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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「顔のない天使」

2018-10-28 07:12:55 | 映画の感想(か行)
 (原題:A MAN WITHOUT A FACE)93年作品。メル・ギブソンの監督デビュー作だが、非凡な演出力はこの頃から片鱗を見せている。設定は平易で、誰が観ても良さが分かるヒューマン・ドラマ。さらに、過去にタッグを組んだピーター・ウィアー監督の影響も感じられるあたりが興味深い。

 1968年。メイン州のリゾート地にやって来たノースタッド家。3人の子供は全て父親が違うという、複雑な事情のある一家だ。長男で12歳のチャックは、家庭に居場所が無い。彼は早めに家を出て、士官学校に入ることを望んでいる。近所に暮らす元教師のジャスティンは、事故で顔半分にやけどを負い、周囲の人間との関係を絶っていた。



 そんなジャスティンと知り合ったチャックは、ジャスティンの人柄と教養の豊かさに感服し、自分の個人教師になってほしいと頼む。最初は断っていたジャスティンだが、チャックの熱意に負けて勉強を見てやることにする。だが、ひょんなことからチャックの父親の死因と、ジャスティンが起こした事故の原因が明らかになり、それが切っ掛けで2人の関係は終わりを告げる。72年に出版されたイザベル・ホランドの同名小説の映画化だ。

 孤独な2人が出会い、気持ちを通わせる筋書き自体、訴求力が高い。そしてギブソンの演出は丁寧で、登場人物の内面をきめ細かく捉える。明らかに本作は、ウィアー監督の「いまを生きる」(89年)と似た構図を持っている。

 あの映画で主人公の教師(ロビン・ウィリアムズ)が主宰する“デッド・ポエッツ・ソサエティ”とは違い、この「顔のない天使」での生徒はチャック一人だが、彼がジャスティンを信頼するようになって相手の顔の傷跡が見えなくなったと言うように、過去のトラウマを乗り越えて文字通り“いまを生きる”ことを選んだ2人の決意には感銘を受ける。ラストの扱いは予想が付くが、それでも観ていて気持ちが良い。

 ジャスティンに扮するのはギブソン自身だが、彼のフィルモグラフィの中では上位に入る好演だ。チャック役のニック・スタール(これが映画デビュー作)も芸達者である。ドナルド・マカルパインのカメラによる映像、そしてジェームズ・ホーナーの音楽も申し分ない。
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「五福星」

2018-10-26 06:28:57 | 映画の感想(か行)
 (原題:奇諜妙計五福星)83年作品。十代の頃から、観た映画についてノートに題名と概要そして短評を書いていた(まあ、文章力は今も当時からさほど進歩していないのは内心忸怩たる思いだが ^^;)。先日、実家の押し入れを整理していたら、80年代に使っていたノートが出てきて、しばし感慨にふけっていたが(笑)、パラパラとめくっていてふと目に付いたのがこの映画だ。

 あの頃は、ジャッキー・チェンの映画が興行的に重要な扱いを受けていた。本作もジャッキー主演のような雰囲気で宣伝されていたが、実は彼は脇役で、主役と監督はサモ・ハン・キンポーだ。しかしながら、それでも劇場に足を運んだ者を失望させないだけのヴォルテージはあったと思う。



 空き巣で逮捕されたポット(サモ・ハン)は、刑務所でチンケとハンサム、モジャ、マジメの4人と意気投合する。彼らは出所後に清掃会社を立ち上げて忙しい日々を送るが、仕事のわりにあまり儲からない。ある日、5人は大きな屋敷での清掃作業を請け負ったが、そこで開催されていたパーティーに潜り込み、金持ちの出席者に対して営業活動を行おうとする。しかし、それはマフィアの主催するパーティーだった。しかも、マフィアのボスは闇取引のブツである偽札が入ったアタッシュケースをポット達が盗んだと勘違いし、5人は追われる立場に。さらにモジャの妹が人質に取られ、彼らはピンチに陥る。

 サモ・ハンの演出は、今から考えると(いや、当時の水準でも ^^;)かなり泥臭い。出演者全員に大仰な演技をさせ、展開はモタモタしているし、散りばめられたネタもクサくてくどい(笑)。しかし、これは言い換えると“パワーがあって、サービス精神旺盛”ということだ。事実、香港では、公開年の年間ランキング1位の大ヒットとなっている。

