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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ユリシーズの瞳」

2008-08-29 06:39:22 | 映画の感想(や行)
 (原題:To Vlemma Tou Odyssea )96年フランス=イタリア合作。バルカン半島で最初に撮ったとされるマナキス兄弟の作品で、しかも未現像で陽の目を見ないフィルムを探すため、現在はアメリカに住み35年ぶりに故郷ギリシアに戻ってきた映画監督(ハーヴェイ・カイテル)の旅を描く。ギリシアの異能テオ・アンゲロプロス作品で、その年のカンヌ映画祭銀賞など多くの賞を獲得した3時間の大作。

 はっきり言ってしまおう。私はさほど面白いとは思わない。理由は簡単で“当事者意識のほんの少しの後退”というものだ。アンゲロプロスのような先鋭的作家は、その“ほんの少し”が大問題なのだ。70年代後半に撮った「旅芸人の記録」と「アレキサンダー大王」がなぜあれほど衝撃的だったか。それは時間と空間を超越した大胆な映像手法はもちろんだが、それよりも歴史に翻弄される市井の人々の赤裸々な姿を容赦なく捉えたからだ。切迫した作者のパッションが登場人物の姿を借りて画面を横溢したからである。映像技巧はあくまでも手段に過ぎない。

 対してこの作品はどうか。主人公はギリシア人とはいっても故郷を長く離れた異邦人であり、しかも彼の目的は失われたフィルムを探すことだ。彼はアルバニアからルーマニア、新ユーゴ、ボスニアなど、ヘヴィな状況の場所を旅する。住民の悲惨な境遇も目の当たりにする。でも・・・・。

 彼は部外者だと思う。この現実を前にして、失われたフィルムを探すことに何か意味があるのだろうか。たぶん、映画黎明期の作家が撮ったフィルム(冒頭に紹介される)の、初めて撮る者と撮られる者の意志の交流による、原初的である意味“幸福”な光景と、現在のバルカン半島のシビアな状況とのコントラストを狙っているのだろう。あるいは“原点”を求める映画監督の内省的スタンスを綴ったのかもしれない。しかし、その程度では何ら私の心は揺さぶられない。単なる旅行者の勝手な思い込み、と片付けられても仕方がない。

 対して、主人公の少年時代を描くエピソードは見事だ。1944年から49年までの一家の苦難がワン・カットで(!)描かれるシーンは、彼自身が歴史の証人となり物語の中心になる瞬間である。ただ、映画の中で良かったのはここだけだ。主人公を取り巻く女たち(マヤ・モルゲンステルン4役)の扱いや、ラストのサラエボでの悲劇は、それなりの思い入れがあって撮ったのだろうが、非常に図式的で感心しない。作者の“傍観者ぶり”が目立つばかりだ。

 困ったことに、昔は革新的に見えた彼の手法(極端な長廻しと時空間のランダムアクセス)が、今回はマンネリとも感じてしまう。加えてその後「ビフォア・ザ・レイン」とか「アンダーグラウンド」とかいった真に現在進行形のスルドイ映画が輩出したせいもあり、この当時のアンゲロプロスの位置は“一歩引いた”ものと思われても仕方がない。
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「闇の子供たち」

2008-08-26 07:39:55 | 映画の感想(や行)

 原作よりはまとまった出来だと思う。ただしこれは映画として上出来であるという意味ではない。梁石日による元ネタは児童虐待問題の告発に名を借りたエロ小説に過ぎないと思う。必要以上に分量の多い子供相手の性描写には閉口するしかないし、政情不穏なタイの状況とラスト近くに取って付けたような筆者の出自に対する屈託を織り込み、何とか体裁を整えているような書物である。

 対してこの映画化作品は原作では脇役に近かったタイ在住の新聞記者を主人公に置き、彼と知り合うフリーカメラマン、そしてNGO職員として日本からやってきた若い女といった、日本人を主要登場人物として扱っている。これは日本映画においてどんなに努力しても違和感を完全に拭えない“外国人に対する描写”を回避する上で賢明だったと思う。原作通りにタイ側の人間たちを深く突っ込んでいたら、ドラマが浮いたものになっていた可能性が大だ。そもそも現地の側から描くのならばそれはタイ映画の仕事だろう。

