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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「BeRLiN」

2022-02-25 06:33:18 | 映画の感想(英数)
 95年作品。映画としての質は評価するに値しないレベルだが、製作された頃の時代の雰囲気とヒロイン役の女優の魅力により、何とか記憶に残っている作品だ。また、印象的なセリフがあり、それだけでも存在価値はあるだろう。監督の利重剛は、なぜか本作で95年度日本映画監督協会新人賞を受賞しているが、これも“時代の空気”のなせる技だと思う。

 某放送局の撮影クルーは、風俗業に関するドキュメンタリー番組を制作していた。彼らがネタとして採用したのは、キョーコと名乗るホテトル嬢だ。彼女は風俗店に1年半ほど在籍した後、突如として姿を消した。しかし、彼女を慕う者は意外なほど多い。取材中に撮影班はキョーコが住んでいたアパートに張り込むが、そこに現れたのは鉄夫という青年だった。彼はキョーコと一緒に住んでいたが、数ヶ月前に彼女は出て行ったという。鉄夫もまた、キョーコを忘れられない男の一人だった。何とか彼女を見つけ出そうとする撮影スタッフの奮闘は、いつしか番組制作会社の社長まで巻き込んでいく。



 まず、どうして登場人物たちがキョーコを追い求めるのか、さっばり分からない。彼女は“壁”のかけらが入っているという袋をお守りのように首から下げていたというが、それが何らかのメタファーになっているわけでもない。そもそも数多い関係者へのインタビューを経ても、キョーコの具体像が一向に見えてこないのには閉口した。

 後半に映し出される鉄夫とキョーコのアバンチュールみたいなくだりも、描き方が弛緩していて退屈極まりない。それに、取材を受ける面子が石堂夏央に大島渚、岡村隆、鴻上尚史、松岡俊介、福岡芳穂など不自然なほど多彩な顔ぶれであり、疑似ドキュメンタリーとしての妙味がスポイルされてしまった。

 ただし、このワケのわからない曖昧なものを漫然と追いかけ、そうすることによって何とかなるだろうといった、不確実な楽観性は90年代の雰囲気をよくあらわしている。当時はバブルが崩壊して世の中全体が沈静化していた頃だ。それでも前向きになれる物があるはずだといった、アテにならない願望だけはあった。この映画のキョーコの存在、そしてフワフワとした思わせぶりな映像は、まさにその感覚だ。しかし、しばらくすると儚い期待は打ち破られ、真に衰退に向かって行くことになるのは皮肉なものである。

 キョーコに扮した中谷美紀はこの年に映画デビューしており、そのフレッシュな魅力は忘れがたい。ただし永瀬正敏にダンカン、山田辰夫、あめくみちこ、萩原聖人といった他のキャストは精彩を欠く。撮影は篠田昇だが、どうも小綺麗な展開に終始しているようで、訴求力は万全ではない。
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「F エフ」

2022-01-30 06:17:56 | 映画の感想(英数)
 98年作品。金子修介監督作品としては珍しいラブコメで、観る前は若干の危惧があったが(笑)、実際に接してみると良く出来たシャシンだと思った。設定は面白く、各キャラクターは適度に“立って”おり、何よりキャスティングが秀逸だ。そこに金子監督らしい超ライトな感覚が散りばめられている。昨今は乱造気味のラブコメものだが、本作ぐらいのレベルは確保してほしいものだ。

 OLの荻野ヒカルは、中学時代からの友人である久下章吾と惰性で付き合っていた。章吾は決して悪い人間ではないが、少しも胸がときめかない。まさに彼女の恋愛スキルはFランクだ。ある日、ヒカルは謎めいた男と出会う。愛想のよくない彼に、ヒカルは勝手に“F”というあだ名を付けてしまう。数日後、ヒカルが偶然聴いていたラジオ番組に、その男がディスクジョッキーとして出演していることに驚く。



