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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「私をくいとめて」

2021-01-04 06:33:01 | 映画の感想(わ行)
 明らかな失敗作だ。何より、このネタで上映時間が2時間13分もあるというのは、絶対に無理筋である。余計なシーンが山ほどあり、素人目で見ても30分は削れる。さらにメインプロットは陳腐だし、演出テンポは悪いし、キャスティングに至っては呆れるしかない。プロデューサーはいったい何をやっていたのかと、文句の一つも言いたくなる。

 都内の大手企業に勤める黒田みつ子は、何年も恋人がおらず、気が付けば31歳で独り暮らしだ。しかし彼女は今の生活に満足している。なぜなら、みつ子は脳内に“A”という相談役みたいな人格を作り出し、話し相手になると共に的確なアドバイスを捻りだしてくれるからだ。

 ある日、みつ子は取引先の若手営業マンである多田に恋心を抱く。しかも多田はみつ子の近所に住んでいるのだ。ところが彼女は恋愛に御無沙汰で、しかも相手は年下ときているから、なかなか一歩が踏み出せない。それでも“A”の励ましもあって、何とか前に進もうとする。綿矢りさの同名小説の、大九明子がメガホンを取っての映画化だ。

 とにかく、みつ子が悶々と悩んでいるシーンが長いのには閉口する。架空人格の“A”との会話はあるのだが、それでも芸の無い一人芝居を長時間見せられるのは辛い。みつ子に扮するのは“のん”こと能年玲奈だが、彼女の演技は一本調子でメリハリが皆無だ。

 承知の通り、能年は事務所関係のトラブルによって長い間演技の仕事が出来なかった。俳優にとって最も経験を積んでおかなければならなかった時期を、棒に振ってしまったわけだ。気が付くと同じ「あまちゃん」組でも松岡茉優や有村架純に大きく差をつけられている。特に同じ原作者で同じ監督の「勝手にふるえてろ」(2017年)での松岡の演技と比べると、その開きは明白だ。

 さらに言えば、彼女はとても役柄の30歳過ぎには見えないし、多田に扮する林遣都の方が能年より年上である。みつ子の同級の親友である皐月を演じる橋本愛に至っては、まだ20歳代前半だ。まったくもって、このいい加減な配役には呆れるばかり。

 皐月に会うためにみつ子がわざわざイタリアまで足を運ぶシークエンスや、東京タワーで先輩のノゾミが好意を寄せている男に告白するの何だのといったくだりは、明らかに不要であり無駄に上映時間を積み上げるだけ。終盤の、みつ子と多田のアヴァンチュール(?)の場面も極めて冗長だ。みつ子が飛行機恐怖症だというモチーフも、何ら有効に機能していない。

 大九監督の仕事ぶりには覇気が見られず、「勝手にふるえてろ」のような思い切った仕掛けも無い。臼田あさ美に若林拓也、前野朋哉、山田真歩、片桐はいりなどの脇の面子もパッとしない。わずかに良かったのは“A”の声を担当する中村倫也と、女芸人の吉住ぐらいだ。バックに流れる大滝詠一の「君は天然色」が空しく響く。
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「ワンダーウォール 劇場版」

2020-09-27 06:11:33 | 映画の感想(わ行)
 元ネタは2018年にNHK BSプレミアムで放映された“京都発地域ドラマ”で、未公開カットなどを追加して2020年に劇場公開されている。上映時間は68分と短いが、モチーフ自体は興味深く、面白く鑑賞出来た。とはいえ、観る側が昔の学生気質のようなものを少しは理解していないと受け付けないかもしれない。

 京都にある京宮大学の学生寄宿舎・近衛寮は、建てられてから百年以上が経過しているが、歴代の学生たちによって守り続けられてきた。寮は自治会によって運営され、時には学校当局とも対立することもある。折しも学校側は寮の老朽化による建て替えを提案してきたが、当然ながら自治会は反発する。両者の膠着状態は数年間続き、学生部長の判断により寮の解体は一応棚上げになった。しかし、突然部長は大学を辞め、後任の者は自治会との交渉過程を全て反故にして寮生に立ち退きを通告してくる。