 中盤までの各キャラクターの設定は申し分ない。悲惨な状況を憂慮しつつも新聞屋としての立場を貫く記者、現地の惨状を見てそれまでの浮ついた気持ちを改め仕事に専念するカメラマン、手前勝手な“自分探し”のためにボランティアに参加し夜郎自大な態度を隠さない女、さらに難病に苦しむ息子のために臓器移植の真相を知りつつも闇ルートに大金を払い込む日本のビジネスマンなど、それぞれの役柄を踏み出さない範囲でテーマの深刻さに接してゆくという作劇のスキームは申し分ない。

 しかし、こういう題材を扱わせるとどうも自らのサヨク的体質が疼き出すらしい阪本順治の監督作のためか、終盤近くになると“語るに落ちる”ような図式が鼻についてくる。特に記者の“過去”が暴かれるくだりは、それまで何の暗示も明示もなく、取って付けたような感じだ。ボランティアねーちゃんの扱いもヘンに及び腰で、こういう素材にこそシビアな切り口が用意されるべきだったと思う。終わってみれば“タイの憂うべき状況を生んだのは先進国で、特に日本がイケナイ”といった自虐的スタンスの映画といった印象が強い。タイ映画界が同様のネタを取り上げれば、もっと地に足が付いたものに仕上がっていたと思う。

 記者役の江口洋介は一本気な熱血漢を(終盤を除いて)好演しているし、世間知らずな小娘に扮した宮崎あおいも上手い。映画での彼女はこういう“愚かな女”を演じさせると絶品だ。妻夫木聡や佐藤浩市も申し分ない。ただし、それらを最後まで活かす作劇の詰めが足りないのは確か。惜しい映画だと思う。なお、桑田佳祐によるエンディング・テーマは完全に場違いだ。製作側のセンスを疑いたい。
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「靖国 YASUKUNI」

2008-07-31 06:29:32 | 映画の感想(や行)

 ひとこと、くだらない。まさに箸にも棒にもかからない駄作だ。最初に断っておくが、反日だ何だという巷のイデオロギー面での論議なんかまったく興味がない。映画は娯楽である限り“面白いか、面白くないか”が唯一の評価基準となる。右だろうが左だろうが、はたまた斜め後方だろうが(?)、そんなことは眼中にはない。本作はまったく面白くないし、そもそも作り手は“面白くしてやろう”とも思ってはいないのだ。その意味では、この映画には存在価値さえないと思う。

 メインとなる素材は靖国神社に日本刀を奉納していた老刀匠である。映画は彼の仕事ぶりを紹介すると共に、長い時間を割いてインタビュー場面を映し出す。しかし、そこでは何も語られない。元より寡黙な彼の口から重要な言質を取ろうとする工夫さえもない。ただ質問して、それに対して考えている彼の顔を大写しにするだけ。

 本当は、おそらく彼のような刀匠が作った日本刀が軍属に渡り、それが戦場で使われたことについてのコメントを得たいのだろう。あえて指摘すれば、南京事件の“百人斬り競争”なんかに関係するようなことを言ってもらいたいのかもしれない。しかし、相手は“大人”だから、そう簡単に問題発言をするはずもない。挙げ句の果てに“じゃあ、そっちはどう思う?”と逆に質問されて口ごもる始末。この映画の作者は、靖国神社に縁が深い刀匠にまで会いに行って、いったい何をしているのか。平易な質問を並べて、相手の顔を撮っているだけならば、誰でも出来る。

 映画は8月15日の境内の風景を映し出す。軍服姿などの濃い面々が大挙集合してなかなか興味深いが、言うまでもなくこれは映画の“手柄”ではない。当日当所にカメラを置いてただ回しているだけだ。本作を観るよりは実際8月15日に靖国に行った方が数段面白い体験が出来るだろう。逆に言えば、その日に彼の地で撮影を敢行すれば、誰だって撮れる絵である。