 実はその男は英国ロイヤルバレエシアターで日本人としては初めてプリンシパルになった古瀬郁矢で、ケガで帰国して療養期間のみ“F”と名乗りラジオの仕事を引き受けていたのだった。そんなことを知らないヒカルは、ペンネームで彼の番組にハガキを送る。すると“F”はヒカルに愛の告白をしてしまい、番組は大反響を巻き起こす。鷺沢萠の小説「F 落第生」の映画化だ。

 ヒロインが偶然知り合った相手が著名なバレエダンサーだったというくだりは荒唐無稽のように思えるが、金子監督の“事実をマンガっぽく描く”という得意技が炸裂し、違和感が無い。ラジオを通じてのやりとりもセンスが良く、さらにはヒカルの偽物まで出現するようになって、コメディ的興趣は増すばかり。

 郁矢に扮するのは熊川哲也で、これが映画初出演。いかにも高慢で鼻持ちならないキャラクターながら、ラジオパーソナリティとしてのパフォーマンスは舌を巻くほど上手い。また内には純情な面も覗かせ、ヒカルが惹かれるのも無理はないと思わせる。割を食ったのが章吾で、彼のようなマジメで端から見れば申し分ない男でも、ロマンティックな要素が無ければ恋を成就させることは難しいという“絶対的真実”を体現させていて圧巻(?)である。

 演出はテンポが良く、最後まで弛緩することは無い。ヒカル役の羽田美智子と章吾を演じる野村宏伸も、いかにも当時のトレンディ俳優(苦笑)らしくライトでスマートな出で立ち。村上里佳子に戸田菜穂、阿部サダヲ、高田純次さらには久本雅美と、二の線と三の線とを巧みにブレンドした配役も光る。
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「GUNDA グンダ」

2022-01-28 06:33:48 | 映画の感想(英数)
 (原題:GUNDA )何とも形容しがたい映画だ。巷では絶賛している向きが多いらしい。しかしながら、個人的には何ら感慨を覚えなかった。わずか93分の尺ながら、観ている間はとても長く思える。とはいえ、作者が主張したい(らしい)ことは分かる。だが、それはこちらには伝わってこない。つまりは“立場”の違う人間が作るものは受け付けないという、シンプルな結論があるだけだ。

 舞台はとある農場。母ブタが生まれたばかりの子ブタたち(約10匹)に乳をやっている。やがて子ブタたちは少し成長し、外で散歩するようになる。好奇心旺盛で絶えず動き回る子ブタたちの世話で、母ブタは疲れ果ててしまう。それでも、面倒を見ることを忘れない。だが、ラスト近くでは思わぬ運命が彼らを待ち受ける。全編モノクロのドキュメンタリーで、ナレーションも音楽も無い。監督はビクトル・コサコフスキーなる人物だ。



 ブタ小屋内の描写など、よくもまあ撮影できたと思われるほど凝ってはいるのだが、それ自体あまり訴求力は無い。ブタ以外の、ニワトリや牛の姿の捉え方も粘り強いのだが、観ていて面白くはない。肝心の終盤の処理はドラマティックではあるのだが、よく考えれば“しょせん家畜だし”という認識で終わってしまう。

 これがもし野生生物ならば盛り上がるところだが、人間に飼われているブタでは“想定の範囲内”の結末でしかない。つまりは単なる農場のスケッチだ。そもそも、ブタ以外の描写は余計であるように思う。対象を絞って1時間程度にまとめれば、もっとタイトな仕上がりになったはずだ。

 さて、製作総指揮にホアキン・フェニックスが名を連ねていることからも、本作の狙いが透けて見える。彼は筋金入りのベジタリアンなのだ。そういうイデオロギーからの視点では、なるほどこの映画の“筋書き”も納得できるものがあろう。作者は“ヴィーガンの立場から作ってはいない”と言っているらしいが、あまり説得力は感じられない。
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「189」

