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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ワイルド・アット・ハート」

2017-11-17 06:37:08 | 映画の感想(わ行)

 (原題:WILD AT HEART )90年作品。主人公セイラー(ニコラス・ケイジ)は、恋人ルーラ(ローラ・ダーン)の目の前で因縁をつけてきた一人の黒人を殺してしまう。だがそれは、娘に対して偏執狂的な愛情を持っているルーラの母親が、二人の間を引き裂こうとして仕組んだ罠だった。それから22か月と18日後、刑務所を保釈になったセイラーは、ルーラを連れて母親の呪縛から逃れるため、カリフォルニアへと旅立った。ストーリーは以上のように粗野で情熱的なカップルの逃避行を追っていて、文字通りワイルドなタッチのラブ・ストーリーを狙ったデイヴィッド・リンチ監督作である。

 結論から先に言おう。まったくの期待はずれだった。その理由はリンチ監督のこの前の作品「ブルー・ベルベット」(86)と比べればすぐわかる。あの作品の凄さはいわば“日常の裏に潜む非日常”を鋭くえぐったことであった。平和な街で起こる異常な殺人事件。平凡そのものの市民生活に忍び寄る悪夢のごとき不吉な影。その危険なイメージを過激な映像で容赦なく提示していく、リンチ監督のテクニックに終始ゾクゾクしっぱなしだった。

 ところがこの作品はベースとなるリアリティがまるで欠如している。主演の二人は“翔んだ”ままだし、狂態を見せるルーラの母親や、ウィレム・デフォー扮する変質的な殺し屋など、まわりのキャラクターも皆かなり異常だ。普通の人たちが一人も登場しない。そんなキ印だらけの世界をリンチ監督はギラギラの映像と猛烈なスピード感とぶっとんだ音楽で描き出す。

 しかし、観る側が感情移入できるキャラクターがおらず、映像だけが流れて行くだけの映画とも言える。たしかに冒頭の殺人シーンやクライマックスの銀行強盗の場面には圧倒されたが、それが映画自体の面白さにはなっていない。監督自身が自分のフリーク趣味だけを満足させたような作品である。最初から物語をつくることを狙っていない。こういう映画もあっていいとは思うが、私はまったく興味がない。映画はまずリアリティである。

 それにしても、取って付けたようなラストシーンには笑ってしまった。いっそ主役の二人が殺されてしまった方が、映画としてサマになっていたと思う。同年のカンヌ国際映画祭で大賞を獲得しているが、主要アワードを受賞した作品が良作とは限らないのは毎度のことなので、あまり気にならない。
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「ワンダーウーマン」

2017-09-11 06:22:50 | 映画の感想(わ行)

 (原題:WONDER WOMAN)予想を上回る面白さで、鑑賞後の満足度は高い。矢継ぎ早に作品を投入し、駄作はあるが快作も確実に存在するMARVEL陣営に比べ、DCコミック側は感心しない展開が目立っていたのだが、本作の登場によって状況が変わってきた。次なる「ジャスティス・リーグ」のシリーズにもいくらか期待が持てる。

 古代より女性だけのアマゾン族が暮らすパラダイス島で、ようやく誕生したプリンセスのダイアナは、快活で好奇心旺盛だが島の外の世界を知らずに育った。そんなある日、彼女は島に漂着したアメリカ人パイロットのスティーヴを助ける。折しも外界では第一次大戦の真っ最中。スティーヴを追って島に侵攻しようとしたドイツ軍を撃退したダイアナ達だが、彼からドイツが大量破壊兵器を開発して世界を脅かそうとしていることを聞き、ダイアナはこれは軍神アレスの仕業だと確信。世界を救うため、二度と島には戻れないと知りながら彼女はスティーヴと共にロンドンへ赴く。