 この李纓とかいう中国人監督は、マイケル・ムーアや原一男の爪の垢でも煎じて飲んだらどうなのか。たとえば、靖国神社の宮司に夜討ち朝駆けのアポなし突撃取材を行い、刺激的なコメントを取るぐらいのことをやってみろ。誰にでも取れる映像を漫然と流すことしか出来ないで、何がドキュメンタリー作家だ。何がカツドウ屋だ。恥を知れ。

 しかも、ラスト近くにはニュース映像を反日テイストたっぷりにコラージュしてお茶を濁す始末。御丁寧にナチス・ドイツのユダヤ人迫害からインスピレーションを受けたグレツキの交響曲第3番をバックに流し、旧日本軍の所業をナチスと同レベルで扱おうという、あまりアタマのよろしくない意図さえ透けてみせる。そういう取って付けた“語るに落ちる”ようなマネはやめてほしい。

 なお、映画の冒頭に“靖国神社の御神体は日本刀である”とのテロップが流れるが、これは正しくはない。明治44年に靖国神社が正式に発行した「靖国神社誌」に所収されている「祭神・附御霊代」には“御霊代は神剣および神鏡である”と明記されており、どこにも“日本刀オンリーだ”とは謳っていない(付け加えると、剣と日本刀は同一のものではないだろう)。こんな調べればすぐに分かることさえやっていない作者の怠慢さには呆れるばかりだ。

 いずれにしても、この無能監督に何も考えずに国民の血税を進呈した文化庁の体たらくは批判されてしかるべきだろう。そんなカネがあるのなら、自分の国の映画作家の育成に回すべきだ。
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「夢がほんとに」

2008-06-22 06:45:38 | 映画の感想(や行)
 96年のアジアフォーカス福岡映画祭で観たイラン映画。マスコミ関係の会社に勤めるサデグ(パービズ・パラスラツイ)の妻は、ここ数日間“夫が沙漠で戦死してしまう”夢を見てうなされていた。折しもサデグは自宅の建設費用を調達するため、気の進まないイラン=イラク戦争の取材に出かけるハメになる。同行するベテラン戦場カメラマンのキャマリ(アームド・アジ)の御機嫌を取るため、あたかも前線に出て取材したくてたまらないような素振りをするサデグだが、本心はもちろん戦場なんてまっぴらで、テヘランに帰りたくてたまらない。

 ところが、自動車の部品を隠したり仮病を使ったりして前線から遠ざかろうとすればするほど、なぜか戦場へどんどん近づいていく。気がつけば妻の見る夢とまったく同じ状況に置かれてしまったサデグ。果たして夢の通り悲惨な最期を遂げてしまうのか。監督はドキュメンタリー出身で若手のキャマル・タブリジ。

 製作当時はイ・イ戦争が終わってまだ日が浅いにもかかわらず、あの戦争をネタにしたコメディが作られたことは驚きだ。しかも、単に戦争を笑い飛ばそうとするだけではなく、シリアスな戦争ものとは違った視点で戦争の真実を明らかにしようとする、けっこう野心的な作品でもある。たとえは悪いが岡本喜八の「独立愚連隊」あたりと近いものがあるかもしれない。

 偶然が重なって、主人公の意に反する境遇にズルズルと追い込まれていくブラックなギャグの盛り上げ方はうまい。特に、戦争嫌いなのに周囲から“戦場の危険を顧みない突撃リポーター”と思われて本人もそれを否定できない状況や、爆風で道路の立て札がムチャクチャになり、それを知らない主人公が道を間違えてヤバい場所に行き着くあたりはかなり笑えた。

 とうとう最前線どころか敵の領地の中に孤立するサデグ。押し寄せるイラク軍戦車を対戦車砲ひとつで何とか撃退した時、彼は初めて戦争の悲惨さを知る。また“戦場に行った”という事実だけで手の平を返したように態度を変える周囲の人々の浅はかさをも実感する。ラスト、今度は本気で戦争の取材に行って真実を伝えようと決心する主人公にはある種の感慨さえ覚えてしまう。