2022-01-10 06:15:36 | 映画の感想(英数)
 惜しい作品だ。かなり重大なテーマを扱っていることは分かるが、如何せん映画の質が追いついていない。お手軽なラブコメやテレビドラマの焼き直しのような安易に企画に走るよりも、今の邦画に必要なのはシビアな題材を良質なエンタテインメントとして昇華できるようなプロデューサーなのだと思うが、残念なことに見当たらない。このままでは韓国映画なんかには永遠に追いつけないだろう。

 東京都多摩市の児童相談所に勤務する坂本大河は、虐待対策班で働く新任の福祉司だ。シングルマザーの母親の虐待から保護していた4歳の女の子が、理不尽な理由で親元に返される現場に立ち会うことになるが、翌日にその子は母親から殺害されてしまう。ショックを受けた大河は仕事を辞めようとするが、そんな時に父親に虐待を受けた6歳の少女が病院に搬送されたとの連絡を受ける。父親は娘への暴力を否定するが、この事件には一筋縄ではいかない背景があった。大河は顧問弁護士の秋庭詩音とともに、この父親の親権を停止するために奔走する。



 タイトルの“189”とは、児童相談所虐待対応ダイヤルのことで、2019年から運用されている。本作は厚生労働省から推薦を受けており、明らかにそのことを啓蒙する目的で作られているのだが、どうも教条的な面が勝ちすぎて居心地が悪い。モチーフを補足するために説明的なセリフが必要なのは分かるが、その扱い自体に面白味が無いし、何やら“解説してやっているのだ”という雰囲気が充満している。

 しかしながら、児童虐待問題に関する深刻な状況が紹介されているのは評価したい。法も行政も子供を守るには不十分で、救える命も救えなかったりする。特に前近代的な業務システム(データが各児相で共有されていない!)と、慢性的な人手不足を目の当たりにすると、暗澹とした気分になってくる。公的セクションを削減して住民サービスを低下させることを“身を切る改革”などと持て囃す風潮には、嫌悪感しか覚えない。

 映画は娯楽性を加味しようとするためか中盤からサスペンス仕立てになってゆくが、中身はテレビの刑事ドラマ並みの凡庸なもの。別の御膳立てを考えた方が良かった。加門幾生の演出は可も無く不可も無しといったレベルで、ここ一番の踏ん張りが効いていない。

 主役の中山優馬は熱演で、共感を呼べるような人物像になっていた点は良かった。詩音を演じた夏菜も頑張ってはいたのだが、弁護士には見えないのは痛い(苦笑)。前川泰之に灯敦生、平泉成、吉沢悠といった脇の面子はよくやっていたと思う。また、お笑い芸人のコロッケが本名の滝川広志で出ていたのには驚いた。
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「007/ノー・タイム・トゥ・ダイ」

2021-11-07 06:58:00 | 映画の感想(英数)
 (原題:NO TIME TO DIE)これは、断じて「007」シリーズではない。主人公も、皆がよく知っているジェームズ・ボンドではなく、“別の誰か”に成り果ててしまった。この長い連作が積み上げてきたレガシーを、すべて捨て去ったような所業だ。もちろん、創造的破壊という言葉があるように、停滞するシリーズに代わり新しい“何か”が登場するダイナミズムを予感させるのならば、それで良い。しかし、本作には先が全く見えないのだ。まさに“破壊して終わり”の様相を呈している。

 前作で宿敵スペクターを片付けた後、引退して妻のマドレーヌと悠々自適の生活を送っていたボンドのもとに、古くからの友人でCIA局員のフェリックスが訪ねてくる。謎の大量殺戮兵器を開発した科学者が誘拐されので、手を貸して欲しいというのだ。この一件には古巣のMI6も捜査に乗り出しており、ボンドの後任のエージェントが介入してくる。そして事件の黒幕は、マドレーヌの生い立ちに大きく関係しているという。ボンドは再び戦いの場に身を投じる。



