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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ワンダー・ボーイズ」

2015-07-17 06:27:06 | 映画の感想(わ行)

 (原題:Wonder Boys )99年作品。カーティス・ハンソン監督が本作の前に撮った快作「L.A.コンフィデンシャル」の好調ぶりがここでも持続しているようで、一時たりとも退屈させない上出来のドラマに仕上げられている。

 ペンシルヴェニア州の地方都市にある大学で教鞭を執る文学部教授のグレイディは、若い頃は文壇の風雲児として知らぬ者はいなかったほどの存在だったが、今は長いスランプから抜け出せず、7年前から書き始めた大長編小説も完成する気配がない。折も折、妻は家を出て行き、しかも不倫相手の学長夫人サラから妊娠を告げられてしまう。さらには新作を催促する編集者テリーもやってくる始末。

 そんな中、テリーとパーティに出かけたグレイディは、教え子のジェームズが巻き起こした(学長がらみの)大きなトラブルに遭遇する。何とか場を収めようと右往左往する彼らだが、やがてジェームズがかつてのグレイディのような天才ライターであることを知るようになる。

 さすがこの監督は“大人”である。インテリ人種の織りなす屈折した騒動の数々を、見事に抑制された語り口とスムーズな展開で見せきっている。複数のクセの強い登場人物をムラなくフォローし、それぞれのハッピーエンドを迎えるまで少しも描写力を緩めない演出の粘りには感服した。

 人生の転機は、見つけようと思えばいつでもどこでも探し当てられるものだというポジティヴな視点を、決して大仰にならずにソフィスティケートなタッチで提示する。その絶妙なさじ加減には舌を巻くばかりだ。

 主演のマイケル・ダグラスは、マジメくさった顔をしてシッカリと笑いを取っていく妙演。昔は一世を風靡したが、オッサンになって才能が枯れた今は身の振り方も掴めないダメ男ぶりが絶品だ。ジェームズ役のトビー・マグワイア、テリーに扮したロバート・ダウニー Jr.、サラ役のフランシス・マクドーマンドと、脇も芸達者が揃っている。ダンテ・スピノッティのカメラも素晴らしく、これはこの時期を代表するアメリカ映画の収穫と言えそうだ。
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「私の少女」

2015-06-15 06:29:38 | 映画の感想(わ行)

 (英題:A Girl at My Door )見応えのある映画だ。孤独な魂を持つ主人公二人の“道行き”を切々と描くと共に、社会的マイノリティが舐める辛酸をヴィヴィッドに浮き彫りにする。プロットは堅固で、ドラマが弛緩することも無い。本年度のアジア映画を代表する佳編である。

 ソウル地方警察庁に勤めていたキャリア女性警察官のヨンナムは“ある理由”により田舎の港町の派出所へ左遷されてしまう。そこで彼女は、母親が蒸発して継父と義理の祖母に虐待されている少女ドヒと出会う。何とか彼女を救いたいと思ったヨンナムは一時的にドヒを引き取るのだが、自身のある秘密が明らかにされ、窮地に陥ってしまう。ドヒはヨンナムを助けるべく、大胆な行動に打って出るのであった。

 ドヒの造形が出色だ。無邪気さと狡猾さとが交互に表出し、愛らしさと残虐性とが巧みに混ざり合う。この得体の知れない存在感が醸し出されるようになったのは、もちろん彼女自身の責任ではない。理不尽な虐待と“母親のいない子”に対する世間の白い眼が悪いのだ。

 演じるキム・セロンのパフォーマンスは素晴らしく、世の中を達観したような眼差しは、観ていて居たたまれない気持ちになる。「アジョシ」や「冬の小鳥」で演技派子役として注目された彼女だが、十代になって独特のオーラを放つ(長い手足も印象的な)若手女優に成長。今後の活躍が期待される。

 一方のヨンナムも、世の中の大多数とは異なる嗜好を持っていたために、容赦なくエリートの座から引きずり降ろされる。ガランとした家の中で一人酒に溺れる様子は心象をよく表現しているが、制服を着ているシーンが必要以上に多いことがキャラクター設定の面でポイントが高い。なぜなら、不遇な私生活の中で唯一拠り所としたものが警察官という立場であったという、頼りにならないものにも縋り付かずにはいられない人間の悲しい性を描出しているからだ。