 ウディ・アレンにも通じるパラスツイの小心者演技は絶品。それにしても“アラーの御加護によって難を逃れた”と言う主人公だが、対するイラクだってイスラム教国。同じ宗教を信じる者同士が争う不条理さを感じずにはいられない。
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「山桜」

2008-06-14 07:52:40 | 映画の感想(や行)

 藤沢周平の小説でお馴染みの庄内平野に広がる海坂藩の状況が、今の日本と酷似しているのにはびっくりした。豪農どもと結託した重臣が、財政危機を打破するために新田の開発を画策。その財源として年貢や税金の利率を大幅に上げようとしている。財政赤字額を“国民一人当たりウン百万円の借金!”とばかりに煽り立て、国民には負担増を押しつけ、その裏では政界と財界と官界がグルになって我が世の春を謳歌するという、現在の日本経済の実情とまったく一緒である。時代劇とはいえ、時事ネタにしっかりと向き合った姿勢は評価したい。

 さて、同じ藤沢文学の映画化でも山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」や「武士の一分(いちぶん)」とは違い、柔らかい雰囲気が横溢しているのは、主人公を女性に設定しているからだろう。ヒロインは中堅武士の娘・野江。最初の結婚相手には早々に死なれ、再婚相手は金儲けにしか興味のない男。しかも義理の父母は低劣な俗物で、彼女は手ひどいイジメに遭っている。

 今は亡き叔母の墓参りに行った折、かつての縁談の話がありながら彼女の些細な拘りのために一緒になれなかった弥一郎(東山紀之)と出会う。いまだ独身だという彼に心をときめかす野江。正義感の強い弥一郎は義憤に駆られて藩の不正に立ち向かうが、普段の藤沢作品ではそっちの方をメインにするはずが、カメラは野江の方を向いたままだ。

 彼の一本気な生き方を再見するに及び、つまらない気の迷いで本命の男を逃し、意に添わない結婚に甘んじてしまった自らの不明をハッキリと自覚する野江。そしてやっと自分の意志で人生を歩み始めることを決意する。本作は社会派映画であると同時に女性映画でもあったのだ。

 彼女が辛い日々に埋没したままではなかったのは、親切な使用人達との交流や彼女の実家の温かさがあったからだが、それらが徐々に彼女の心理状態に影響を及ぼしてゆくプロセスをしっかりと描く。弥一郎の所業の正しさを信じきった上での、ラストの彼女の行動には無理が感じられず、しっとりとした感動を呼ぶ。

 野江に扮する田中麗奈は好演で、いつもの元気一杯の役柄ではないが、しっかりとした眼差しと凛とした姿勢がヒロイン像を上手く体現していた。野江の両親役の篠田三郎と檀ふみをはじめ富司純子、永島暎子など、脇を固めるキャストも言うことなし。

 篠原哲雄の演出は丁寧で、山田洋次ほどの底力はないことを自覚してか、ケレン味のない正攻法に徹している。パステルカラーを主体とした映像および衣装デザインの美しさ。特に冒頭の野江と弥一郎が再会するシーンのバックにそびえる満開の山桜は、見事と言うしかない。
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「山のあなた 徳市の恋」

2008-06-09 06:31:13 | 映画の感想(や行)

 製作意図がさっぱり見えない映画である。本作の“元ネタ”になる清水宏監督による昭和13年製作の「按摩と女」には某映画祭で接したことがあるが、正直言ってあまり上等なシャシンではない。今ではお目にかかれない身体障害者をネタにしたギャグが興味深かった程度で、出来としては水準の人情コメディである。これをなぜ今になってリメイクしなければならないのか、最後まで納得できるようなモチーフにはお目にかかれなかった。

 山の温泉場で仕事に励む徳市という盲目の按摩が、東京から来た何やら訳ありの若い女を気にかけるうちに、淡い恋心を覚えてしまうという設定だが、ストーリーは典型的プログラム・ピクチュアであった原作をなぞっているため、筋書きでの面白味はない。ならば斬新な演出が成されているかといえば、まったくそうではない。あくまでも“元ネタ”に準拠しているだけだ。