 まず、主人公が最初から妻帯者として出てくるのはマイナスだ。もっとも、ダニエル・クレイグが主役になってからボンドの軟派なプレイボーイとしての側面は薄れているが、今回はあまりにも所帯染みているので観ていて居心地が悪い。そして、事件のポイントである新兵器の正体がハッキリしない。

 人体に侵入するナノマシンという触れ込みだが、具体的な仕様(?)は明らかにされないまま、特定の誰かを感染死させるという“効用”のみがクローズアップされる。しかし、これは単なる殺人の道具に過ぎず、世界征服のツールには成り得ない・・・・と思っていると、いつの間にかボンドも“感染”した挙げ句に意味不明の展開に終始。そもそも、敵の首魁のポリシーというか、彼が何を目標にしているのかイマイチ分からない。

 期待されたアクション場面は、序盤のイタリアでのカーチェイスこそ盛り上がったものの、あとは総じて低調。終盤近くの銃撃戦など、緊張感の欠片も無い。キャリー・ジョージ・フクナガの演出は冗長で、メリハリの無いまま2時間40分も引き延ばしており、中盤以降は眠気との戦いに終始。

 そして何といっても、これまでシリーズの中で重要な役割を担っていた人物や組織が軒並み退場したのには面食らった。極めつけはラストの処理で、これは何かの冗談かと思ったほどだ。エンドクレジットでは続編の製作が告知されているものの、この状態ではどうしようもないだろう。ここ数作は“無かったもの”として、新たにリブートするしかない。

 レイフ・ファインズやナオミ・ハリス、レア・セドゥ、ジェフリー・ライトといった顔ぶれは、作品自体の覇気が無いためかマンネリに見えてしまう。悪役のラミ・マレックも精彩を欠く。印象に残ったのはキューバのCIA局員に扮したアナ・デ・アルマスぐらいだ。なお、史上最年少でこのシリーズの主題歌を担当したビリー・アイリッシュの仕事ぶりは秀逸。今後もチェックしたいミュージシャンだ。
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「MINAMATA ミナマタ」

2021-10-25 06:23:00 | 映画の感想(英数)
 (原題:MINAMATA)大きな求心力を持つ映画だ。正直言って、観る前は期待していなかった。日本を題材にしたアメリカ映画だから、ハリウッド名物“えせ日本”が満載の、かなり盛り下がるシャシンではないかとの危惧があったからだ。だが、それは杞憂に終わった。これほどまでに社会問題の核心に迫った作品は、そうあるものではない。それどころか、どうしてこの題材を正面から取り上げた劇映画が日本で出来ないのか、不思議に思うほどだ。

 1971年、かつて写真家として名を成したユージン・スミスは、フランチャイズにしていた“ライフ”誌も辞め、酒に溺れる日々を送っていた。ある日、スタンフォード大学の学生アイリーン・スプレイグから、熊本県水俣市で発生している公害病を取材して欲しいとの依頼を受ける。現地に赴いた彼が見たものは、水俣病患者の苛烈な状況や激しい抗議運動、そして有害物質を垂れ流すチッソ工場の横暴ぶりだった。ユージンは果敢にシャッターを切り続けるが、そんな彼を面白く思わない工場側は、実力行使に打って出る。写真家ユージン・スミスとアイリーン・美緒子・スミスの水俣での活動を追った実録ドラマだ。



 ストーリーは必ずしも事実に沿っているわけではないが、手堅くまとめられている。描き方はまさに正攻法。言葉を失うほどの水俣病の惨禍。過ちを認めない資本側と、それに対抗する市民たち。そしてユージンたちと地元の人々との交流。フォト・ジャーナリズムの有効性。それら以外にいったい何を描く必要があるのかという、作者の強い意志が感じられる。