 まず、舞台を戦時中に持ってきたのが勝因だ。各国が自前の正義を振りかざし、殺戮行為を正当化していた時代。そんな混迷の中にあって、ダイアナの“アレスを倒せばすべて解決する”という考え方も、結局は戦争当事者達の(表向きの)スローガンと一緒である。そんな一面的な考え方から、戦争および人間の行動様態の実相が解明されていくという筋書きは、ヒロインの“成長”ともシンクロし、かなりの効果を上げている。

 そして何と言っても主演のガル・ガドットだ。堂々とした体躯と群を抜くルックス。しかも、若干の天然ぶりと可愛らしさをも感じさせ、これ以上には無いと思える起用である。アクション場面も文句なしで、特に塹壕から飛び出してドイツ軍に向かって突撃していくシークエンスは、胸が躍った。

 スティーヴに扮するクリス・パインも絶好調。“パッと見た感じは軽量級だが、実は熱血漢”という役柄を上手く表現していた。そしてパトリック卿を演じたデイヴィッド・シューリスもさすがの海千山千ぶりだ。監督のパティ・ジェンキンスは何と「モンスター」(2003年)以来の仕事になるが、かなり上達した様子が窺える。

 まあ、終盤の敵の首魁とのバトルが他のヒーロー映画とあまり変わらない展開になったり、マッドサイエンティストの女性化学者(エレナ・アナヤ)の掘り下げが浅かったりと欠点もあるのだが、勢いのある作劇の前にあっては気にならなくなってくる。

 マシュー・ジェンセンのカメラによる戦場のリアルで寒々とした光景や、ルパート・グレグソン=ウィリアムズの音楽も要チェック。今後の「ジャスティス・リーグ」の出来がどうなるかは分からないが、ワンダーウーマンに限っては心配御無用といったところだろう。
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「ワールド・アパートメント・ホラー」

2017-09-08 06:32:23 | 映画の感想(わ行)
 90年作品。大友克洋監督による実写映画としては他に「蟲師」(2007年)があるが、私は未見である。ただし、アニメーション作家の印象が強い大友だが、オムニバスや短編を除いた長編アニメは2本だけで、現時点では(自主映画を除いた)実写作品と同数である。だから“アニメーション映画の作り手として云々”という前置きは適当ではなく、虚心に一本の劇映画として接するのが相応しいと思われるが、それにしても本作は面白い。この時期の邦画を代表する快作だと思う。

 東京の場末に建つ古ぼけたアパート・南海荘には、不法滞在しているアジア人が多数住み着いていた。彼らを叩き出すため地上げ屋からチンピラヤクザのヒデが派遣されるが、なぜか錯乱状態に陥って撤退。代わりに弟分の一太が送り込まれ、さっそく嫌がらせを開始するが、住人たちはまったく動じない。

 それどころか彼らのトンチンカンなリアクションにより、一太のストレスは増すばかり。やがてアパート全体にポルターガイスト現象が起こり、一太は発狂寸前。住人たちは悪魔払い師を呼び、怪しげな儀式を始めて何とかその場は収まるが、今度はヤクザたちがアパートに乗り込んで大乱闘が勃発する。

 幾何級数的に大きくなる騒ぎを、腰砕けにならずに最後まで引っ張る演出に感服する。俯瞰やローアングルを多用したカメラも効果的で、どんなに際どいシーンにも笑いを忘れないところは流石だ。

 そして下っ端のチンピラに“日本人は、白人だァ!”と叫ばせてしまうシニカルな視点は、現代にも通じる危うい現実認識を感じさせてドキッとする。今の日本にはアジア人労働者は必要不可欠で、その数は増えていることは頭では分かっているのだが、ついついその存在に鬱陶しさを覚えてしまう我々の“本音”を突きつけられる思いだ。そして、この汎アジア的な視点をオンボロアパートのドタバタ劇というマイナーな題材で扱ってしまう野心的な作者のスタンスを評価したい。

 SABUや中村ゆうじ、中川喜美子、出川哲朗といった濃いキャスティングも要チェックである。またスタッフに(今は亡き)アニメーション界の鬼才・今敏が加わっていることも感慨深い。
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「笑う招き猫」