 キャスト陣が目を見張るような快演を披露しているわけでもない。徳市に扮する草なぎ剛をはじめ、加瀬亮や堤真一、三浦友和といった脇を固める面々も、まあ予想通りの仕事ぶりである。ヒロイン役のマイコとかいう新人に至っては、見かけこそ純和風の美人で絵にはなるが、演技面では“脚本通りやりました”というレベルで話にならないし、もちろん魅力なんて感じられない。

 監督は石井克人である。彼は怪作「鮫肌男と桃尻女」(99年)で大いに観客を湧かせたものの、続く「PARTY7」(00年)は「鮫肌~」の二番煎じみたいなスタイルで何とか場を保たせた感が強かった。そして2003年に撮った「茶の味」は打って変わった静かな田園劇(?)で驚かせたが、内容の薄さは如何ともし難かった。この「山のあなた 徳市の恋」はもちろん外見面では「茶の味」の路線を踏襲したものだが、昔の映画の忠実なリメイクである以上、作家性を出す余地は限りなく小さい。

 あえて言えば彼の作家性なんて「鮫肌~」で見せたドタバタ劇以上のものは(今のところ)存在しないと思う。かなり意地悪な見方をすれば、彼は自分の作家表現の“引き出し”が小さいことに気づき、でもそれを見透かされないように旧作の再映画化という題材でこの場を凌いだのでは・・・・とも思える。

 ホメるべき点を一つだけあげるとすれば、映像の美しさだろう。初夏の伊豆の風景は、森林浴でもしたくなるほど清々しい。環境ビデオみたいな楽しみ方は、あると言えるかもしれない。
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「やわらかい手」

2008-03-20 07:03:05 | 映画の感想(や行)

 (原題:IRINA PALM)実にまとまりの良い佳編である。ロンドンの下町に住む平凡な老女が難病に苦しむ孫のために、何と性風俗店で“手コキ”の職を得て、しかも売れっ子になり、その“天職”を得た本人も人生に改めて向き合うことになるという、ある意味出来過ぎの話を映像化するにあたって最も注意すべきは、余計な描写を入れないことだ。

 要するにボロの出ないうちにサッと切り上げる、それが大事である。その意味で本作の上映時間が1時間43分というのは及第点。これがアメリカ映画ならば、ヒロインの過去の回想場面とか、アクの強い脇のキャストによる“個人芸”などで2時間あまりに水増しされているところだ(笑)。

 正直言って、このドラマを観て“人生、いくつになっても自分の役割はある”と本気で思うわけにはいかない。現実は厳しく、老いたる者にとっては確実に居場所が狭くなってくる。だが、少なくとも映画を観ている間だけは希望を持たせたポジティヴな感覚を味あわせることが、カツドウ屋としての使命だろう。そのためにはキャスティングには絶対に手を抜けない。そこにいるだけで、ヒロインのような生き方を実体化させてしまうような素材が必要だ。

 その意味でマリアンヌ・フェイスフルの起用は大成功だった。一見して地味で太めで垢抜けない容貌だが、性根の座った眼差しと、目的のためならばどんなことでも厭わない不貞不貞しさ、そしてその裏に何ともいえぬ色香と愛嬌が漂う。さすが若い頃のミック・ジャガーとの浮き名をはじめ波瀾万丈の人生を送った彼女ならではの貫禄だ。

 監督のサム・ガルバルスキは適度なユーモアを挿入して人物像を広げることにも抜かりはない。店の“仕事部屋”に小物を持ち込んで所帯じみた“自分のテリトリー”にしてしまう大らかさや、テニス・エルボーならぬペ○ス・エルボーで仕事のヴォルテージが落ちたことを根性で克服するあたりは、実に微笑ましく天晴れだ。ラストも予定調和ながら気持ちが良い。クリストフ・ボーカルヌのカメラにより寒色系をメインに捉えられたロンドン・ソーホー地区の風景、ギンズのストイックな音楽が作品を盛り上げる。

 余談だが、ヒロインの友人を演じたジェニー・アガターも若い頃には可愛くセクシーだったが、すっかり年を取ってしまっているのには年月の流れを実感せずにはいられない。ただし、本作では開き直ったようなオバサンぶりを発揮しているのも、M・フェイスフルとは別の意味で感心した。
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「夕凪の街 桜の国」

2007-12-19 06:59:32 | 映画の感想(や行)

 近年行き詰まりの感がある佐々部清監督作品にしては出来は悪くないが、不満も残る。昭和33年の広島を舞台に、事務員として働くヒロインが原爆症により非業の最期を遂げる「夕凪の街」と、彼女の姪が父親(「夕凪の街」の主人公の弟)の不審な行動を追いかける、設定を現代に置いた「桜の国」との“二本立て”構造により、反戦のメッセージをより立体的にしようと腐心した映画である。

 前半の「夕凪の街」は予想通りの展開ながら、主演の麻生久美子の存在感により見応えのあるパートに仕上がった。とにかく彼女の健気で儚げな佇まいが良い。さすが“日本三大薄幸女優”の一人だ(ちなみに、あとの2人は中谷美紀と宮崎あおいである ^^;)。当時を再現した舞台セットなども、低予算ながら「三丁目の夕日」シリーズよりもずっと実体感がある。

 しかし、原作漫画の作者であるこうの史代(私は原作は未読)の基本スタンスだと思われる“原爆は、落ちたのではなく落とされたのだ”という、歴史に正面から向き合うような姿勢は、このパートの終盤にヒロインの口から取って付けたように告げられるのみ。全般的に“難病もの”のルーティンを追っているような感じがして愉快になれない。元ネタの主題を活かすような、別の切り口を模索すべきではなかったか。

 後半の「桜の国」は主役の田中麗奈の体育会系的キャラクターがぴったりハマった“一見ガサツだが、実は純情”という役柄が面白い。友人(中越典子)と共に父親のあとを付けて広島まで旅をするくだりは珍道中よろしく山あり谷ありの展開で飽きさせない。

 ただし、父親の行動が伯母の悲劇をはじめとする原爆の惨禍を再確認する旅であることをヒロインが知った後の、たぶん原作のハイライトであろう“主人公が時空を超えて伯母の辛苦を体験し、なおかつ今の自分を顧みる”部分になってくると、演出者の力量不足かあるいは不慣れなジャンルであるためかどうか知らないが、平板でまったく盛り上がらないのは痛い。ここはもう少し頑張って欲しかった。

 藤村志保や吉沢悠など他のキャストも好調。しかし「桜の国」の父親役が堺正章で、これが「夕凪の街」での伊崎充則の後年の姿というのは納得できない。ひょっとしたら「桜の国」の時制に達する前にキャラクターが変わってしまうほどの出来事があったのかもしれないが(笑)、互いにまるで持ち味の違う俳優であり、繋がるものがないのだ。いまひとつキャスティングの詰めが必要だったと思われる。
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「ユマニテ」

2007-08-30 06:51:47 | 映画の感想(や行)

 (原題:L'Humanite)99年のカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞したブリュノ・デュモン監督作品。主演のエマニュエル・ショッテとセヴリーヌ・カネルも主演男優賞と女優賞を受賞。

 たぶん何の予備知識もなくこの作品に接したならば誰でも“暗くて長くて退屈な映画”だと思うはず。しかし前項の「ジーザスの日々」とセットで観ると主題が明確に浮かび上がってくる。「ジーザスの日々」が“イエスが降臨しても救えないであろう世界”をミクロ的に描いたのに対し、この作品は“降臨したイエスが世界を救えず立ち往生する様子”を具体的かつマクロ的に描いているのである。

 そのイエスとは、フランスの田舎町で起きた幼女殺人事件を捜査する主人公の刑事である。それは美術館で彼がキリストの生誕と殉教の絵の間に立っているシーン、そして空中浮揚するかのごとく荒野を一睨する場面等で明示されている。彼と女友達との間柄は、キリストとマグダラのマリアとの関係を表しているのだろう。彼は有能な警官には見えないが、捜査の途中で出会う人々の心の痛みを共有し、抱きしめて慰めることが出来る。しかし、それ以外は何も出来ない。被害者の遺族や精神病院の看護人の苦悩がわかっていても、彼はただ涙を流すばかり。そして真犯人の心も救えない。