 映画は裁判の結果と、有名な“入浴する智子と母”の写真撮影まで、一点の緩みも無く進む。水俣で撮影出来なかったのは欠点だが、ロケ地の東欧の荒涼とした風景は作品のカラーに良く合っている。なお、エンディングで2013年における当時の安倍首相の“水俣病を克服した”というコメントの欺瞞性を取り上げているが、エンドクレジットに映し出される世界各地の環境破壊の画像は、大資本が庶民を踏みつぶしてゆく構図が現在も変わっていないことを訴える。

 アンドリュー・レヴィタスの演出は力強く、画面の隅々にまで気合いがみなぎっている。製作も務めた主演のジョニー・デップはイメージチェンジして力演を見せている。今後彼は、年相応の渋い役柄に次々と挑戦してゆくのだろう。真田広之に國村隼、加瀬亮、浅野忠信、青木柚、ビル・ナイといったキャストはいずれも的確な仕事ぶり。アイリーンを演じる美波はとても魅力的だ。坂本龍一の音楽は彼の代表作となることは必至。ただし、主人公たちが乗る列車が当時のものではなくJR車両だったのは、まあ仕方が無い。
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「17歳の瞳に映る世界」

2021-08-22 06:58:07 | 映画の感想(英数)
 (原題:NEVER RARELY SOMETIMES ALWAYS )まったく面白くない。とにかく、主人公の造形が共感度ゼロで嫌悪感しか覚えない。こんなのがスクリーン上をウロウロしているだけで不愉快な気分になってくる。展開は無駄に遅く、それでいて大事なことは描かれていない。映像面でも見るべきものはなく、映画として存在価値があるのか甚だ疑問だ。

 冴えない17歳の高校生オータムは、ある日自分が妊娠していることを知らされる。ところが彼女の住むペンシルバニア州の田舎町では、両親の同意がなければ中絶手術は不可である。アルバイト仲間である従妹のスカイラーはオータムの身を案じ、2人で両親の同意なく妊娠中絶手術が受けられるニューヨークに向かう。



 オータムを妊娠させた相手は誰なのか、そこに至った過程はどのようものなのか、それらは詳説されない。もちろん作劇上の必然性があればカットしても構わないのだが、オータムの中絶に対する考え方を挿入せざるを得ない以上、省略するのは禁物だ。オータムは地味な性格で友人もいないにも関わらず男性関係はけっこう盛んのようで、今までの交際相手の数を平気で打ち明ける。ということは、周りの男子にとって彼女は“便利な相手”でしかなく、もうそのあたりからこのヒロイン像は敬遠したくなる。

 さらにはオータムは中絶を“軽く”見ており、地元の医者の忠告なんかどこ吹く風で、徹頭徹尾自分の都合しか考えない。それでもこの捨て鉢な態度の背景が描かれていれば文句はないのだが、それは無理な注文だったようだ。スカイラーにしても、バイト先の金を勝手にくすねるような問題児で、こちらも感情移入できない。

 ニューヨークに着いてからの2人の行動は、病院から体よくたらい回しされるばかりでストレスが溜まる。思いがけず手助けしてくれる若い男が出てくるのだが、絵に描いたような御都合主義で失笑してしまった。また、2人の彼に対するスタンスも殺伐としていて愉快になれない。脚本も担当しているイライザ・ヒットマンの演出は冗長で、ストーリーがなかなか前に進まないので不満が募る。かと思えば幕切れは唐突で面食らうばかり。

 それでも見どころをあえて挙げろと言われれば、都市と地方との絶望的な格差ぐらいだろうか。オータムの通う高校の様子は、まるで1960年代。あちこちに廃棄された工場が立ち並び、町の医療レベルは低く医師はいい加減なことしか言わない。まさにラストベルトである。主演のシドニー・フラニガンとタリア・ライダーは、あまり可愛くないし魅力もない。画面はザラザラとしていて鑑賞意欲を削がれる。
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「1秒先の彼女」

