goo blog サービス終了のお知らせ 

元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「闇金ウシジマくん」

2012-11-10 07:14:52 | 映画の感想(や行)

 怪しげなイベントサークルの主宰者に扮した林遣都の熱演で、何とか最後まで観ていられた。考えていることはデカいけど、本人の資質がまったく伴っておらず、藻掻けば藻掻くほどドツボにハマっていく風采の上がらないアンちゃんを、林は懸命に演じる。特に、打つ手が全て裏目に出るという“貧すれば鈍する”を地で行くような終盤の狼狽えぶりは、一種のスペクタクルと言えよう。

 本人の“器の小ささ”に相応しい結末を迎えるのも、大いに納得してしまう(笑)。ともあれ、林は将来を嘱望される俳優であることには間違いない。さて、本作で林のパフォーマンス以外に何があるかというと、これが実にお寒い限りである。

 真鍋昌平の同名漫画(私は未読)の映画化だが、“原作が人気があるから取り敢えず映像化してみました”みたいな、軽いノリしか感じない。法外な金利で金を貸し付ける闇金業者“カウカウ・ファイナンス”社長のウシジマは、その取り立ても容赦ない。母親のギャンブルでの多額の借金を背負わされた若い女や、イベントサークルで一儲けしようとする青年は、ウシジマと知り合ったばかりに坂道を転げ落ちるように人生の階段を踏み外してゆく。

 ウシジマを演じる山田孝之は外見こそ原作に近いらしいが、血も涙もない高利貸しの凄みが出ていない。肉蝮と呼ばれるイカレた男をはじめ、周囲には暴力の臭いをプンプンさせた連中がたむろしているのだが、そのいずれにも“中身”がない。ただ表面的に取り繕っているだけだ。

 カネに狂わされた人間の愚かさをジリジリと焙り出さないで、いったい何の映画化だろうか。もちんこれは、山口雅俊の演出が手緩いことが大きい。いくら元ネタが漫画だろうが、作品に実体感を付与させるのは正攻法の映画作りである。単に見てくれをハデにするだけでは、茶番にしかならないのだ。

 あと、ヒロイン役の大島優子の演技は、かなりヒドい。大根そのもので、最近の例では「ぱいかじ南海作戦」の佐々木希といい勝負である。母親役に黒沢あすかが扮しているのだが、アクの強い黒沢と並ぶと、その“軽量級”ぶりには情けなくなってしまう。(可愛いけど)とびきりの美少女でもない彼女および彼女の仲間達に、芸らしい芸も身に付けさせないまま人気度ばかりを上げようとする秋元某の遣り口には釈然としないものを感じてしまう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「夢売るふたり」

2012-11-04 06:59:20 | 映画の感想(や行)

 西川美和監督は、結局「蛇イチゴ」と「ゆれる」の2本で“終わって”しまうのではないかという危惧の念を抱いてしまった。斯様に本作のヴォルテージは低い。

 共に九州出身の貫也と妻の里子は東京の下町で小料理屋を営んでいてけっこう繁盛させていたが、ある晩調理場から失火し店は全焼。失意のどん底を味わうハメになる。自暴自棄の日々を送っていた貴也は、ひょんなことで店の常連客だった玲子と再会。酔った勢いで関係を持ってしまうが、それを知った里子は、夫を孤独な女たちに近付けて金を巻き上げる結婚詐欺を思いつく。

 本作の最大の欠点は、ダンナの浮気を知った妻が、どうして夫に結婚詐欺を持ちかけるのか、その理由がほとんど描かれていないことだ。パートナーの不貞に対する“腹いせ”だという解釈も成り立つが、そんなのは“後講釈”に過ぎないだろう。平凡な夫婦が犯罪に走るというイレギュラーな事態に説得力を持たせるには、切羽詰まったシチュエーションの構築が不可欠なはずだが、この映画にはそれがまったく見当たらない。

 そもそも、夫婦の濡れ場を省略したのが間違いだ。文字通り“裸”でぶつかることによって、互いの内面やコンプレックスをジリジリと焙り出すことも可能だったはずだが、ここでは御為ごかし的な妻の自慰シーン程度で事を済ませてしまう。

 さらには、彼女の“思わせぶりだが実は何も語っていない”ような言動が積み重なり、話はどんどん絵空事になるばかり。ならば犯罪ドラマにふさわしいサスペンスの醸成が出来ていたかというと、それもまるで不発。ストーリー面でグッと惹き付けられる箇所は皆無に近い。