2017-07-17 06:30:03 | 映画の感想(わ行)

 面白くない。一番の敗因は、漫才を題材にしているにも関わらず、肝心の漫才が少しも笑えないことだ。主人公達だけではなく、周りの芸人のネタも全然ウケない。本職の芸人もキャスティングされているのに、この体たらく。それはひとえに、ネタの内容の精査と見せ方を工夫することを作者が怠っているためだろう。ならば漫才以外の場面は良く出来ているのかというと、それも違う。とにかく弛緩した時間が流れるだけの、観て損したと思えるシャシンだった。

 高城ヒトミと本田アカコによる漫才コンビ“アカコとヒトミ”は結成5年目を迎えても、ほとんど売れていない。小さなライヴハウスで少ない観客を相手にする日々を送るのみだ。だが、少しずつマネージャーの尽力が功を奏し、2人にチャンスが舞い込むようになる。バラエティ番組に初出演が決まり、舞台のポスターの表示も大きくなる。しかし、元より生い立ちや芸に対するスタンスも違う2人の間に、大きな溝が出来始める。山本幸久の同名小説(私は未読)の映画化だ。

 主人公達のキャラクターが気に入らない。何より、どうして漫才師になりたかったのか、その背景が見えない。学園祭のアトラクションで少しばかりウケた程度で、芸人という不安定な世界に飛び込めるとは思えないのだ。2人は“ボケとツッコミ”という役割分担こそあるが、基本的にあまり違いは無いように思える。つまり、どちらも気難しくてヘタレで“付き合いきれない女”なのである。

 劇中で登場人物の一人から“辞めるのと逃げるのは違う”というセリフが発せられるが、彼女達は何かと理由を付けて逃げようとしているとしか思えない。これは周囲の若造連中も同様で、いずれも人生に対して及び腰だ。こんな者達が画面上をウロウロしてているだけでは、全然盛り上がらない。

 飯塚健の演出は平板でキレもコクも無く、目新しさを出そうと時制をバラバラにしてシークエンスを組み立てようとするが、これが上手くいっておらず、観ていて鬱陶しい限りである。

 主演は清水富美加と松井玲奈だが、映画内の設定としては27,8歳ながら、2人の実年齢も見た目もそれより若いので、かなり違和感がある。それでも演技の勘の良さでは定評のある清水はまだ良いとして、松井のパフォーマンスはいただけない。悪ぶってギャーギャー騒ぐだけでは“演技”にはならないのだ(ハッキリ言って、AKB一派は映画に出ないで欲しい)。

 落合モトキや荒井敦史、浜野謙太、前野朋哉といった脇のキャストも精彩が無い。良かったのは諏訪太朗や岩松了といったベテラン陣だけだ。それにしても、ラストに流れる楽曲の凡庸なこと。映画自体が低調ならば、せめて音楽だけでもキチンとして欲しかった。
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「わたしは、ダニエル・ブレイク」

2017-04-10 06:28:13 | 映画の感想(わ行)

 (原題:I, DANIEL BLAKE )厳しくも、美しい映画だ。また、これほどまでにこの時代の一面を照射した作品はないだろう。ケン・ローチ監督の真骨頂とも呼べるような、強靱な求心力がみなぎる、まさに必見の映画だ。

 イングランド北東部にある町ニューカッスルに住むダニエル・ブレイクは、大工を生業にしていた初老の男だ。彼は心臓の病気に罹り、医者から仕事を続けることを止められる。しばらくは失業手当で糊口を凌いできたが、突然役所から給付を打ち切られる。働けるのだから就職活動をしろということらしく、そのための求職手当は出るという。

 しかしドクターストップが掛かっているのに、就業できるはずもない。そんな複雑な制度に翻弄されていたある日、役所で途方に暮れていたシングルマザーのケイティを助ける。それをきっかけに彼女や2人の幼い子供たちと交流し、何とか助け合うことで家族のような絆が生まれていく。しかし、厳しい現実は彼らを次第に追い詰める。