2021-08-09 06:57:35 | 映画の感想(英数)
 (原題:消失的情人節 MY MISSING VALENTINE )中盤まではオフビートな台湾製のラブコメとして進行するが、後半はなぜかファンタジーになってしまう。結果として私が最も苦手とする“ファンタジー仕立てのラブコメ”であったことに脱力した(笑)。もちろん上手く作ってあれば文句は無いのだが、困ったことにこの手の映画にウェルメイドな脚本が付随することは、そう多くはないのだ。

 郵便局で働くシャオチーは、仕事も恋も冴えない毎日を送っているうちに、気が付けば30歳になっていた。実は彼女にはヘンな“能力”がある。それは、何をするにも他人よりワンテンポ早いのだ。それでもハンサムなダンス講師と知り合うことが出来、バレンタインにデートの約束をするも、目覚めるとなぜかバレンタインの翌日になっていた。一日が消失してしまったのだ。一方、毎日郵便局にやってくるバス運転手のグアタイにも妙な“能力”があった。それは常に周囲よりワンテンポ遅いのである。バレンタインの日、彼は自分以外の“時間”が止まっていることに気付く。



 この2人が周囲と約1秒ズレていることを、単なる“変わった癖”と割り切って、おかしな御両人のすれ違いの恋愛道中を面白おかしく描く映画だと思っていたら、何だか無理矢理に辻褄を合わせようと絵空事に走ってしまったようで愉快になれない。つまりは“理詰めにしようとしたら、逆に理屈が飛んでしまった”というパラドックスに陥っているのだ。

 クアタイが体験する時間が停止した世界は、なぜかバスは普通に走るし海の波も風も変化は無い。そもそも、身体が動かなくなったシャオチーをはじめ他の者たちをクアタイが“自由に”移動させているのは違和感が満載だ。加えて言えば、ワンテンポのズレを“清算”するのがどうしてバレンタインデーだったのかも説明されていない。

 終盤の展開はラブコメの常道としてはあり得るのかもしれないが、個人的には取って付けたようにしか思えず脱力した。監督のチェン・ユーシュンは過去に「熱帯魚」(95年)と「ラブゴーゴー」(97年)という大快作をモノしているが、本作ではどうもキレ味に欠ける。

 主演のリー・ペイユーとリウ・グァンティンは好演だが、私が注目したキャストはシャオチーの職場の後輩を演じたヘイ・ジャアジャアである。彼女の本職は女優ではなく、なんとプロの囲碁棋士だ(台湾棋院所属 七段)。しかも、相当な実力者で、棋風は堅実でブレがない。モデル業も順調とかで、多芸多才な人間というのは確実に存在するのだと、改めて思う。
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「Mr.ノーバディ」

2021-07-03 06:21:53 | 映画の感想(英数)

 (原題:NOBODY)とても楽しい1時間半だった(笑)。もっとも、活劇物としての筋書きには目新しさは無い。予定通りに粛々と進んでゆくだけだが、その中に常軌を逸したキャラクターを放り込むことにより、目覚ましい求心力を発揮させている。作劇のテンポやアクション場面の段取りも申し分なく、観て損の無い快作と言える。

 主人公ハッチ・マンセルは、ロスアンジェルス郊外の自宅と勤務先の工場を往復するだけの日々を送る、地味な中年男だ。ゴミを出し忘れたり、妻から軽く見られたりと、その生活はあまり快適ではないように見える。ある日、マンセル家に強盗が押し入る。ハッチはその気になれば撃退出来たが、実力行使には踏み切れず、犯人を逃がしてしまう。

 そんな彼の態度に家族はガッカリするが、ハッチ自身も自己嫌悪に陥り、その腹いせに路線バスで狼藉三昧のチンピラどもを信じられない体術で半殺しの目に遭わせる。実はハッチはかつて“その筋”の大物エージェントであり、今は過去を封印して平凡な市民として暮らしていたのだ。彼がブチのめしたチンピラの一人がロシアン・マフィアのボスの身内であったことから、逆恨みした組織の悪党軍団が大挙してハッチとその家族に襲い掛かってくる。