 これではイケナイと思ったのか、終盤には思わぬ刃傷沙汰が挿入されるが、これがまあ取って付けたような段取りで失笑するばかりだ。あと気になったのは、貫也と里子が詐欺の相手に選ぶ重量上げの女子選手の扱いだ。女性ウェイトリフターとは面白い設定だが、演じる女優(江原由夏)の演技のカンの悪さも相まって、実に退屈なモチーフにしかなっていない。

 撮り方が平板そのもので、男に縁の無さそうな女の屈折した心情が上っ面しか捉えられていないのだ。とにかく、キャラクターの練り上げ方が足りていない。主演の松たか子と阿部サダヲは熱演だし、鈴木砂羽や木村多江、田中麗奈も悪くないのだが、筋書き自体が盛り上がらないため、いずれも空回りしているように見える。

 ともあれ、西川監督に必要なものはオリジナル脚本をキチンと精査できるスタッフであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「屋根裏部屋のマリアたち」

2012-10-29 06:47:44 | 映画の感想(や行)

 (原題:LES FEMMES DU 6EME ETAGE)出だしは“ユルい”と感じたが、恋愛映画の作り方に長けたフランス作品らしい“肌触りの良さ”が徐々に出てきて、結果的に気持ちよく劇場を後にすることが出来た。

 1962年のパリ。主人公のジャン=ルイは証券会社の経営者だ。息子二人は全寮制の学校に籍を置いているため、一年の大半は妻シュザンヌとの二人暮らしである。長年勤めていたメイドが辞め、代わりにジャン=ルイたちが住むアパルトマンの屋根裏に住んでいる中年女の紹介で、若いスペイン女のマリアが雇われる。

 この屋根裏部屋には彼女だけではなく、スペインから出稼ぎに来ている女たちが集団生活を送っていた。ジャン=ルイは一見屈託のない彼女たちと仲良くなるが、そのことは彼の家庭にも大きな影響を及ぼすことになる。

 前半、主人公と屋根裏部屋の住人たちが触れ合う場面は微笑ましいが、どこか表面的で空々しい印象を受ける。しかし、ここのスペイン人たちはフランコ独裁政権の恐怖から逃れるために、やむを得ずフランスに生活の場を求めていることが分かってくると、作劇にグッと奥行きが付与される。

 隣の国では生きるか死ぬかのシビアーな状況に国民が追いやられているのに対し、地続きの国境線を隔てたこちらでは太平楽に色恋沙汰を謳歌している。この落差の理不尽さが、観る者に粛然とした気分を味合わせる。

 さらに興味深いのは、享楽的な日々を送っているように見えるシュザンヌの造型だ。彼女は地方出身で、社交仲間から少しでも田舎者扱いされることを恐れている。そのため身なりや物腰に細心の注意を払っているのだが、そのことに対して心底疲れているのだ。ジャン=ルイとスペイン女達との付き合いを知って、シュザンヌが本音を見せていくあたりの描き方は上手い。

 監督のフィリップ・ル・ゲイは今回初めて知ったが、ラブストーリーの中に時事ネタを挿入させてスパイスを効かせる腕前は、なかなか達者だ。主演のファブリス・ルキーニは好調。おっとりとした憎めないキャラクターをうまく表現している。マリアの叔母に扮したカルメン・マウラの重量感も要チェックだ。舞台がスペインに移るエピローグは余計かもしれないが、明るいタッチで憎めない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「夢はるか」

2012-05-04 19:33:48 | 映画の感想(や行)
 (英題:Shadow of Dreams)92年中国作品。一般公開はされておらず、私は93年の東京国際映画祭で観ている。舞台は台北。古美術商を営む津津(シルヴィア・チャン)は父仁樂(リー・シュエチェン)の奇行に悩まされていた。ボケ始めた父は過去の幻影を見ていたのだ。

 40年前、父は天津の舞台に立つ漫談家で、芸人仲間の童水珠(シルヴィア・チャンの二役)と愛し合っていたが、一緒になることができなかった。仁樂は天津に行き、義兄弟の元警官と老給仕の家に泊まり、かつてその舞台に立った演劇喫茶を訪ねたりする。津津が心配して天津にやってくるが、元義兄弟の二人はなんとか仁樂に正気を取り戻してもらおうと、彼がトリを務めるはずだった最後の舞台を再現しようと試みるのだが・・・・。

 冒頭、台北の街の雑踏と昔の演芸場の様子がオーヴァーラップされるタイトルバックにまず驚かされる。サウンドも同様で、過去と現在の音がコラージュのように貼り合わされる。この手法はまるでTVのドキュメンタリー番組のような処理だなあと思っていたら、監督のルー・シャオウェイはTV界の出身である(映画はこれがデビュー作)。だからということでもないのだろうが、物語は実にソツがなく、破綻もなく進む。