 先日観たスウェーデン映画「幸せなひとりぼっち」と似た設定だが、あちらが幾分ファンタジー仕立てだったのに対し、本作はリアリズムに徹している。まず、役所の理不尽な仕打ちに怒りを覚えずにはいられない。だが、考えてみると仕方が無い面もあるのだ。

 経済効率至上主義および新自由主義のテーゼが大手を振って罷り通る昨今、真っ先に削られるのは福祉だ。福祉という名の“施し”を受ける層は、経済的に見て“不合理”だと言わんばかりに、権力側は排除しようとする。その圧力は現場で申請者に対応する末端の役所の担当者にも降りかかる。逼迫した者を、余裕の無い者が邪険に扱うという、不条理極まりないことが英国はもちろん世界中で起こっているのだろう。

 そんな中でも主人公のダニエルは優しさを忘れない。困っているのは自分なのに、他人であるケイティたちを助けようとする。彼が子供たちに木で作った飾りをプレゼントするくだりは泣けてくるが、やがて明らかにされるダニエルの生い立ちと亡き妻との関係性を知るとき、本当の人間の美しさとは何なのかということに思い至り、切ない感動を呼ぶ。

 それにしても、日本では大した件数では無いと思われる生活保護の不正受給を必要以上に強調し、弱者排除を堂々と公言する手合いが存在するみたいだ。明日は我が身かもしれないことに考えが及ばず、自分より“下”の者を軽視して何かしらの優越感を得るという、低レベルの自尊感情や自己有用意識に過ぎないのだろう。

 ダニエルに扮するデイヴ・ジョーンズは本国では有名なコメディアンとのことで、役人相手に減らず口を叩く冒頭部分は笑わせてくれる。だが、映画が進むに従ってこのキャラクターの慎み深く暖かい内面を滲み出していくのはさすがだ。ケイティ役のヘイリー・スクワイアーズも好演。第69回カンヌ国際映画祭における大賞受賞作で、今年度のヨーロッパ映画の収穫の一つである。
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「私の少女時代 OUR TIMES」

2017-01-21 06:31:20 | 映画の感想(わ行)

 (原題:我的少女時代 Our Times)内容の割には上映時間は長いし、ドラマ展開は冗長で余計なシーンも散見されるのだが、年甲斐もなく“胸キュン”してしまうところも多々あり(大笑)、見終わっての印象は良好だ。最近観た「若葉のころ」や「共犯」等の出来の良さも考え合わせると、台湾製の青春ドラマというのは、侮れないレベルに達しているのではないだろうか。


 主人公チェンシンは仕事も恋も上手くいかない、不器用で損ばかりしているOLだ。ある日彼女は昔大好きだったアンディ・ラウの歌がラジオから流れてくるのを耳にして、高校時代を思い出す。90年代、男っ気の無い学園生活を送っていたチェンシンにも思いを寄せていた男子がいた。それは、男前の優等生フェイファンだった。

 ところがひょんなことから“不幸の手紙”を受け取った彼女は、それを3人の相手に転送。うっかりその中に不良のタイユイの名もエントリーさせてしまったことから、チェンシンは送り主をすぐに突き止めたタイユイに奴隷のようにこき使われるハメになる。一方フェイファンは同級生の美少女ミンミンと仲良くしているが、2人の意味ありげな会話を盗み聞きしたフェイファンとタイユイは、思わず狼狽えてしまう。こうして男女四人の一筋縄ではいかない関係が始まった。

 映画のシチュエーションに新味は無い。ヒロインは一見冴えないけどオシャレすると見栄えがするタイプ。相手役は不良ぶっているが実は昔起こった悲劇によりグレてしまっただけで、本当は頭が良くて優しい(また、けっこう二枚目で腕っ節も強い)。フェイファンは実はタイユイの中学生時代の友人で、優男のように見えて芯がある男という、これもよくある設定だ。しかし、この話を90年代という、大昔でも数年前でもない“程良い過去”に持ってくると、途端に輝き出す。誰しもノスタルジックな感慨を覚えるあの頃に物語を放り込んでしまえば、多少の欠点もカバーされてしまうのだ。