 前半、狂言回し役の学生“キューピー”が近衛寮に入るためこの大学を受験したことが示されるが、ハッキリ言って今どきこういう寮生活にあこがれる学生というのはかなりの少数派だろう。劇中で“近衛寮は変人ばかり”と言われているが、たぶん実際の古い学生寮というのは変人しか入居したいとは思わない。

 しかしながら、近衛寮の内実を見ると雑然とした独特の魅力があることが分かる。ここにしか住めない変わり者の学生も、確実に存在する。だが、本作のテーマは古い寮の再発見みたいなノスタルジックなものではない。後半、どうして学校側が寮の建て替えを画策したのか、その理由が示される。



 早い話が、大学当局は学生のことなど考えておらず、すべては打算なのだ。背景には、教育にカネを出さない国と緊縮指向の世間の風潮がある。そういう目先の経済優先の空気が大学教育を蔑ろにしてゆく、その構図を本作は批判している。前田悠希の演出は丁寧だが、終盤に“合奏シーン”を2回も挿入するのは余計だった。1回に絞って、残った時間は別のエピソードでも入れて欲しかった。

 須藤蓮に岡山天音、三村和敬、中崎敏、若葉竜也などの若手、そして山村紅葉や二口大学、成海璃子など、キャストは万全。なお、近衛寮のモデルになっているのは京都大学の吉田寮である。学生側と大学側との対立は長期にわたっており、ついには裁判沙汰にまで発展した。穏便な解決を望みたいところだ。
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「わが青春のフロレンス」

2020-02-23 06:29:51 | 映画の感想(わ行)
 (原題:Metello )70年イタリア作品。20世紀初頭のフィレンツェ(フロレンス)を舞台に、労働運動に身を投じた青年の、波乱万丈の日々を描いた社会派ドラマ。・・・・というのは表向きで、実相は苦労しながらも世の中を都合よく渡ってゆくプレイボーイ野郎の痛快一代記だ(笑)。当時はアイドル的な人気を集めていた歌手のマッシモ・ラニエリが主役で、彼の色男ぶりがとことん強調される作劇も微笑ましい。

 幼い頃に両親を亡くし、田舎に預けられて育ったメテロは17歳の時、養父母の元を離れて生まれ故郷のフィレンツェに戻ってきた。父の古い友人ベットの紹介で煉瓦工の仕事を始めるが、ベットは実はアナキストで、メテロは社会主義思想を彼から教え込まれる。メテロはやがて仕事上で知り合った未亡人のヴィオラと仲良くなる。彼は真剣に彼女と一緒になることを考え始めたものの、徴兵され3年あまり軍で過ごすことになる。



 兵役を終えてフィレンツェに帰った彼をヴィオラは迎えるが、彼女はすでにメテロの手の届かない立場に置かれていた。仕事に戻った彼の周囲では組合運動が激化し、会社側との間に衝突が繰り返されていた。事故で死んだベテラン社員の葬式に出席したメテロは、その娘エルシリアと出会い、心を奪われる。交際を経て彼女と結婚したメテロだが、やがてアパートの隣に住む人妻イディナと懇ろな中になる。

 20世紀はじめに芸術の都から工業都市へ変わりつつあるフィレンツェで、労働者として階級意識に目覚め、立ちはだかる資本家に戦いを挑む主人公の姿を“真面目に”追っていればそこそこ重量感のある歴史劇になったはずだが、どうにもメテロは下半身がだらしがない。ドラマはそんな彼の所業をネガティヴに扱うどころか、都合のいい時に都合のいい女が助けてくれるという、文字通り御都合主義の権化みたいな展開を大っぴらに提示する。

 ただし、それが全然欠点にはなっておらず、ヘタすると重苦しくなりがちな題材を、いい按配で“中和”してくれるという、怪我の功名みたいな様相を呈しており、けっこう楽しめる。マウロ・ボロニーニの演出は取り立てて上手いとは思えないが、主人公のキャラクターと丁寧な時代描写に助けられてボロを出さない。