 古いレコードを手に入れて以来の仁樂のボケの進行、そのため夫との仲も悪くなり、途方に暮れているところへ都合よく父の元友人が出てくる。舞台を再現する場面では、過去と現在、現実と幻想を交錯させて描くのだろうと思っていると実際そうである。津津は水珠の娘であろうと予想したらやっぱりその通りであった。

 殺伐とした台北と人情にあふれる天津を対比させて描くのも予定通りで、すべてが和解したラストは台北も温かい街に変貌している。そこで台湾人と大陸に残る人々の相克をからませるのも忘れない。なんというか、ここまで予定調和で来られると、まさによくできたTVドラマを見るようで、居心地がよくないことも確かである。

 キャストは皆好演。技術的にも申し分ない“良心作”だが、ハラハラさせる展開や予想を裏切るドラマ運びは最後まで見られない。国際映画祭の出品作としては物足りないためか、終映後の拍手もまばらだったことを覚えている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「夢二」

2011-12-14 06:33:18 | 映画の感想(や行)
 91年作品。「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」に続く鈴木清順監督の“浪漫三部作”の追尾を飾るという作品だが、いまいち物足りない出来である。

 大正時代、金沢で駆け落ちを約束した恋人を待つ竹久夢二は、隣りの村で妻と妻の愛人を殺した男が山へ逃げたという噂を聞きつける。それはさしおいて、くだんの恋人はとうとう現れない。アーティストとしての行き詰まりにも悩まされていた彼は、湖畔で人妻に出会う。

 例の殺人犯が殺した男の妻だと名乗る彼女は、夫の遺体が湖から上がるのを待っているのだという。彼女と逢瀬を重ねる夢二だが・・・・といった筋書きにあまり意味はない。いつもの無手勝流の“清順ワールド”が続くだけだ。

 何より通常場面と幻想場面の境目がハッキリし過ぎており、作劇の底が見えてしまうのは痛い。その幻想場面にしても、他の二作と比べるとイメージの広がりに欠ける。主演の沢田研二はまあいいとして、女優陣が弱体気味なのは痛い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「誘拐犯」

2011-06-22 06:27:33 | 映画の感想(や行)
 (原題:The Way of the Gun)2000年作品。無法者二人組が大富豪が雇った代理母を誘拐。ところがこの金持ちは暗黒街の顔役でもあった。刺客を放って二人を追い詰め、アクションが展開する。脚本家出身のクリストファー・マックァリーの初監督作だ。

 マックァリーは「ユージュアル・サスペクツ」のシナリオを手がけたことで知られているが、今回に限ってはこれは素人の仕事だ。まったく映画になっていない。特にキャラクター描写のいいかげんさと支離滅裂なドラマ運びは怒りを通り越して情けなくなってくる。不思議なことに脚本はポール・ラドフォードなる別人が担当している。どうしてマックァリー自身が書かなかったのか、釈然としない。

 ベネシオ・デル・トロやジェームズ・カーンなどの曲者たちも、やることがなくて手持ちぶさたの様子。サム・ペキンパーを意識したというメキシコ・ロケも白々しい。いずれにしろ、金を取って見せるシロモノではない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「八日目の蝉」

2011-05-21 07:19:01 | 映画の感想(や行)

 なかなかの力作だとは思うが、重大な欠点がある。それは、男性の描き方が淡泊に過ぎることだ。妻がいる男の子供を身ごもった希和子は出産をあきらめ、しかし思い余って男の家に忍び込み、女の赤ん坊を誘拐して逃亡。4年後にその子・恵理菜は家に帰されるが、彼女が成長して大学生になると、またしても家庭を持つ男の子供を妊娠してしまう。

 要するに本作のヒロイン二人は“身持ちの悪い女”なのだが、当然のことながら責任は彼女たちだけにあるのではない。避妊することも考えず不用意に孕ませた男の側の態度は、指弾されてしかるべきだ。ところがこの映画は、男の責任をほとんど追及していない。

 ダンナに浮気された妻の攻撃は、いい加減な夫ではなく希和子の方に向いてしまう。恵理菜の交際相手に至っては、劇中で姿を消す有様だ。もちろん、彼女たちが“男には非はないし、だいたい男なんて種付けの役割しかない”と割り切るのは勝手だ。しかし、一般世間ではそんなのは通用しない。スキャンダルが発覚すれば、浮気した男は容赦なく吊し上げられる。

 そもそも認知および親権の扱いはどうするのか。本人達の意向には関係なく、そういう“型にはめる”ような在り方を要求してくるのが世の中というものだ。それらをネグレクトして“母性とは何か”などといった抽象的な事象に拘泥してもらっても、こちらは困惑するだけである。