 繰り出される垢抜けないギャグも、割り切って見れば楽しめる。特に“伝説”になったチンケによる“透明人間のネタ”には大笑い。演じたリチャード・ンは、これで香港電影金像奨の主演男優賞候補になったというのだからスゴい。ハンサムによる“珍妙なクンフーのポーズのネタ”も楽しめる。アクション場面は優れていて、大々的なカークラッシュ場面をはじめ、刑事役のジャッキーはローラースケートでの妙技で観る者を驚かせる。

 ラストのドンデン返しは強引に過ぎるが、香港映画ということで“笑って済まされる”レベルだ。なお、この映画と当時上映だったのが鈴木則文監督の「コータローまかりとおる!」(84年)だが、こっちの方はほとんど内容を覚えていない。くだんの“映画ノート”にもタイトルしか記されていないし、たぶん大したシャシンではなかったのだろう。
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「菊とギロチン」

2018-10-22 06:33:50 | 映画の感想(か行)

 いまひとつピンと来ない。ひょっとしたら特定のイデオロギーを持ち合わせている人は大絶賛するのかもしれないが、まずは映画を一歩も二歩も“引いて”観てしまう当方にとっては、まとまりの無さばかりが目についてしまう。加えて3時間を超える上映時間は、疲労感を覚えるのには十分過ぎた。

 大正末期。関東大震災後には国民の一部に共産主義思想が広まるなど、不穏な空気が流れていた。思想家の大杉栄が殺されたことに義憤を感じていた政治結社“ギロチン社”の面々は、当局側に追われながらも資本家や官僚に対するテロを画策していた。そんな彼らが流れ着いた田舎町で、女相撲一座“玉岩興行”と関わりを持つことになる。社会から爪弾きにされた女たちが繰り広げる真剣勝負にプロレタリアートの気骨を垣間見た“ギロチン社”の中濱鐵と古田大次郎は、一座と行動を共にする。やがて中濱らは女力士と恋仲になるが、彼らの前には厳しい現実が立ちはだかる。

 監督の瀬々敬久による長編ドラマとしては2010年に撮られた「ヘヴンズ ストーリー」を思い出すが、明確で重大なテーマを提示していたあの映画に比べると、本作の主題は曖昧だ。ハッキリ言って、登場人物たちは一体何をしたいのか、ほとんど伝わってこない。

 政治結社とは名ばかりで、“ギロチン社”の連中は恐喝やカッパライで得た小金を酒や女遊びに使ってしまう。時折思い出したように理想を語るが、それらは非現実的で説得力は無い。肝心のテロも失敗に終わる。

 女相撲の構成員の境遇には同情すべき点はあるが、“ギロチン社”と接触することによって何か根本的な状況の変化が起きるわけでもない。若い力士である花菊の辛い生い立ちや、朝鮮人力士の十勝川が嘗めた辛酸など、それ自体はドラマを喚起させる素材ながら、脇に“ギロチン社”が控えていることもあって取って付けたような印象しか受けない。

 勝手に自警団を結成して主人公たちを苦しめるシベリア帰りの元兵隊たちの扱いは興味深いが、その顛末に思い切った仕掛けは用意されておらず、拍子抜けだ。何やら全体的に、言いたいことは山ほどあるのだが結果が伴わないといった按配で、隔靴掻痒の観を呈している。聞くところによると構想に長い年月を要したらしいが、この“構想○○年!”といった謳い文句の映画に大したものは無いのは定説だろう。

 加えて、画面のブレがひどい手持ちカメラの(意味のない)多用や、聞き取りにくいセリフなど、技巧面でも万全とは言い難い。中濱役の東出昌大は相変わらず演技が一本調子で、木竜麻生や韓英恵などの力士に扮した面子も奮闘はしているがこちらに迫ってくるものはあまり無い。印象に残ったのは座長に扮した渋川清彦ぐらいだ。
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「木と市長と文化会館 または七つの偶然」

2018-10-21 06:02:22 | 映画の感想(か行)