 M・ラニエリは快演で、ヘヴィな境遇にあってもノンシャランにトラブルを回避してゆくメテロをうまく表現している。エルシリアに扮するオッタヴィア・ピッコロ、イディナ役のティナ・オーモン、ヴィオラを演じるルチア・ボゼーと女優陣はすべて美しく、この頃のイタリア女優の層の厚さを感じさせる。エンニオ・グァルニエリのカメラがとらえたフィレンツェの奥行きのある町並みは、作品に格調高さを与えている。そしてエンニオ・モリコーネによる映画音楽史上に残る名スコアが全編に渡って鳴り響き、鑑賞後の印象は決して悪いものではない。
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「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」

2019-09-30 06:25:08 | 映画の感想(わ行)

 (原題:ONCE UPON A TIME IN HOLLYWOOD )終盤のバイオレンスシーンこそ盛り上がるが、それ以外は何とも要領を得ない、平板な展開に終始。しかも上映時間が2時間41分。無駄なシークエンスも多く、題材にあまり興味の無い観客は、早々にマジメに鑑賞するのを諦めてしまうだろう。

 1969年のハリウッド。テレビの連続西部劇の主役で人気を得たものの、その後は悪役ばかりのリック・ダルトンは、将来に不安を抱き酒に溺れる毎日だった。そんな彼を、親友でありスタントマンのクリフ・ブースが支え続ける。リックの家の隣に越してきたのが、売り出し中の映画監督ロマン・ポランスキーと、その妻で若手女優のシャロン・テートだ。前途洋々に見える2人に対し、リックはジェラシーを覚える。

 だが、脇役として出た映画でのパフォーマンスが認められ、リックはマカロニ・ウエスタンの主演者として半年間イタリアで暮らすことになる。一方、ハリウッドにはヒッピー達も入り込むようになり、中でもチャールズ・マンソン率いる“ファミリー”は不穏な動きを見せていた。

 69年当時はリックみたいな境遇の俳優は少なくなかったと思われるが、それは今でも同じこと。役者稼業には“保証された確実な将来”なんてものは無い。クリフの立場はちょっと興味深いが、よく見るとリックとの関係性は十分描かれてはいない。この、あまり思ったほどキャラが立っていない2人が遭遇する出来事は、監督および脚本を担当したクエンティン・タランティーノにとっては思い入れがあるのかもしれないが、普遍性には欠ける。加えて、ドラマ運びが冗長かつメリハリが無い。盛り上がることもなく、時間ばかりが過ぎていくという感じだ。

 そして最も疑問に思ったのは、アメリカン・ニュー・シネマに対する言及がほとんど無いこと。69年には「イージー・ライダー」および「明日に向って撃て!」「真夜中のカーボーイ」が作られ、「俺たちに明日はない」や「卒業」は前年までに公開済だった。タラン氏はこういった作品群には興味が無いのかもしれないが、映画ファンとしては不満が残る。

 シャロン・テート事件に関するラスト近くの扱いはアッと驚く展開で、暴力描写も冴え渡っているが、ここに至る過程が退屈な小ネタの連続では、いい加減面倒くさくなる。

 主演のレオナルド・ディカプリオとブラッド・ピットは、まあ“いつも通り”で、特筆するようなものはない。アル・パチーノやブルース・ダーン、カート・ラッセルといった面子も単なる“顔見せ”だ。しかし、シャロン役のマーゴット・ロビーは良かった。たぶん実際にシャロンはこういう人だったのだろうという、説得力がある。マンソンの一味に扮するマーガレット・クアリーとダコタ・ファニングも良い味を出している。

 そして一番のハイライト(?)は、撮影所でリックを励ましていた子役の女優を演じたジュリア・バターズだ。現時点でまだ10歳だが、ノーブルな容貌と達者な立ち振る舞いに驚くばかり。子供の頃のD・ファニングよりもインパクトが大きい(笑)。
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「ワイルド・スピード スーパーコンボ」

2019-09-15 06:59:07 | 映画の感想(わ行)
 (原題:FAST & FURIOUS PRESENTS:HOBBS & SHAW)数多く作られている「ワイルド・スピード」のシリーズは、今まで一本も観たことがなかったが、本作はスピンオフとして“単品でも楽しめる”という評判を耳にしたので、劇場に足を運んでみた。そして、後悔した(笑)。とにかく大味で、キレもコクも無い。何となく、マイケル・ベイ監督の諸作を思い出してしまった。