 もちろん、懐古趣味に乗っかっただけのシャシンではなく、手を変え品を変え、各エピソードを積み上げていく。その中には正直つまらないものもあるのだが、フェイファンとタイユイのいじらしい純情ぶりを強調するパートになると、観る側のヴォルテージも上がっていく。特にレコード店でアンディ・ラウの立て看板に見とれるチェンシンの姿を目にしたタイユイが一肌脱ぐというくだりは、扱いはベタなのだが語り口の巧さによってしみじみとした感慨をもたらす。

 フランキー・チェンの演出は才気走ったところは無いが、同じく90年代を舞台にした「あの頃、君を追いかけた」にあったような余計なケレンを廃し、地道にストーリーを追っている。チェンシンに扮するビビアン・ソンは美少女タイプではないものの、豊かな表現力で役柄を自分のものにしており、なかなかの逸材だと感じた。タイユ役のダレン・ワンやディノ・リー、デヴィ・チェンといった他のキャストも万全だ。また時制が現在に戻る終盤には思わぬゲストが登場し、場を盛り上げる。

 それにしても、劇中の“女の子が言う「大丈夫」は大丈夫じゃない、「なんでもない」は大アリだ”というセリフはまさに至言だ(笑)。クリス・ホウによる音楽とヒビ・ティエンの主題歌も良い。
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「若葉のころ」

2016-08-31 06:21:06 | 映画の感想(わ行)

 (原題:五月一號)欠点はあるが、それを軽くカバーしてしまうほどの魅力がこの映画にはある。本当に観て良かったと思える、台湾製青春映画の佳作だ。長らく忘れていたピュアな感覚が戻ってきたような、そんな甘酸っぱい気分を味わうことが出来る。

 主人公バイは台北に住む17歳の女子高生だ。両親は離婚しており、今は母と祖母との3人暮らしである。高校生活は順調であったが、ある日、母のワンが交通事故に遭い、意識不明の重体となってしまう。そんな中、バイは母のパソコンに初恋の相手リンに宛てた未送信メールがあるのを発見する。ワンは現在でもリンのことを忘れられないのだ。バイは母に代わってリンに“会いたい”とメールを送る。一方、リンはいまだに独身で、そこそこ実入りの良い仕事には就いているものの、私生活はあまり恵まれてはいない。時折、30年前の高校時代を回想し、初恋の人だったワンのことを思うのだった。

 現在の出来事と、リンとワンが高校生だった80年代が交互に描き出されるのだが、その段取りが上手くいっているとは思えない。バイの友人の男関係がどうのとか、高校時代のリンが担任の女教師に憧れていたが思わぬ“真相”を突きつけられて動揺するとか、明らかに余計なエピソードが無理筋で挿入されており、映画のテンポが鈍くなると同時に上映時間が無駄に長くなっている。

 それでも、バイと若い頃のワン、そしてリンの微妙な内面をすくい取る演出には惹き付けられてしまう。出色なのは、高校生のリンがビージーズの「若葉のころ」の歌詞を中国語に翻訳する課題を教師から与えられることで、この曲が後半のドラマを形成する重要な“小道具”になっていること。言うまでもなくこの曲は「小さな恋のメロディ」(71年)の挿入歌であり、歌詞の内容も映画の内容と微妙にシンクロしている。そして終盤近くの感動シーンの伏線でもある。

 ラストは御都合主義かもしれないが、後味は良い。この映画がデビュー作になる監督のジョウ・グータイはミュージック・ビデオの演出家らしいが、映像の訴求力には目覚ましいものを感じる。原題にもある5月の季節感の描出など、悩ましいほどだ。