 (原題:L'Arbre, Le Maire et La Mediatheque ou Les Hasards)92年フランス作品。監督はエリック・ロメールだが、「クレールの膝」(70年)や「緑の光線」(86年)などの彼の多くの映画とは違って、若い女の子は登場しない(笑)。だから当然、いつもの“誰それと誰ちゃんがデキてしまってどうしたこうした”というレベルの話も無い(再笑)。しかし、その分ロメールの真の特徴が鮮明にあらわれている。実に興味深い作品だ。

 パリの南西部に位置する地方都市サン=ジュイールの市長ジュリアンは、町の原っぱに図書館と劇場、プール等を備えた総合文化センターを建設することを発案する。しかし市民の受け取り方は冷ややかだ。

 ジュリアンの恋人である小説家のベレニスは懐疑的な姿勢を崩さないし、エコロジー派の急先鋒である小学校教師マルクは、当然のことながら猛反対。ジュリアンにインタビューした女性ジャーナリストのブランディーヌの雑誌記事は、なぜかマルクが中心になった環境特集になる始末。事態は膠着状態になるが、偶然にマルクの娘ゾエとジュリアンの娘ヴェガが友達となったことから、新たな展開を見せる。

 ロメールの映画でもっとも目立つ特質といえば、物語性の欠如である。ドラマを盛り上げようとする大がかりな仕掛けも、凝ったストーリー展開もなし。では何が映画を動かしているかというと、偶然性である。それも普通のドラマツルギーでは考えられない奇妙な偶然によって、映画は唐突に方向転換する。

 しかし、それらは決して自然主義に徹したスタンスを取っていない。偶然性は、すべて綿密に計算されたものである。市長と女性ジャーナリスト、教師とその妻、さらには市長と教師の10歳になる娘etc.登場人物が2人寄ればディベート大会が開催され、いかにも西洋人らしい徹底的な議論の洪水は、本人たちが勝手に繰り広げているように見える。まさに外観はドキュメンタリーだ。だが、これをすべて脚本に書いたロメールの屈折度は相当なものである。

 全編を七つのパートに分け“もし○○が××しなかったら・・・・”というサブタイトルのもとに完全に仕切っているあたりは“偶然性の優位”を強調する作者の茶目っ気さえ感じられる。ラストがいきなりミュージカルになってしまうのも“突発的な偶然”かもしれないが、これには笑った。

 仕組まれた偶然。ノンフィクショナルなフィクション。巧妙に演出された“自然な現実感”。言葉尻だけ捉えればウサン臭さを感じる作風だが、あっけらかんとした屈託のなさと美しい映像、映画の温和なリズムは、それらをカバーするだけではなく、何やらこれが“映画的なユートピア”の一典型ではないかという気がしてくる。

 パスカル・グレゴリーやアリエル・ドンバール、ファブリス・ルキーニといった顔触れは馴染みがないが、皆いい演技をしている。一見の価値はある好編だ。
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「クイズ・ショウ」

2018-10-14 06:32:53 | 映画の感想(か行)
 (原題:Quiz Show )94年作品。1950年代後半。テレビジョンの発展期に起きた一大スキャンダルを描く実録ドラマ。ロバート・レッドフォードの監督第4作目で、アカデミー賞ノミネートなど、各方面で高い評価を受けた話題作である。

 NBCの人気クイズ番組“21”で8週勝ち抜いていたのは、庶民的なユダヤ人ハーバート・ステンペル(ジョン・タートゥーロ)。だが、視聴率の伸び悩み打開を狙う番組製作側は、垢抜けないステンペルを降ろし、典型的WASPでインテリで毛並みがよくテレビ映りも抜群のチャールズ・ヴァン・ドーレン(レイフ・ファインズ)を新たなチャンピオンとして担ぎ出そうとする。そのためステンペルにはわざと間違った解答をするように強要。ドーレンには事前に正解を教えるという八百長工作を仕掛ける。



 結果は大成功で、ハンサムなエリートのドーレンは一躍“時の人”となる。一方ステンペルはテレビ局側を告発。司法省の立法管理委員会が動き出し、新進気鋭の調査官リチャード・グッドウィン(ロブ・モロウ)が捜査に乗り出す。映画はグッドウィンが事件の顛末を書いたノンフィクションを元に仕上げられている。

 たぶん“クイズ番組のヤラセなんて日常茶飯事。そんなの誰でも知ってるネタだ。今さら暴く意味は無い”といった感想を持つ観客は少なくないはず(特に日本では)。でもそれは違う。いくら能天気なアメリカ映画界だからといって、あのレッドフォードがそんな底の浅いテーマを取り上げるはずがない。

 アホなタレントがバカ騒ぎしようと、愚にもつかないスキャンダルを延々と垂れ流そうと、日本では当局側からのお咎めはない。クイズ番組なんてほとんどがヤラセだ(これに限ってはアメリカも似たようなものだ)。誰でも知ってるネタなのである。

 しかし、いつも目にするテレビが、八百長を前提にしたウサン臭いものであるという不合理さ。全員がそれに気がついていながら、多くの情報や娯楽をテレビから得ている不気味さ。“視聴者が見たいのはクイズそのものではなく、金だけだ”というテレビ局幹部の暴言に、我々は反論一つできないではないか。無意識と無関心とシラケが、テレビという欺瞞を大手を振って歩かせている現実。これを撃つのがこの作品のテーマだ。



 でも、それだけでは説教臭い“良識ドラマ”になってしまう。これを見事に回避したのがキャスティングだ。タートゥーロとファインズは米英を代表するクセ者若手男優。通常ならそれなりの生活を保証されていた主人公二人が、テレビという魔物に取り憑かれて、人生を狂わせていく。

 二人の生活観が周囲の人物たちも含めて非常に丹念に描かれているが、演じる二人の持つ屈折した暗さとニヒリスティックな明るさが、それ以上の切迫した人間の“性(さが)”を感じさせて、深刻なものを観客に伝えてくる。理屈では割り切れない何かが映画全体の不安な空気を助長させてくる。ただ、グッドウィン役のモロウの存在感は弱い。作者(狂言回し)なので一歩引いた描き方をされているためだろうか。

 ユダヤ人とWASP、大企業と下請け(番組製作会社)など、社会の二重構造を強調したり、立法管理委員会の偽善や聴聞会の不自然さに代表されるような体制批判など、ホットなネタが巧妙に仕掛けられているのにも感心した。それにもまして善人が一人も登場せず、安易な正論に流れていないことに作者の冷静さを感じさせる。

 テレビに関する“逆ユートピア”をエンタテインメント性豊かに描いた、シドニー・ルメット監督の「ネットワーク」(76年)と並んで、これは優れた映画だ。奥が深い。ミヒャエル・バルハウスの冷ややかなトーンを効かせる撮影、マーク・アイシャムのジャジーな音楽、見事な時代考証と美術、観る価値十分の秀作である。
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「きみの鳥はうたえる」

2018-10-08 06:47:27 | 映画の感想(か行)

 本作で一番興味深いキャラクターは、柄本佑演じる“僕”の、バイト先での年上の同僚である森口だ。いわゆる“ケツの穴の小さい男”で、甲斐性も無いくせにヘンな正義感だけは旺盛。底の浅い“正論(らしきもの)”を堂々と披露するかと思えば、辛く当たられたことを根に持って狼藉に及ぶ。反面、依頼心が強くて上役には阿諛追従する。程度の差こそあれ、こういう下衆な性分を持ち合わせていると“自覚”している者(私も含む ^^;)にとっては、観ていて心に苦いものが込み上げてくる。演じる足立智充のパフォーマンスも万全だ。

 これに比べると、主人公3人の造型はあまり印象に残らない。ラストを除けば、捉えどころの無いフワフワとした関係性が漫然と提示されているだけだ。もっとも、これが当世風の若者気質なのかもしれないが、だとしてもあまり面白味のある展開とは思えない。

 函館市の書店でバイトとして働く“僕”は、小さなアパートで失業中の静雄と共同生活を送っている。ある日、ふとしたきっかけで“僕”は同僚の佐知子と懇ろになり、そのまま彼女は彼の部屋に居着いてしまう。3人は夏の間、夜ごと一緒に遊び回るが、静雄と佐知子が“僕”を残してキャンプに出掛けたことから、彼らの緩い関係は変化し始める。

 佐藤泰志の同名小説の映画化だが、過去の佐藤による小説の映画化作品である「海炭市叙景」「そこのみにて光輝く」「オーバー・フェンス」の3本に比べれば、本作は質的に落ちる。これは監督の力量によるものが大きいのかもしれない。

 三宅唱の演出は淡々としているがメリハリが無い。主人公3人の寄る辺ない日常が映し出されるだけで、展開のリズムが始終同じなので、観ていて眠気を覚えてしまった。

 それでも“僕”役の柄本佑と、静雄に扮する染谷将太は何とか持ち味を出していたと思う。残念なのは佐知子を演じる石橋静河で、有り体に言えば今のところ彼女は“大根”だ。母親(原田美枝子)の若い頃にはとても及ばない。だが、クラブやカラオケボックスの場面ではいくらか存在感が出てくる。このあたりは父親(石橋凌)の才能を受け継いでいるのかもしれない。

 足立以外の脇のキャストでは、渡辺真起子と萩原聖人が良かった。あと特筆したいのがHi’Specによる音楽で、洗練されたサウンドは耳に残る。
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「クリフハンガー」

2018-10-05 06:16:33 | 映画の感想(か行)
 (原題:CLIFFHANGER )93年作品。冒頭の、登場人物の女性が絶壁の間にかけられたケーブルに宙づりになった挙げ句、力尽きて谷底へ落ちていくシーンが凄い。絶壁に取り付けられた垂直下降式のエレベーター・カメラの効果も相まって、文字通り“真下に落ちる姿”を観客の視線になりかわって至近距離で見せていく。

 しかし、全編を観終わってこれ以上の見せ場に遭遇することは全然なく、それどころか眠気さえ催してしまった。それは、カネをかけた割りにはディテールのいい加減さが目立つからだ。



 ベテランのクライマーであるゲイブは、ロッキー山脈でレスキュー隊の仕事に就いていたが、友人の恋人の救出に失敗し、その自責の念から山を下りる。8か月後、レスキュー隊に遭難信号が入る。ゲイブは現場に復帰し、同僚や元恋人のジェシーと共に山に入るが、この信号はニセモノだった。クエイルンを首領とする犯罪組織が財務省造幣局の輸送機を襲ったが、機は不時着。大金の入ったトランクも山中に消えたため、クエイルンはレスキュー隊をおびき出してトランクを探すよう脅迫しようとしていたのだ。ゲイブ達は厳寒の山岳地帯で一味に戦いを挑む。

 主演はシルヴェスター・スタローンだが、いくら彼でも冬山をTシャツ一枚で動き回れるはずがない。大規模な雪崩でもザイル一本でひょいと横に跳べば避けてしまう不思議。シビアな場面になると唐突にロケ撮影からスタジオのセットになってしまったり、不必要な講釈を垂れてわざとピンチになる悪役がいたり、後半はどうやって谷底から主人公が生還できたのか説明しようともしない。

 斯様に話は行きあたりばったりに展開する。登場人物の背景や内面描写がほとんどないのは、「ダイ・ハード2」のレニー・ハーリン監督だから当然か。

 しかし最大の敗因は予告編だろう。その年の夏頃から流れていたこの映画の予告編は、それはそれは良くできたシロモノであった。モーツァルトの“レクイエム”をバックに、ハデな場面だけを次々と繋いでいく編集の切れ味は、絶対観たいと思わせる魅力にあふれていた。しかも夏場は「ジュラシック・パーク」の大当たりで、この予告編を観た人数はかなりのものだったろう。

 しかし結局本編は、予告編で観た場面以上のものがなく、ドラマにも面白味がないとくれば、落胆するのも当然ではないか。要するに、予告編だけ観ればそれで十分の映画だったのである。トレバー・ジョーンズの音楽は「ラスト・オブ・モヒカン」の2次使用でシラけてしまったし、敵役のジョン・リスゴーも意外と精彩が無い。
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「影の内側」

2018-09-22 06:20:07 | 映画の感想(か行)