 米DSS捜査官のルーク・ホブスは、ロスアンジェルスで娘と静かな暮らしを送っていた。一方、MI6に在籍していた元特殊部隊員デッカード・ショウはロンドンでの優雅な日々を満喫していた。そんな2人のもとに米英双方の政府から要請が来る。内容は、消息を絶ったMI6の女性エージェントのハッティを見つけて保護せよというものだ。



 ハッティはテロ組織から危険な新型ウイルスを奪うことに成功するが、ブリクストン率いる組織の戦闘員に追い詰められ、ウイルスを自分の身体に“注入”したまま姿を消したらしい。しかも、彼女はデッカードの妹である。ルークとデッカードは犬猿の仲らしいのだが、やむなく手を組む。そんな2人の前に立ちはだかるブリクストンは、サイボーグ化によって超人的な力を手に入れていた。ルークの出身地であるサモアで、最終的な一大バトルが展開する。

 主人公2人の起床時から“仕事”に出掛けるまでを平行して描く、冒頭の処理は良かった。これならば“一見さん”でもキャラクターの設定は分かる。しかし、その後は話にならない。

 敵の組織の目的が、殺人ウイルスで世界中の無能な人間を全て抹殺し、自分達だけで理想社会を作るの何のというシロモノだが、これは今どきアメコミの映画化作品でも恥ずかしくて採用しないような子供っぽいネタだ。ハッティはウイルスが体内に入っているのだが、なぜか“時間内であれば体外へ抽出可能”という笑える設定(せめてワクチンの存在ぐらい示して欲しかった ^^;)。しかも、抽出作業中でも元気に暴れ回ったりする。

 ルークとデッカードの会話シーンはグダクダな上に長い。そしてアクション場面もそれに呼応するように、締まりが無い。どの場面もCG合成が丸分かりだ。そもそも効果的なアクションシーンというのは、リアリティが介在するギリギリのところを狙ってこそ成立する。本作のように、最初から何でもアリの脳天気な仕掛けばかりでは、観る側も鼻白むばかり。

 デイヴィッド・リーチの演出は「デッドプール2」(2018年)より随分とヴォルテージが低く、盛り上がりに欠ける。主演のドウェイン・ジョンソンとジェイソン・ステイサムの演技は、まあいつも通りで特筆するべきもの無し。敵役のイドリス・エルバもただのキン肉野郎で、凄みに欠ける。ただ、ハッティ役のヴァネッサ・カービーだけは「ミッション:インポッシブル フォールアウト」(2018年)に続いて良かった。
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「ワイルドシングス」

2018-09-07 06:27:32 | 映画の感想(わ行)
 (原題:WILD THINGS )98年作品。本国では興行的成功を収めてシリーズ化され、この後に“続編”としてビデオムービーが3本作られているらしい。それらは観ていないが、この“本編”が評価出来ないことは確かだ。とにかく、サスペンス映画としては軽量級に過ぎる。まあ、言い換えれば内容が軽いから、いくらでも同パターンの作品が量産出来るということなのだろう。

 フロリダ州にある港町ブルーベイで、高校教師のサムが女子生徒のケリーからレイプされたと訴えられる。たまたまケリーの母サンドラが地元のセレブでかなりの金持ちであったことから、町は大騒ぎになる。身に覚えの無いサムは、法廷で徹底的に争うことを決意。その頃、地元警察の刑事レイは、ケリーの同級生スージーも以前サムに暴行されていたことを突き止める。

 サムは不利な状況に置かれるが、実はスージーが偽証を行っていることが判明。さらにケリーの一件も狂言であったことが分かり、サムの無実が確定。彼は多額の示談金を得ることが出来た。しかし、納得出来ないレイは捜査を継続。やがて“意外な真相”が浮かび上がる。

 この映画の売り物は、中盤以降に頻繁に起こるドンデン返しである。誰と誰が仕組んでいたのかが分かった途端、また別の企みが発覚するというパターンが延々と繰り返されるが、こう何度も実行されるといい加減面倒臭くなってくる。そもそも、ドンデン返しというのはひとつの作品の中で一回か二回程度展開されるからこそインパクトがあるのだ。