 ヨンナムにはペ・ドゥナが扮しているが、この韓国屈指の実力派女優の真価は今回は遺憾なく発揮されている(若干イロモノ扱いされたハリウッドでの仕事とは段違いだ)。プレッシャーで押し潰されそうになる様子をスリムな身体を目一杯使って表現する、この渾身の演技には目を見張ってしまう。ソン・セビョクやキム・ジンウ等、脇のキャストも良い。

 監督はこれがデビューとなる若手女流のチョン・ジュリだが、製作担当のイ・チャンドンの薫陶を受けただけあって、正攻法の力強い演出を見せている。ラスト以降で主人公達を待ち受けるものは、果たして希望かそれとも破局か。切ない感慨がずっと後を引く。
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「蕨野行」

2014-11-20 06:31:27 | 映画の感想(わ行)
 2003年作品。題名は“わらびのこう”と読む。江戸時代の東北地方の山村を舞台に、60歳になると慣習により「蕨野」と呼ばれる村はずれの荒れ地に強制移住させられる老人たちの姿を追う。村田喜代子の同名小説の映画化で、監督はベテランの恩地日出夫。

 今村昌平監督の「楢山節考」と同じネタなのだが、独自性を際立たせているのが台詞回しである。方言と文語調を組み合わせた独特のもので、非常に格調が高い。女主人公レンと若い嫁ヌイの「おババよい・・・」「ヌイよい・・・」という文言から始まるやり取りを聞くだけで、映画の世界にイッキに引き込まれてしまう。日本語とは、こんなにも美しい言語だったのかと、深く感じ入ってしまった。



 年寄りを捨てるまでのプロセスを描いた「楢山節考」とは違い、この映画では「蕨野」での生活を克明に追う。老人たちはそれまでの名を抹消され「ワラビ」という匿名の存在になる。ワラビたちは村人と会話することも許されない。たとえ死んでも葬式さえ出してもらえないのだ。

 まるで救いのない残酷な話にもかかわらず、映画自体は透徹した輝きを放っているのは、共同体と一緒に生き、また共同体のために殉じてゆく主人公達の生き様に日本民族の原風景を見るような気高さと美しさを感じるからである。それが最もよく示されているのは、レンが妹のシカと別れる場面である。

 シカはかつて村から追放され、獣のように山の中で生き抜いてきた。シカは姉に「冬が来る前に蕨野を出て食べ物が豊富な別の山で一緒に暮らそう」と申し出る。しかしレンはそれを断る。共同体での掟を破ることは、自分が共同体の中で暮らした意義を反故にすることになるのだ。自らの運命を受け入れたレンの強い意志が示されるこのシーンは実に感動的だ。

 本作を観ていると、的はずれな「人権」ばかりを振りかざして自分勝手に生きることを奨励しているかのような「戦後民主主義」がいかに矮小なものなのかを実感する。人間は共同体を逸脱しては「人間」として生きていけないのである。

 レン役の市原悦子、嫁のヌイに扮する新人の清水美那、年寄り達を演じる石橋蓮司、中原ひとみ、李麗仙、左時枝など、いずれも好演。ロケ地になった山形県の山麓風景のなんと美しいことか。この時期の日本映画を代表する秀作だと断言したい。
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「私の男」

2014-07-06 08:19:56 | 映画の感想(わ行)

 大して面白くもない。直木賞を受賞した桜庭一樹による同名小説はすでに読んでいるが、この映画化作品は筋書きが違う。別に“原作をトレースしていないからダメだ”と言うつもりなど毛頭無いが、小説版で提示された重要なモチーフがスッポリと抜け落ち、代わりにどうでも良いようなシークエンスが挿入されている。つまりは物語の要点が捨象されて余計なエクステリアが付与されているということで、これは評価出来ない。

 北海道南西沖地震により大津波に襲われた奥尻島で家族を失った10歳の少女・花は、遠い親戚だという腐野淳悟に引き取られ、二人で暮らすようになる。地元の名士で二人の後見人になった大塩は、成長して高校生になった花と淳悟の歪んだ関係に気付くが、やがて流氷の海で死体となって発見される。それを切っ掛けに花と淳悟は北海道を離れ、住居を東京に移す。

 原作では、花が美郎との新婚旅行から帰ってみると淳悟が消えたことが最初に描かれ、それから時間を遡って花と淳悟との関係性が綴られていくのだが、映画では二人の出会いから始まり、そこからノーマルな時系列で進められる。この脚色は良くない。

 実を言うと、原作で花と淳悟との“間柄の秘密”が示されるのはラスト近くの、震災よりも前の出来事に言及されるパートにおいてである。そこを終盤に持ってきているおかげで、原作はかなりのインパクトを獲得するに至ったのだが、時制の組み立てを反対にしている映画版ではそれが描けない。

 その代わりに何があるかというと、社会人になった花の交際相手である美郎と淳悟との、珍妙な掛け合いである。美郎がこの二人のただならぬ関係を察するという意味で考案されたのかもしれないが、蛇足以外の何物でも無い。その後に示されるエピローグも、何とも要領を得ない表現で脱力する。

 熊切和嘉の演出は前作「夏の終り」同様、テンポが悪く本調子とは言えない。舞台設定によって撮影メディアを変更するという方法は成果が上がっていないし、花と淳悟との絡みのシーンで部屋が血の海になるといった幻想場面も奇を衒ったものとしか思えない。そしてセリフの聞き取りにくさがドラマの進行を停滞させている。唯一良かったと思えたのは、犯罪ドラマとしては欠点が目立つ原作のストーリーを何とかカバーしていることだろうか(プロットに難があるため、私は小説版を評価していない)。

 主演の浅野忠信と二階堂ふみは熱演している。モスクワ映画祭で賞を獲得した浅野のパフォーマンスは彼のキャリアの中での代表作となりそうだし、二階堂も年齢を感じさせずファム・ファタールを演じきっている。余談だが、彼女の姉の宮崎あおい(←だから、姉じゃねえだろ ^^;)と似ているのは顔だけで、首から下は全然造型が異なっていることを再認識した(爆)。脇の藤竜也や高良健吾も悪くないし、北国の描写も捨てがたいのだが、映画の出来がこの程度では褒め上げるわけにはいかない。
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「ワイアット・アープ」

2014-03-14 06:40:56 | 映画の感想(わ行)

 (原題:WYATTE ARP)94年作品。全然面白くない。ご存知“OK牧場の決闘事件”を扱った映画は「荒野の決闘」(46年)はじめ多数作られているが、今回は中心人物のワイアット・アープの伝記として仕上げられているのが目新しい。冒頭、ワイオミングの果てしない大地をシネスコの画面でとらえたショットは素晴らしい。少年の頃のワイアットと厳格な父親(ジーン・ハックマン)や南北戦争から帰還した兄たちとの触れ合いを描く導入部分は、大河ドラマの序章としては的確で、それからの展開に期待を持たせる。

 “血は水よりも濃い。他人は他人でしかない”“法は正義であり、それを破る者は容赦なく殺せ”というこの保守的かつ高圧的な父親の主張が、民衆を守る保安官という立場に微妙に影響して、ディレンマに悩むワイアットを描くとともに、何が正義で何が法かといった今日的なテーマを盛り込んでドラマティックに展開していくのだろうと思った。

 しかし、期待は裏切られる。最初の妻と死別したワイアットは、偏狭で自分勝手な野郎となる。保安官である自分の側近はすべて身内でかため、長年付き合った娼婦あがりの女をいとも簡単に捨てる。クラントン一家との抗争も実は住民にとってはどうでもよく、単にメンツをかけての意地の張り合いに終始する。

 ちっともワクワクしない“OK牧場の決闘”。やたら暗い撃ち合いの場面(アクション場面の段取りの悪さは目を覆うばかり)。無法者が釈放される法秩序の矛盾。身内以外は冷遇する主人公のエゴイズム。勝手に言い伝えられる、“ワイアット伝説”のウソ臭さ。やはりこれも「許されざる者」以後のウエスタンらしい。ただ、問題は作品自体の焦点がボケまくっている点である。雰囲気だけで全然主題が浮き上がってこない。