 さらに、強引すぎる設定を何とか言い繕うためか、希和子の逃げ込み先にカルト宗教のコミューンのような場所をセッティングしている。これはいくら何でも御都合主義ではないのか。仰々しい割に“駆け込み寺”としての存在価値しかないこの教団の描き方は、作者の宗教に対する斜に構えた姿勢の現れかもしれないが、正直取って付けたような印象しかない。

 しかし、以上のような不行き届きが散見されるにもかかわらず見応えがあるのは、キャストの頑張りに尽きる。希和子に扮する永作博美は、彼女の映画での仕事ではベストだ。屈折した母性がその張りつめた表情から迸る様子は圧巻といえよう。恵理菜を演じる井上真央は頑張っている。他の同世代の若手女優と比べれば役柄を余裕で引き寄せるようなオーラには欠けるが、精一杯努力してキャラクターを自分のものにしている。敢闘賞ものだ。

 余貴美子や市川実和子、風吹ジュンなどの実力派が持ち味を遺憾なく発揮し、田中泯は素晴らしい存在感でドラマを引き締める。そして主演の二人以上に良かったのが小池栄子だ。子供の頃のトラウマのおかげでコンプレックスの塊のような人生を歩んできたルポライターという、ヘタすればクサくて見ていられなくなるような役柄を、渾身の演技で実体化させている。今年度の助演女優賞候補となるべきパフォーマンスだ。

 成島出の演出は粘り強く、最後まで観客を引っ張り回すだけのパワーがある。藤澤順一のカメラによる美しい映像(特に小豆島の風景)も要チェック。音楽は安川午朗が担当しているが、挿入曲のジョン・メイヤーの「Daughters」が効果を上げている。とても諸手を挙げて評価出来るような作品ではないが、観て損はないとは思う。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「焼け石に水」

2011-04-24 06:51:23 | 映画の感想(や行)
 (原題:Gouttes d'eau sur Pierres Brulantes )2000年作品。70年代のドイツ。ホモの中年男に誘われて同棲生活を始めてしまった青年と、彼の婚約者アナ、性転換して女性になった中年男の元“恋人”との奇妙な四角関係を描くフランソワ・オゾン監督作品。

 部屋から一歩も外に出ないカメラや4人しかいない登場人物、フランス語映画なのに舞台をドイツに置いている点などから、エキセントリックな密室劇を狙っていることはわかるが、印象に残ったのは主演のベルナール・ジロドーのアクの強さとリュディヴィーヌ・サニエの巨乳のみ。映画としてさっぱり面白くない。

 この頃のフランソワ・オゾン監督には、娯楽映画作りにおける良い意味でのケレンが全くなく、意図的にストイックな作風に振ろうとしているものの、見事に画面が空回り。上映時間は90分と短いはずなのに、中盤眠くてしょうがなかった。脚本を書いたライナー・ヴェルナー・ファスビンダーが絶好調時に監督していれば、もっとインパクトのある映画に仕上がっていただろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ヤコブへの手紙」

2011-03-06 06:40:15 | 映画の感想(や行)

 (原題:POSTIA PAPPI JAAKOBILLE )上映時間が1時間強程度の小品だが、感銘度はかなり高い。テーマの普遍性とそれをフォローする内面描写の確かさにおいて、今年度公開されるヨーロッパ映画のひとつの収穫になることは間違いないだろう。

 70年代のフィンランドの寒村。重罪を犯して12年ものあいだ収監されていた中年女性レイラが、恩赦によって出所することになる。ただし、それは盲目の老牧師ヤコブの家に住み込みで働くことが条件だ。彼女に与えられた仕事は、目の見えないヤコブのために手紙を読んで代返することだ。彼の元には全国の信者から悩みの相談が寄せられ、彼らのために祈ることが使命だと思っている。

 ところが、ある日突然手紙がまったく届かなくなる。郵便配達夫が手抜きをしているのかと疑ってもみるが、どうやら本当にヤコブへの手紙は途絶えてしまったようなのだ。他の者達を導くことに生き甲斐を見出していた彼にとって、これは重大なアイデンティティの危機である。しかし、これをきっかけにヤコブは自分の置かれた立場と、本当にやるべきことを知ることになる。

 ひとことで言えば、本作の主題は“人間はひとりでは生きられない。同等の立場で愛し愛される他者が必要なのだ”ということだ。寄せられた手紙に返事を書くことは、コミュニケーションの形を成しているようでいて、実質はそうではない。悩みを聞いて、それに対して自分が“祈ってやる”という、一方通行の情報伝達だ。いわばドライな需給関係である。信者がヤコブ以外の悩みの捌け口を見つけてしまえば、彼には用はないのである。