 また、ドンデン返しが何回も可能だということは、それだけ各キャラクターの掘り下げが浅いということだ。登場人物がどういう性格で、どういうポリシーを持っているのかシッカリと描いていれば、安易なプロットの“ちゃぶ台返し”は起こり得ない。本作は出てくる連中を単なる“駒”扱いして、良い様に動かしているだけだろう。

 ジョン・マクノートンの演出は安手のTVドラマ並に平板。キレもコクも無い。主演のケヴィン・ベーコンとマット・ディロンは、言うまでも無く80年代の青春スターだったが、ここでは薄い演技を強いられているのが観ていて辛い。ネーヴ・キャンベルとデニース・リチャーズの女子2人は語る価値も無し。脇にテレサ・ラッセルやロバート・ワグナー、ビル・マーレイといったベテランが控えていたが、彼らを主役に据えた方が面白い結果になったかもしれない。
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「私の人生なのに」

2018-08-13 06:35:46 | 映画の感想(わ行)

 設定だけ見れば典型的な“お涙頂戴の難病もの”のようだが、内容はとても丁寧に撮られた佳作だ。作品のクォリティはもとより、観ていて人生の在り方について考えさせるほどの求心力を持ち合わせている。観て損は無い。

 体育大学に籍を置き、新体操のエースとして期待されていた瑞穂は、ある日練習中に倒れてしまう。病院に担ぎ込まれた彼女は、脊髄梗塞と診断され、下半身がマヒ。車椅子での生活を余儀なくされる。絶望に打ちひしがれる瑞穂だったが、両親や友人達、指導教官らの励ましを受け、何とか落ち着きを取り戻そうとする。

 ある日、瑞穂は幼馴染みの淳之介と再会する。彼は中学生の頃に北海道に転校していたが、親とは理不尽な別れを強いられ、ストリートミュージシャンとして生きている。瑞穂の窮状を知った淳之介は、この町に舞い戻ってきたのだ。彼は瑞穂に一緒に音楽をやろうと持ちかける。最初は戸惑う彼女だが、彼の熱意に次第に心を動かされる。東きゆうと清智英による同名ライトノベルの映画化だ。

 災難に遭ったヒロインは、それでも恵まれた環境にいることは間違いない。両親とも良く出来た人物で、決して金に困っているような家庭でもない。友人達は協力的で、学校の教員も何かと世話を焼いてくれる。だが、このシチュエーションは御都合主義には見えない。それは、一方でシビアな淳之介の境遇を配置していて、作劇のバランスが取られているからだ。

 彼の父親は不動産取引に失敗して、妻には逃げられた挙げ句に、自分は行方をくらます。家族も住む場所もない彼にあるのは歌だけだ。ここには、不幸は誰にでも襲いかかってくるものだという作者の達観が見て取れる。そして、そこから再出発できる可能性も、また確固として万遍なく存在していることも描いている。

 瑞穂と同じようなハンディを負った女性が“誰でも人生の最後にはすべてを失って終わってしまう。私たちの場合は、その一部を失う時期が早かっただけだ”と言うが、これは心に染みた。また、淳之介の“たとえ身体は不自由でも、歌には自由がある”というセリフも良い。音楽の何たるかを的確に表現している。

 原桂之介の演出は正攻法に見えて、瑞穂と淳之介が並んで歩くシーンを手持ちカメラの長回しで粘り強く捉えるなど、随所に思い切った施策を取り入れているのは見上げたものだ。

 そして、何といっても本作を引っ張るのは主演の知英の大健闘である。セリフ回しはまだ拙い箇所もあるが、表情の豊かさには感服するしか無い。これだけ喜怒哀楽を無理なく表現出来る人材は、同じ二十代の日本の女優陣を見渡してもあまり見当たらない。加えて、冒頭の新体操の場面や車椅子を自在に扱うくだりを見ても、身体能力の高さが存分に印象付けられる。コンスタントに演技の仕事が入っているのも納得できる。