 バイと若い頃のワンを演じるルゥルゥ・チェンはとびきりの美少女ではないものの、表情の豊かさとしなやかな身のこなしで観る者を魅了する。高校時代のリンに扮したシー・チーティアンもナイーヴな好演。現在のリン役のリッチー・レンとワン役のアリッサ・チアも堅実な仕事ぶりを見せる。

 関係ないが、現在のリンの友人がオーディオ・ショップを営んでおり、リン自身も高級な機器を導入しているのは印象的だった。リンの自宅にあるのは米国McIntosh社のスピーカーXR290を中心としたシステムで、日本円にして総額一千万円を軽く超えるだろう。80年代の回想シーンでもオーディオ機器がフィーチャーされている箇所があり、監督の趣味をあらわしているのかもしれない。
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「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ/天地大乱」

2016-04-11 06:28:25 | 映画の感想(わ行)
 (原題:黄飛鴻 II 男児当自強)92年香港作品。正式には6本作られたこのシリーズだが、私が観たのはこの2作目のみである。シリーズ中で一番出来が良いと言われているらしいが、なるほど確かに面白い。全盛期のツイ・ハーク監督とキャスト陣が、しっかりと仕事の歯車を噛み合わせている感じだ。

 清朝末期、欧米列強に対抗する謎の邪教集団「白蓮教」や革命を画策する孫文一派、それを阻止しようとする警察当局、外国軍隊etc.が入り乱れてのストーリーの中に、信じられないクンフー・アクションが息をつく暇もなく展開する。ハーク監督得意のワイヤー・アクションも堪能できるが、やはりスゴイのは主人公の黄飛鴻を演じるリー・リンチェイ(ジェット・リー)はじめロザムンド・クワン、ジョン・チャン、ション・シンシンなどの出演者たちの身体を張ったスタントの数々だろう。



 平均台みたいな高い梁の上での格闘シーン、狭い通路での長い棒を駆使したアクション、工事現場(?)での三次元的に展開するチェイス・シーンなど、“ここまでやるか”と思わずにはいられない。香港映画ならではの出演者の人権をまったく無視した(注:これはホメているのだ)アクション演出はここでも健在である。

 さらに、冒頭とラストの夕陽をバックにした少林寺拳士たちの雄姿とか、当時の上海を再現した豪華なセット、中国の近代史も手際よく盛り込んだ、ただのB級クンフー映画には決してなっていない(風格さえある)ところに、この頃のハーク監督の手腕が感じられる。

 なお、私は本作を92年の東京国際ファンタスティック映画祭で観ている。しかもオープニング作品で、上映前のセレモニーは凝った照明と舞台演出でお祭り気分が盛り上がった。特に「男たちの挽歌」などで知られる当時の香港のトップスター、チュウ・ユンファが入場したときは会場が大騒ぎになったものだ。このイベントが今は行われていないのは実に残念である。
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「私は二歳」

2016-03-01 06:29:53 | 映画の感想(わ行)
 昭和37年大映作品。原作は松田道雄による育児書だが、これを良く出来たホームコメディに仕立て上げた和田夏十の脚色と市川崑の演出に手腕に感服する一編。鑑賞後の満足感も高い。

 都内の団地に住む若夫婦、五郎と千代の間に一人息子の太郎が生まれる。両親は太郎を育てるのに毎日大わらわで、太郎が笑ったといっては喜び、歩いたといっては歓声をあげる。一方で、勝手に団地の階段を這い上がった太郎に肝を冷やす。ある日一家は事情により団地を出て、祖母の住む郊外の平屋に引っ越すことになる。当然のことながら、嫁と姑との間に太郎の育て方に関する確執が発生。さらには父の勤務先のゴタゴタや、それによる母親のいらつきも生じ、気の休まる日は無い。それでも太郎は大人達の言動をクールに見つめ、成長していく。