 監督はローレンス・カスダンだが、薄っぺらな愚作「シルバラード」(85年)を見てもわかる通り、この人の西部劇は中身がない。いくつかのテーマを散らつかせながらも、少しも観客に迫って来ないのは明かな力量不足。

 加えてケヴィン・コスナーという、その頃の大人気スター兼超大根役者を主演に据えているため、いったいこの主人公は何だったのかいよいよわからない(どうでもいいけど、G・ハックマンを除いて、西部劇らしいツラ構えをした俳優は一人もいない)。いつもの優柔不断を通り越して、これじゃ単なるバカではないか。少しは自分のキャラクターを観客にわからせる努力をしてみろと言いたい。デニス・クェード扮するドク・ホリデイも何しに出てきたのかわからない。

 そしてこれがなんとアナタ、上映時間が3時間11分だ。観終わって、くだらない映画に貴重な時間を取られた不快感だけが残った。観る価値なし。
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「ワンス・アンド・フォーエバー」

2013-09-11 06:10:37 | 映画の感想(わ行)

 (原題:We Were Soldiers)2002年作品。ベトナム戦争でアメリカ軍が多大な犠牲を出した戦いを描くランダル・ウォレス監督作だが、何とも八方美人的な作りでテーマが絞り込めていない印象を持った。

 65年、米陸軍のハロルド・G・ムーア中佐率いる総勢約400名の部隊は、南ベトナム中央高地にある通称“死の谷”と呼ばれるベトコンの拠点に辿り着く。しかしそこには北ベトナム兵約2千人が待ち構えており、たちまち包囲されて苦戦を強いられる。戦闘は苛烈を極め、たまたま居合わせた特派員までも銃を持って戦うハメに。やがて現地の無差部爆撃によって終焉を迎えるも、ムーア中佐は最後まで奮戦する。

 アメリカ製戦争映画にしては珍しく敵軍の事情などを大々的に織り込んではいるものの、通り一遍の描写であまり観客に迫ってこない。相手軍の言い分を聞くよりも、対象を米軍の最前線に限定し、切迫した戦場の真実をミクロ的に活写すべきではなかったか。

 また、この映画では戦場のシーンより兵士の家族の不安に力点が置かれているが、それを強調するなら最初から戦闘場面を必要最小限に抑えるべきだった。

 しかし、それでも死亡告知を家族が受け取ってゆくシークエンスにはぐっとくる。当局側の段取り不足からか、告知は普通のタクシー運転手が届けてゆくことになってしまう。この何とも配慮の足りない行為に戦争の無常さを象徴させたかったのかもしれない。

 主演のメル・ギブソンは熱演だが、従来のパターンを逸脱するものではない。グレッグ・キニアやサム・エリオットらの脇の面子もイマイチ印象に残らない。そして何より、ロケ地が全然ベトナムらしくない(熱帯ジャングルではない)のが大いに気になった。
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「わが心のボルチモア」

2013-09-09 06:12:15 | 映画の感想(わ行)
 (原題:Avalon)90年作品。バリー・レビンソン監督の最良作だ。まずオープニングが素晴らしい。夜空を飾る花火、鮮やかなネオン、はためく星条旗に包まれた独立記念日のボルチモアの夜。賑わう街の中を、東欧からこの地に移住してきた若き日のサム・クリチンスキー(アーミン・ミューラー=スタール)がゆっくりと歩いて行く。そこに彼が劇中で何度もつぶやく“1914年、私はアメリカへ渡った。そこは見たこともないような美しい街だった”というセリフが重なる。

 歳月は流れ、サムの息子であるセールスマンのジュールスとその子供のマイケルが登場する。ボルチモア出身者でもあるレビンソンからすれば、マイケル少年のキャラクターが彼の分身なのだろう。

 時代を表現する小道具としてテレビが実にうまく用いられている。1940年代にはじめてクリチンスキー家にテレビが入り、家族全員がテストパターンも番組だと思い込み、真剣に見入りながら、“これじゃラジオの方が面白いよ”と言い合う場面には笑ってしまった。



 テレビの登場以来、クリチンスキー家の生活に徐々に変化が現れてくる。テレビに夢中になることで、家族同士の会話が減少してしまうのだ。それが遠因になって、以前より仲の悪かった嫁と姑の関係がさらに悪化しジュールス家の両親と息子夫妻は別居することになる。