 相手役の稲葉友はこちらも逸材で、ピュアでナイーヴな持ち味が光る。落合モトキや高橋洋、赤間麻里子などの脇の面子の仕事も的確だ。
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「ワンダー 君は太陽」

2018-08-04 06:17:20 | 映画の感想(わ行)
 (原題:WONDER)あまりにも御都合主義的な設定とストーリー展開には呆れたが、作劇は工夫されており、キャストの好演もあって鑑賞後の印象はそれほど悪くない。観客のウケも良く、長期の公開になっているのも納得だ。

 ニューヨークで暮らす10歳のオギー・プルマンは、生まれつきのハンディキャップ(トリーチャーコリンズ症候群)によって顔の形が変形しており、何度も手術を受け、長らく療養生活を送っていた。やっと容態が安定したオギーは、初めて学校に通うようになる。しかし、クラスメートたちの偏見の目はかなり厳しく、シビアな現実に打ちのめされて塞ぎ込んでしまう。それでも何人かの友人を得て、家族の支えもあって前向きに努力するようになる。やがてオギーの外観に対して違和感を抱いていた他の生徒も、彼の存在を認めるようになるのだった。R・J・パラシオによる小説の映画化だ。



 オギーは見かけこそ超ユニークだが、もとより性格が良くて頭も良い。そしてポジティヴで勇敢だ。両親は仲が良く、いつも息子を応援している。クラスメートにはイジメっ子もいるが、大半の者は善良である。教師陣も出来た人物ばかり。オギーがピンチに陥っても、誰かがタイミング良く救いの手を差し伸べてくれる。斯様に“都合の良い”設定で、話もいたずらに主人公に重大な試練を与えずにスンナリと進む。

 ただ、それだけの映画だったら退屈極まりない展開になっていたところだが、オギーを取り巻く人物達を独自に掘り下げることによって、作劇に深みが出てきた。具体的にはオギーの高校生の姉であるヴィア、その友人のミランダ、そしてオギーの友人になるジャックの3人だ。

 題名通りオギーは太陽のように人を惹き付けるが、その影に隠れて微妙な屈託を抱いてる者達をクローズアップさせるという作戦には感心した。特に、随分前からプルマン家と交流を持ちながら、自身は家庭環境に恵まれずにヴィアと距離を置くようになったミランダの境遇には同情してしまう。



 スティーヴン・チョボスキーの演出はこれ見よがしなケレンを抑え、ソツがなくスムーズにドラマを進めていく。両親に扮したジュリア・ロバーツとオーウェン・ウィルソンは、正直大したことは無い。ある程度の演技力があれば、誰でもこなせる役柄だ。それよりも、オギー役のジェイコブ・トレンブレイの芸達者ぶりには感服する。「ルーム」(2015年)に続いて良い仕事をしていると思う。

 脇のキャストでは、ヴィア役のイザベラ・ヴィドヴィッチ、そのボーイフレンドを演じるナジ・ジーター、そしてミランダ役のダニエル・ローズ・ラッセルの3人の若手が要注目だ。これからキャリアを追ってみたくなる魅力がある。ドン・バージェスのカメラによる、透明感のあるニューヨークの情景。マーセロ・ザーヴォスの音楽も良い。
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「ワンダーランド駅で」

2018-07-15 06:24:23 | 映画の感想(わ行)
 (原題:Next Stop Wonderland)98年作品。ウィットに富んだ小粋な大人のラブコメの線を狙ってはいるが、作者の力量がイマイチであるためか、物足りない出来に終わっている。上映時間が96分と短いにも関わらず、かなり長く感じてしまった。

 恋人に振られてしまったエリンは傷心の真っただ中にあったが、それを見かねた母親が、勝手にエリンの名前で恋人募集の広告を出してしまう。早速数十件の応募があるが、彼女はどれもピンと来ない、一方、配管工をしながら大学のカリキュラムを履修しているアランも、その広告を目にする。彼の悪友どもはエリンの彼氏候補として名乗りを上げろと囃し立てるが、アランにその気はない。なぜなら彼は、大学で一緒に学んでいるジュリーと交際中だったからだ。