 人のために祈っていると思っていたのだが、実は自分の職務を全うするための“手段”に過ぎなかった。ならば彼に残されたものは何か。身近にいる生身の人間しかいない。それがレイラだ。彼女は当初ヤコブに反目する。煙たく思って手紙を勝手に捨てることもあった。だが、次第にヤコブの立場を理解するようになる。

 レイラも取り返しの付かない過ちによって人生の貴重な時間を刑務所の中で浪費している。彼女はヤコブに会うことにより本当の苦悩を打ち明ける相手を見つけ、ヤコブは手紙の字面だけではない本物の他者と向き合うことになる。

 この構図が明らかになる終盤の展開は、本当に感動的だ。いくら信仰が大事だといっても、その信仰の力はリアルな人間の感情と行動によってしか実体化しない。信仰の何たるかを知ったヤコブには悟りの境地が、レイラには希望が与えられる。

 ヤコブ役のヘイッキ・ノウシアイネンとレイラに扮するカーリナ・ハザードの演技は素晴らしい。登場人物は実質この二人しかいないのだが、映画を支えるだけの密度の高いパフォーマンスを披露している。クラウス・ハロの演出は簡潔で力強い。これが4本目だということだが、他の作品も観てみたいものだ。そして映し出されるフィンランドの自然の風景は痺れるほどに美しく、作品の格調高さに貢献している。まずは必見の佳編と言って良いだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「洋菓子店コアンドル」

2011-02-16 06:36:10 | 映画の感想(や行)

 主人公のキャラクター設定が出色だ。観る者にとって良くも悪くも“共感”できる人物像を創造しており、ここを押さえておけば映画も八割方は成功したようなものだ。多少ドラマ運びにモタつきがあってもほとんど気にならない。

 本作のヒロインである臼場なつめは、ケーキの修業をすると言って東京へ向かった恋人を追い、鹿児島から上京。しかし彼氏は働いているはずだった都内で評判の洋菓子店「パティスリー・コアンドル」をあっさりと辞め、別の店に行ってしまったらしい。途方に暮れたなつめは、コアンドルで働かせて欲しいと頼み込む。

 実は彼女はケーキ屋の娘であり、少しは腕に覚えがある・・・・はずだったが、試作品をコアンドルの店長からボロクソにケナされる。ところが帰り際に店長から勧められたコアンドルのケーキを味わい、その美味しさに感動した彼女は、ゴリ押し的に見習いとしてコアンドルに居着いてしまう。

 ハッキリ言ってなつめはどうしようもない人間だ。幼馴染みの彼氏を勝手に“恋人”だと思い込むのをはじめ、コアンドルに勤務するのを“当然の権利”だと決めつけ、果ては同僚を“彼氏をいじめて追い出した奴だ!”と断定する。また、店の食材を自分の練習用に流用することなど屁とも思わない。

 しかし、彼女は決して不快な人物として扱われないし、観ている側もネガティヴな印象は受けない。それは、誰もが持っている自分勝手さや了見の狭さをリアルに表現しているからだ。さらに、映画はそのマイナスイメージをプラスに転化させる“処方箋”をも提示してくれる。それは底抜けにポジティヴな物の見方と、呆れるほどの活力だ。イヤなことがあっても絶対に逃げない。どんどん目標に向かっていって、それが結果的に相手の内面を開かせてしまう。そこで初めて彼女は“他人の立場”というものを知っていくことになるのだ。

 なつめを演じる蒼井優はさすがの演技力で、この猪突猛進型のヒロインを実体化させている。ちょっとした表情や仕草などで、主人公の心の動きをヴィヴィッドに表現しているのには舌を巻くしかない。

 それに比べれば江口洋介扮する“伝説のパティシエ”の造型は在り来たりだ。クライマックスも晩餐会の献立ではなく、件の“彼氏”とのケーキ作り対決にでもしておいた方が盛り上がっただろう。しかし、なつめの絶妙なキャラクター設定と蒼井の達者なパフォーマンスを目の当たりにすれば、どうでもいい気になってくる。

 深川栄洋の演出は愚作「白夜行」とは打って変わった手堅いものだ。ラストシーンの扱いなどは見事。どちらがこの作家の持ち味なのか、しばらくは静観したい(笑)。そして劇中に出てくるケーキ類は実に美味しそうで、甘党の私にとってはそれだけで入場料の元は取れたような感じがした。また、入場する際にもらったクッキーの詰め合わせも悪くない(^^)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする