく、親子の仲は悪くなるばかり。成長したヒューエンが家を出たのは、そのためだった。妹の結婚式が終わった後、葵子は里帰りしたいと言い出す。一人で行かせるのを心配したヒューエンは、母親に同行して大分県の別府・由布院を訪れる。

 葵子は慣れない異国の地で苦労し、娘のヒューエンはヨーロッパで異邦人としての孤独を味わっている。彼女の祖父母は広州に住んでおり、病床の祖父を見舞ったヒューエンは香港と中国本土との差異を実感する。そして何より、彼らのホームグラウンドであるはずの香港やマカオも、中国と西欧との十字路なのである。

 また本作に台湾資本が入っていることも重要で、言うまでもなく中国と台湾は微妙な関係にある。複数の文化に翻弄され続ける登場人物達だが、それでも時が流れれば分かり合える契機が生じ、決して悲観することはない。

 アン・ホイの演出は丁寧で、派手さは無いがきめ細かく各キャラクターの内面をすくい取る。主演のマギー・チャンと葵子に扮するルー・シャオフェンは好演。レイ・チーホンやティエン・ファンといった脇のキャストも万全だ。

 加地健太郎と逸見慶子の日本人キャストの演技、および日本ロケの場面は違和感はあまり無い。しかし、久大本線を走る列車に“JR”の表記があったのには苦笑してしまった(73年当時はまだ国鉄は民営化されていない)。
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「幸福の旅路」

2018-11-04 06:27:07 | 映画の感想(か行)
 (原題:HEROES)77年作品。ベトナム戦争を扱ったアメリカ映画としては「ディア・ハンター」(78年)あたりがその嚆矢だと思われているのかもしれないが、実はそれ以前から何本か作られていた。もっとも、マーティン・スコセッシ監督の「タクシードライバー」(76年)がそうであったように、それらは戦地の話ではなく主に帰還兵を描いていた。本作もその一つだ。

 ベトナムに従軍していたジャックは帰国してもなかなか社会復帰が出来ず、街角で若者を軍に勧誘しようとしていた兵士と乱闘事件を起こした挙句に精神病院に入れられてしまう。彼にはかつての戦友たちと事業を起こすという夢があり、それを実現するために病院を脱走する。



 途中、彼はキャロルという若い女と知り合い、共にバス旅行を始める。彼女は結婚を間近に控えていたが、もう一度自分を見つめ直すために旅に出たのだという。やがてジャックは昔の戦友の一人ケンに再会することが出来たが、相手は乗り気ではない。仕方なくもう一人のかつての仲間ユレカを訪ねるが、そこで意外な事実が明らかになる。

 ジャックが病院を勝手に抜け出すくだりや、キャロルとの珍妙なやり取りなどは、軽快なコメディ・タッチで綴られる。またケンはスピードレーサーでもあることから、レースの場面はアクション映画の風味もある。だが、そんな表面上の明るさの裏に、ベトナムの惨状を次第に暗示させていくという作劇は見事だ。

 終盤にはドラマの水面下に隠れていた戦場の真実が一気に表面化し、スペクタクルな場面が現出。それに続くラストの処理には、心が締め付けられた。

 TV「刑事コロンボ」などのディレクターでもあったジェレミー・ケイガンの演出は、硬軟使い分ける達者なものだ。主役のヘンリー・ウィンクラーは飄々とした妙演。キャロルに扮したサリー・フィールドも、コメディエンヌとしての素養が前面に出た快演を見せる。また、若き日のハリソン・フォードがケン役として参加しているのも嬉しい。

 劇中の音楽はジャック・ニッチェが担当しているが、それよりもラストに流れるカンサスのナンバー「キャリー・オン・ウェイワード・サン」(邦題は「伝承」)が大きな効果を上げていた。
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