 しかし、クリチンスキー家に入り込んだテレビは、弊害ばかりをもたらしたわけではない。収容所から奇跡の生還をはたしたマイケル少年の従妹のエルカは、英語が全然理解できなかったが、マイケル少年とともに子供向け番組を見るうちに、ナレーションとセリフを通して自然に英語がしゃべれるようになる。

 さらに、テレビを中心に家電のサービスに乗り出したジュールスは、当時としては珍しいテレビ放送によるコマーシャル・フィルムという“先鋭的”なマーケティングを展開する。その後、ジュールスが選んだ第二の人生は、テレビのCMをメインにした新しいタイプの広告代理業だったのである。

 ジュールスが経営するデパートが開店初日に全焼してしまい、マイケル少年は当日、従弟と地下室で火遊びをしたことが原因ではないかと思い、悩みに悩んだあげく、父親に正直に打ち明けると、実は漏電が原因で火遊びのせいではないことがわかる。叱られると思ったマイケル少年は逆に父親からその正直さを認められる。心暖まるエピソードだが、全然説教臭くなく、素直に感動できる。

 その他たくさんの出来事が描かれるが、どのエピソードもアメリカという異境で自らのアイデンティティを失わず、なおかつアメリカの市民としての地位を得た一族を通して、ひとつの壮大な“アメリカ現代史”を構築しようという作者の意気込みが伝わってくる。

 “こんなに何もかも変わってしまうなら、もっとしっかり記憶に刻みつけておけばよかった”と当時を回想する年老いたサムが見ているテレビには、現在のボルチモアの独立記念日の街の模様の中継が映っている。それはいつしか、あの美しい1914年の7月4日の夜の光景へとオーヴァーラップしていく。そんな見事なシーンで終わるこの作品。公開当時はさほど話題にもならず、アカデミー作品賞の候補にもなれなかったが、よく知られた映画であるレビンソンの前作「レインマン」よりも、こっちの方が断然好きである。
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「ワールド・ウォーZ」

2013-09-06 06:56:37 | 映画の感想(わ行)

 (原題:World War Z )ゾンビどもが群れを成し、巨大な人柱を形成して高い建物を乗り越えようとする映像は凄い。そして、ゾンビ軍団から逃げ惑う群衆を俯瞰で映したショットもかなりのものだ(どこかの内戦のように見える)。さらにはゾンビが増殖する旅客機内からの脱出シーンも、キレがあって迫力満点である。しかし、それらを除けば大したことはないシャシンだ。

 妻子を連れてドライブ中であった元国連捜査官のジェリーは、突然フィラデルフィアの街中でゾンビの襲来に曝される。間一髪で難を逃れ、米軍の艦船に避難することが出来たジェリー達は、正体不明のゾンビ・ウイルスのアウトブレイクが世界的に発生して主要都市は既に壊滅していることを知る。かつての上司である国連事務次長のティエリーから“現場復帰”を要請されたジェリーは、解決策を求めて世界中を飛び回ることになる。

 おそらくはゾンビ映画史上最高の製作費が投じられた作品で、しかも堂々の夏休みシーズンでの公開だ。よって、従来のゾンビ映画のルーティン(?)は完全に無視されている。この手の映画に付き物の、派手なスプラッタ場面や粘り着くようなグロテスク描写は見当たらない。

 そもそも主演がブラッド・ピットである。今のところどう見ても“非・オタク系”の演技者である彼が、劇的な心変わりでもしない限り、B級テイストたっぷりの従来型ホラームービーなんかに出るはずもない。普通のゾンビ映画とは一線を画す、まさに“健全な”アドベンチャー作品と化している。

 行きかがり上は主人公に数多く修羅場を潜らせる必要があるのは分かるが、普通の勤め人とは異なる非現実的なタフネスを付与されているというのが、何とも腑に落ちない。いくら国連の有能な外回りスタッフだったといっても、ゾンビどもを難なく蹴散らし、飛行機が落ちても重傷を負っても数シークエンス後には平気の平左で復活するという筋書きはかなり無理がある。これはブラピではなくシュワ氏やスタローン御大の仕事ではないか(笑)。