 育児書を元にしていながら、教条的な部分はほとんど見当たらない。子育ての苦労と、それに付随する幸福感。どんなに時代が移っても変わることがない普遍性を、的確にすくい取る。母親は弱音を吐き、父親はおっちょこちょい。祖母は頑固だ。しかし彼らは自分たちに与えられた環境の中で、精一杯に太郎に尽くそうとする。そんな底抜けの善意が横溢し、家族のあるべき姿をとらえる作者のポジティヴさが嬉しい。

 団地の佇まいや、古い平屋の造形は見事。特に団地の隣近所との関係性を、数人の住人を登場させただけで丸ごと描出してしまう展開は見事だ。時折挿入されるアニメーションも抜群の効果を上げている。

 船越英二と山本富士子、そして浦辺粂子という主要キャストのアンサンブルも見応えがある。山本と浦辺との丁々発止の掛け合い、それに右往左往するチャラい船越の存在感は、観ていて笑いながらも納得してしまう。また映画製作に当たっては森永乳業が協賛しており、劇中に森永牛乳が頻繁に登場。牛乳配達員がヒーロー的な活躍をする場面もあって、実に楽しい。

 なお、山本はこの作品の後、フリーを主張。大映の社長の永田雅一と対立して袂を分かち、それ以来活躍の場を舞台に移し、映画に出られなくなったのは残念だ。何とかまだ元気なうちに銀幕に復帰してほしいものである。
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「ワンダラーズ」

2015-11-09 06:25:13 | 映画の感想(わ行)
 (原題:The Wanderers )79年作品。この頃一時的に流行った“不良少年映画”(?)の一本で、出来としては大したことはないのだが、いくつか興味深い箇所がある。その意味では“観る価値は無し”と片付けたくはない。

 63年のニューヨークのブロンクス。若造どもはそれぞれの人種ごとにグループを作り、互いに張り合っていた。その中でもイタリア系の“ワンダラーズ”は、誰しも一目置く存在だった。リーダーのリッチーは17歳ながら頭が切れて統率力があり、しかも二枚目だ。ある日、メンバーのジョーイとターキーが全員坊主頭の狂的な集団“フォルダム・ボルディーズ”に絡まれてピンチに陥ってしまう。絶体絶命の危機から二人を救ったのが、ペリーという大男だった。それがきっかけで、ペリーはワンダラーズの一員になる。



 ワンダラーズの面々は学校でも黒人グループと対立。あわや流血騒ぎになるところを、リッチーはギャングのボスに取りなしてくれるように依頼し、ケンカの代わりにフットボールの試合が行なわれることになったが、事はそう上手くは運ばなかった。

 監督は何本か秀作・快作を撮ったフィリップ・カウフマンだが、この映画での演出は平凡だ。キャラクターの描き方は奥行きが浅く、ドラマ展開もスムーズではない。活劇場面が優れているわけでもなく、各シークエンスは間延びしている。それでも観て損はないと思ったのは、まず当時のブロンクスの雰囲気が良く出ていたことだ。もちろんリアルタイムで知るはずもないが(笑)、たぶんこういう場所だったのだろうと納得させるだけのエクステリアを備えている。

 そして音楽の使い方の上手さ。お馴染みのディオンのヒット曲をはじめ、当時の楽曲が効果的に流れている。主演のケン・ウォールはなかなか良い面構えで、これ以後出演作が続くのだが、あるトラブルからキャリアが停滞してしまったのは残念である。ヒロイン役にカレン・アレンが出てくるが、この頃は初々しい。

 それにしても、後半にボルディーズの連中が海兵隊にスカウトされてしまうのには、何とも言えない気持ちになった。貧富の差が激しくなり、社会の底辺を這いつくばるしかない若造どもに用意されたのは兵役であったという不条理。これはいわば“経済的徴兵制”ではないだろうか。今も彼の国では似たような状況だろうし、この日本にもその構図は現出しようとしている。現政権の掲げる“一億総活躍社会”とは、ある意味これなのかもしれない。
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