 ここにはアンドレイ・タルコフスキー監督の傑作「サクリファイス」のように、自分を犠牲にして世界を救おうとするような殊勝な登場人物は出てこない。それどころか劇中で頻繁に出てくる教会にさえ誰も(主人公でさえ)足を運ばない。すべてが腐って沈んでいくだけだ。宗教の無力性と神の不在。どうしようもない人間たちを前に、降臨したイエスは哀しみと諦念を胸に佇むだけである。

 絵画的な画面構成、そして自然の風景の素晴らしさは相変わらずで、それだけに荒涼とした登場人物の内面が強調される。「ジーザスの日々」と同じく観ていてちっとも楽しくない映画だが、作者のシビアな問題提起がいつまでも尾を引き、その点がキリスト教人種(欧米人)に評価されたのだろう。ただし、考えようによっては作者の独善に過ぎないのかもしれないけどね。
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「約束の旅路」

2007-08-07 06:46:14 | 映画の感想(や行)

 (原題:Va, vis et deviens)80年代前半、身分をユダヤ人と偽ってスーダンの難民キャンプからイスラエルへ移送されたエチオピア人の少年の、そこでの苦悩に満ちた半生を綴る、フランス在住のユダヤ人であるラデュ・ミヘイレアニュ監督作。

 エチオピアに住むソロモン王とシバの女王の末裔とされる人々をイスラエルに呼び戻すという“モーセ作戦”なるムーヴメントがあった事実を、私は不明にも知らなかった。馴染みのない史実に接することが出来るという、これぞ映画鑑賞の醍醐味の一つであろう。彼らは建前上はユダヤ人とされるものの、肌の色の違いは如何ともしがたく、さまざまな差別を受ける。劇中には正当な権利を主張する彼らの動きと共に、少しでもイスラエルの“正調の”ユダヤ教の戒律と外れた者を無理矢理“改宗”させようという、当局側の独善ぶりも容赦なく描出される。

 その中で主人公は人種的な差別と同時に本物のユダヤ人ではないという秘密を隠し持っており、いわば2重のアイデンティティの危機に曝されることになる。この設定は上手い。リベラル派の養父母に引き取られるが、そこの家族と打ち解けるまでに長い時間を要する。持ち前の聡明さを活かして医学部に進み、さらにパレスチナ側との戦闘に衛生兵として参加するものの、それでも自分の居場所は見つからない。

 また“長すぎる春”を婚約者に強いるハメになったり、キブツ(集団農場)での奮闘ぶりが評価されなかったりと、さまざまな困難にぶち当たるが、こうしたシビアな展開にもかかわらず、映画自体は実に面白い。これは波瀾万丈の大河ドラマである。ほとんど全編が“ヤマ場”だ。この演出家は職人監督としての力量をしっかり保持している。

 それにしても、本来人間を幸福に導くためにあるはずの宗教が、救いようのない確執を生み出していることに、あらためて当惑せざるを得ない。主人公はたまたま頭が良かったために逆境の中でも複数の生き方を試すことが出来たが、それ以外のフツーの人々はどう振る舞えばいいのか。ユダヤ人でないために“モーセ作戦”の対象にもならず、今なお難民キャンプで苦況に喘いでいる者達に未来はあるのか。もちろん移民社会が抱える多くの問題だってある・・・・。提起されるテーマはずっしり重い。

 主人公の少年時代と青年時代を演じたモシェ・アベベ、シラク・M・サバハは同じようにアフリカからイスラエルに引き取られたという生い立ちを持つそうだ。そのためか、演技には臨場感がある。さらに養母役のヤエル・アベカシス(イスラエルのトップ女優らしい)の美しさと凛とした存在感にも大いに感じ入った。主題が重大で、かつ観て面白いという本作は、歴史ドラマとして最良の展開を示していると言って良い。鑑賞する価値あり。
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