 もっと“一般市民が非常事態に直面した”というシチュエーションを前面に出した方が切迫感が増したはずだ。ゾンビ・ウイルスに対する方策が発見される終盤の展開は、それまでの派手派手しい画面の連続とは打って変わった地味なもので、このあたりも気勢を削がれる。マーク・フォースターの演出は可も無く不可も無し。ブラピ以外のキャストは名前も知らないような者ばかりで、しかも演技面・存在感ともイマイチ。主人公に拮抗するようなキャラクターを有名俳優に演じさせても良かったのではないだろうか。

 なお、原作者のマックス・ブルックスはメル・ブルックスとアン・バンクロフトの間に出来た子だというのは驚いた。コメディ映画の巨匠の息子がホラー作家とは、そっちの事実の方が映画自体よりもインパクトがある。
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「悪い奴ほどよく眠る」

2013-08-31 06:40:28 | 映画の感想(わ行)
 黒澤明監督1960年作品。お馴染みの黒澤御大の“小役人罵倒、愚民差別”のスタンスが炸裂しており、力で迫る演出で一応楽しめるのだけど、他の傑作群と比べてイマイチ感銘度が薄いのは、焦点が定まらず余計なシーンが目に付くからであろう。

 土地開発公団の副総裁の娘の結婚式で思いがけないハプニングが起こったのを皮切りに、庁舎新築にからまる不正入札事件をめぐる不可解な出来事が頻発する。差出人不明の密告状を受け取った検察当局が動き出すが、連重要参考人の自殺や失踪が相次ぎ、真相はなかなか掴めない。そんな中、くだんの娘の夫になる副総裁の秘書は独自の捜査に乗り出す。



 汚職の巨魁であるべき公団副総裁の上に、庶民がとても近づくこともできない“黒幕”を置いてしまっては、主人公の努力も何やら最初から徒労に終わりそうで、娯楽作としてはしっくりこない。各エピソードの扱いも総花的で、メリハリに欠ける。

  主演の三船敏郎をはじめ、加藤武や森雅之、志村喬、西村晃、香川京子とキャストは多彩だが、それぞれの芝居にちょっとクサさを感じる瞬間もある。でもまあ、三船の存在感はさすがだった(田中邦衛のヒットマンも笑えたけど ^^;)。
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「ワンダフルライフ」

2013-07-12 06:15:40 | 映画の感想(わ行)
 99年作品。天国への入口で死者たちの面倒を見るスタッフを描く是枝裕和監督作。彼らの仕事は、死んだ者たちに人生の中で一番楽しかった想い出をひとつ選んでもらい、それを映像化して見せることだ。そうすると、彼らはその想い出を抱いたまま天国へ旅立つのだという。

 ハッキリ言って、ダメな映画である。デビュー作の「幻の光」を観た時も思ったが、是枝監督の姿勢というのは“映像美とはこういうものだ”とか“自然な演技ってのはこういうものだ”とか“ドキュメンタリー・タッチとはこういうものだ”とかいう具合に、自分一人で納得して観客に押しつけてくる傾向がある。さらにテレビドラマ的な明解・平板な作劇に対する憎悪にも似た気持ちもうかがえる。



 まあ、そのスタンスはいいとして、致命的なのは肝心の実力がまるで付いていってないってこと。今回も、頭の中だけで作ったようなホラ話を約2時間保たせられない。

 ディテールも大甘。だいたい、人の一生を記録したビデオテープとやらがあるのなら、わざわざセコいセットで撮り直す必要なんてあるものか。デジタル合成ぐらい出来ないのだろうか。観ていて恥ずかしくなるような“ドキュメンタリー・タッチもどき演技”も願い下げ。主演二人(井浦新と小田エリカ)は救いようがないほど大根。脇に寺島進や内藤剛志、谷啓、伊勢谷友介、吉野紗香、香川京子、由利徹といった多彩な顔ぶれを配しているにもかかわらず、大した演技もさせていない。

 それにしても“良い思い出だけを抱えて永遠の時を送る場所”である天国というのは、あまり愉快な所じゃないようだ。退屈で死んでしまう(もう死んでるけどさ ^^;)。
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