 (原題:SMALLER AND SMALLER CIRCLES )アジアフォーカス福岡国際映画祭2018出品作品。重量感のあるサスペンス編で、見応えがある。同じカトリック教会内のスキャンダルを扱った作品といえば、アカデミー賞を獲得したアメリカ映画「スポットライト 世紀のスクープ」(2015年)を思い出す向きも多いだろうが、本作はあの映画よりも数段インパクトは上だ。

 マニラのゴミ集積場で、十代前半と思しき少年の他殺体が次々と発見される。遺体の損壊は激しく、明らかに変質者の犯行だ。NBI(国家捜査局)に依頼され死体を検分した法医学者のサエンス神父は、事件が土曜日にしか発生していないことを突き止め、若手神父のルセーロと共に捜査を開始する。

 一方、サエンス神父は以前から地域の教区にはびこる不正を糾弾しており、それを快く思わない枢機卿とその取り巻きは、2人の神父及びそれに協力するジャーナリストのジョアンナに対して何かとケチを付けてくる。フィリピンの作家による同名ミステリー小説の映画化だ。

 上映後に本作のスタッフも言っていたが、神父がこの映画のように事件の捜査や検死までやることは無い。これは純然たるフィクションである。しかし、それに大して違和感を覚えないのは、この一件が宗教に密着した重大な問題を扱っているからだ。

 事を“穏便に”収めたい当局側は別に犯人をデッチ上げるが、神父2人はその偽装を見破る。そして犯人の動機がカトリックの内部に存在する病巣に起因していることを暴いていくが、それを追求していくのが当の聖職者であることが、作劇により一層の切迫感を付与させている。主人公達の造型が、ベテランと若手という刑事ドラマの常道であることも嬉しくなる。

 ラヤ・マーティンの演出は骨太で、全編緊張の糸が途切れることが無く、最後まで観客を引きずり回す。また、暗鬱な画面とジットリと湿った映像、神経を逆撫でする音楽が抜群の効果を上げている。主役のノニー・ブエンカミーノとシド・ルセーロは好演。ヒロイン役のカーラ・ハンフリーズも魅力的だ。なお、フィリピンの大規模なゴミ捨て場と、そこに集まるスカベンジャー達の現状については過去にもいくつかの映画で描かれているが、一向に事態は好転していないようだ。
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「グリース」

2018-09-10 06:26:16 | 映画の感想(か行)
 (原題:GREASE)78年作品。私は“午前十時の映画祭”にて今回初めてスクリーン上映に接することが出来た。当時は大ヒットした作品だが、それも頷けるほどのキラキラした楽しさに溢れており、観ている間はこの世の憂さも忘れてしまう(笑)。もしも若い頃に、リアルタイムに近い時期に観ることが出来ていたならば、生涯忘れられない一本になったことだろう。

 1950年代。夏休みに海浜リゾート地で知り合った高校生のダニーとサンディは、甘い日々を過ごした後、夏の終わりに泣く泣く別れる。新学期が始まって登校したダニーだが、何とサンディが父親の転勤で同じ高校に転校してきたではないか。サンディは思いがけない再会に大喜びだが、実はダニーは“T・バーズ”という不良グループのリーダーであり、仲間の前でデレデレした態度を取るわけにはいかず、無愛想な素振りをする。



 怒ったサンディは、女子グループの“ピンク・レディーズ”に参加する一方、ダニーへの当てつけ気味にアメフト部のキャプテンと付き合い出す。そんな中、“T・バーズ”に敵対する“スコーピオンズ”のリーダーが改造車でのレースを挑んでくる。

 避暑地で知り合った女の子が、偶然に同じ学校に転入してくるという、超御都合主義的な設定。片田舎の高校が、TV局の主催する全米高校ダンス・コンテストの会場に指名されるのも、随分と強引な筋書きだ。しかし、この映画のような明朗学園ミュージカルならば、そんなことは笑って済ませられる。小難しいことは考えずに、ひたすら脳天気に楽しむ一手だ。

 この作品がデビューのランダル・クレイザーの演出は、とにかくテンポが良くソツがない。時代設定に相応しいキュートなファッションやカラフルな大道具・小道具。バリー・ギブによるお馴染みのナンバーと、シャ・ナ・ナの歌と演奏による既成曲の数々が、お祭り気分を盛り上げる。