 その頃エリンは広告の効果が思いのほか小さいことに落胆していたが、そんな彼女の前に優しい二枚目のブラジル人アンドレが現れる。エリンは彼に誘われ、ついにはブラジル行きの航空券を手にしてしまう。

 ハナからネタバレするようで恐縮だが、これは主人公たちが出会うまでを描いた映画である。だから、終盤を除いてエリンとアランは顔を合わせることはない。その設定だけ見れば、気が利いているようにも思えるのだが、どうにも作劇がパッとしない。

 ブラッド・アンダーソンの演出は冗長で、登場人物の内面にも迫っていないが、それをドキュメンタリータッチの“自然な”撮り方でカバー出来ると思い込んでいるらしい点が何とも浅はかだ。含蓄のあるセリフを散りばめて求心力を上げようとするものの、どれも上滑りしている。

 そもそも、ボストンを舞台にしたアメリカ映画という事実と、手持ちカメラおよびボサノヴァ音楽というインディ的テイストが悲しいほど合っていない。このコンテンツならアメリカ映画である必要はなく、フランス映画でも観ていればいい。これが長編第二作目だったブラッド・アンダーソンの仕事ぶりは低調だが、その後彼は娯楽路線(それもB級)に転じたことを考え合わせると、こういうネタは合っていないかったのだろう。

 主演のホープ・デイヴィスとアラン・ゲルファン、そしてヴィクター・アルゴ、ジョン・ベンジャミン、カーラ・ブオノといったキャスト陣はあまり印象に残らず。クラウディオ・ラガッツィの音楽は、映画抜きの“単品”ならば評価できる。
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「ワーキング・ガール」

2018-04-13 06:29:59 | 映画の感想(わ行)

 (原題:Working Girl)88年作品。軽妙なコメディなから、働く女性を主人公にした映画では上質の部類である。一つ間違えば昔のトレンディ・ドラマのような底の浅さを露呈するような物語の構図だが、キャストの敢闘と名人芸的な演出により、幅広い観客にアピールする内容に仕上がった。また、時代を感じさせるエクステリアも興味深い。

 ニューヨークの投資銀行に勤務するテスは、仕事熱心で努力家だが、低学歴なので会社からはなかなか認めてもらえない。それどころか日々受けるセクハラに悩まされていた。そんな彼女の新しい上司キャサリンは、テスと同世代ながら有名大学卒で幹部候補生だった。一見テスにフランクに接するキャサリンだが、その実テスを軽く扱っていた。

 そんな中、キャサリンがスキーで骨折し、その間テスは彼女の留守を守ることになる。テスがキャサリンの仕事のファイルをチェックしていると、以前自分が提案したアイデアが流用されていることが分かる。不愉快な気分になる一方で大いに発奮したテスは、取引先の関係者ジャックと接触し、M&A事業を独自に進めていく。

 テスとジャックは、一緒に仕事をするうちに急接近するという筋書きは予想通り。ジャックは元々キャサリンと付き合っていたが、とっくの昔に彼は熱が冷めていて別れを切り出すばかりだったという設定も含め、ラブコメの王道路線が展開する。ただしそれらが全然あざとく見えないのは、各キャラクターに愛嬌があるからだ。

 頑張り屋のテスは応援したくなる。演じるメラニー・グリフィスは快調で、したたかな女をチャーミングに見せる。特に半裸で部屋の掃除をする場面は最高だ(笑)。キャサリンに扮するのはシガニー・ウィーバーだが、アグレッシヴでどこか抜けているキャリアウーマンを楽しそうに演じる。ジャック役のハリソン・フォードが珍しく“二枚目キャラ”に徹しているのも面白い。ケヴィン・スペイシーやジョーン・キューザック、アレック・ボールドウィンといった脇の面子も万全だ。

 マイク・ニコルズの演出はスムーズで淀みが無く、カーリー・サイモンによる有名な主題歌も効果的だ。女性陣の80年代らしい厳ついファッションには笑ってしまうが、予定調和ながら屈託のない作劇とエンディングが罷り通ってしまうのもこの時代らしい。本当にあの頃は良かったなァ(・・・・と、心ならずも年よりじみたコメントを残してしまった ^^;)。
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