 主演はジョン・トラヴォルタとオリヴィア・ニュートン=ジョンで、言うまでも無く“夢のスター共演”である。当時は人気絶頂だったトラヴォルタは、ここでは得意のダンスと歌声を賑々しく披露。オリヴィアはこの頃すでに30歳に達していたはずだが、凄く可愛い。この2人を見ているだけで、ウキウキとした気分になってしまう。ストッカード・チャニングやジェフ・コナウェイ、ディディ・コンといった脇のキャストも万全だ。

 なお、この映画が製作された70年代後半は、アメリカでは経済とエネルギーの危機が起こり、混迷の度を増していた時期だ。そんな状況で、ヴェトナム戦争もウォーターゲート事件も起きていなかった50年代に題材を求めた企画は、とても優れていたと言えるかもしれない。
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「検察側の罪人」

2018-09-08 06:05:01 | 映画の感想(か行)
 原田眞人監督作品とも思えない、低調なシャシンだ。もっとも、彼はこれまで秀作・佳作・問題作ばかりを手掛けてきたわけではない。たとえば、アイドルを主役にして撮った作品などは、語る価値も無かった。考えてみると、本作の主演も(トシは取っているが)一応アイドルだ。この作家とアイドルは、相性が悪いのかもしれない。

 東京地検刑事部のエリート検察・最上と、彼の教官時代の教え子だった沖野は、都内で起こった老夫婦刺殺事件を受け持つことになる。捜査線上に浮かんだのは、松倉という風采の上がらない中年男だった。最上はその名前を聞いた途端に狼狽する。松倉は、最上が学生時代に懇意にしていた女子高生を殺害した事件の重要参考人として当局の取り調べを受けていたことがあったからだ。

 その事件は時効を迎えていたが、最上は、松倉が今回の刺殺事件の犯人であるならば、今度こそ松倉を刑務所に送り込まなければならないと決意する。一方、沖野は別に弓岡という有力な容疑者が現れた時点でも、松倉の立件に執着する最上の姿勢に疑問を抱く。やがて最上の執念は、彼自身を常軌を逸した行動に駆り立てる。雫井脩介の同名ミステリー小説(私は未読)の映画化だ。

 とにかく、話がメチャクチャだ。いくら最上が強い義憤を抱いていたとしても、ああいうことを検事がやるとは思えない。しかも、彼は闇社会との関わりでそれを遂行しようとする。沖野にしても、明らかに検事には適していない情緒不安定ぶりを露呈。挙げ句の果てには、内部情報漏洩も平気で行う。これではまるで、出来の悪いファンタジー映画ではないか。

 さらに、最上の親友が政治家であり、何らかのスキャンダルを暴こうとしているらしいが、その内容は最後まで具体的に提示されない。また、最上の親族が戦時中にインパール作戦に参加していたというモチーフが勿体ぶって挿入されるが、何ら本筋との関係性が見出せない。最上の妻子の扱いには現実感がないし、沖野と同僚の沙穂とのアバンチュール(?)も、取って付けたようだ。

 そして最大の欠点は、法曹関係者を主人公に設定していながら、法廷劇にもなっていないことである。これてはカタルシスも何もあったものではない。

 主役の木村拓哉はいつものカッコ付けた演技で、いわゆる“キムタク臭さ”が全開。セリフ回しや表情が全編変わらないので、主人公の屈託なんか表現出来ていない。彼の周囲に配置された大道具・小道具も、そのキャラクターに合わせて気取ったものばかりが集められているのには脱力した。沖野役の二宮和也の仕事も褒められたものではなく、すべてがワンパターンで表面的だ。

 脇に吉高由里子や平岳大、大倉孝二弓、八嶋智人、キムラ緑子、松重豊、山崎努といった濃い面々を配していながら、ほとんど機能させていない(強いて挙げれば、松倉役の酒向芳の怪演が印象に残った程度)。原田の演出は冗長で、テンポが悪い。富貴晴美&土屋玲子の音楽、柴主高秀による撮影、いずれも特筆出来るものは無し。オススメ出来ない映画である。
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