 一見普通のオッサンが、怒らせたら手が付けられなくなる奴だったという設定のドラマは過去にいくらでもある。例を挙げれば、スタローン御大の「ランボー」シリーズとか、セガール御大の「沈黙」シリーズ、デンゼル・ワシントンの「イコライザー」やトム・クルーズの「ジャック・リーチャー」シリーズなど、枚挙に暇が無い。

 しかしながら彼らは、出来るならば暴力に訴えたくないとは思っており、それが成り行き上暴れ回るハメになるという案配だった。しかし本作の主人公は、密かに機会さえあれば暴れたいと熱望しているあたりが、実にヤバい。マフィアとのいざこざは口実に過ぎず、容赦ない殺戮の嵐に喜悦の表情を見せる。

 ヘタすればサイコ・サスペンスになりそうな御膳立てだが、ハッチ自身には得がたいユーモアのセンスがあり、また相手が殺されても仕方が無いような連中なので、陰惨さは控え目でカラッとした明るさが全編を覆う。しかも、妻はそんな彼の“素性”を知った上で結婚したというのだから、呆れつつも笑ってしまった。イリヤ・ナイシュラーの演出は活劇場面に手腕が発揮され、弛緩することなく見せきっている。

 主演のボブ・オデンカークはあまり知らない俳優だが、昔の渋くて男臭いアクションスターを思わせて好印象。妻役のコニー・ニールセンや、敵役のアレクセイ・セレブリャコフも良い味を出している。そしてハッチの父親を演じるクリストファー・ロイドは、久々に水を得た魚のような活躍を見せる。とにかく、沈んだ日常を一時でも忘れさせてくれるような快作で、アクション好きには無条件で奨められるシャシンだ。
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「FUNNY BUNNY」

2021-05-21 06:24:31 | 映画の感想(英数)
 ストーリー自体は独り善がりで、ほとんど辻褄が合っていない。各キャストの演技も、ワザとらしくてサマにならない。ならば駄作として片付けて良いのかというと、そうとも言い切れない。演劇と映画とを隔てる壁を、無理矢理に突破しようとしている、その意欲だけは買う。

 自称小説家の剣持聡とその親友の漆原聡は、ウサギの着ぐるみに身を包み閉館間際の区立図書館に押し入る。彼らの目的は、図書館に収納してあるという“絶対に借りられない本”を探すことだった。その中に宝の地図が隠してあるという。2人は司書の服部茜と入場者の新見晴を縛り上げ、保管庫を探し回るが見つからない。そこに偶然館内に残っていた遠藤葵が茜と晴を助け出すが、剣持と漆原は侵入した理由を彼らに説明して、あろうことか協力を求めるのだった。



 4年後、駅のホームで線路に飛び込もうとしていた男を、剣持は助ける。その男・菊池広重は茜の大学時代の友人で、かつてはバンドを組んでプロデビューしていた。そこで剣持たちは菊池に前向きになってもらうため、ラジオ局に押し入って電波ジャックを図る。飯塚健(監督も担当)によるオリジナル戯曲の映画化だ。

 いくら閉館時刻とはいえ、広々とした図書館を司書が一人で切り回せるとは思えない。そもそも“絶対に借りられない本”の何たるかを精査しないまま、闇雲にバックヤードを漁りまくるという、剣持と漆原の考えの拙さには閉口する。2人が図書館を襲撃した理由というのも、牽強付会の最たるもので全く共感出来ない。果ては菊池が茜と昔繋がりがあったというのは、御都合主義も良いところだ。

 だが、本作には奇妙な味わいがある。通常、演劇の映画化は舞台特有の雰囲気が映画と合っていないという点が欠陥として指摘されることが多いが、この作品は故意に映画を“舞台劇っぽく”することでブレイクスルーを狙っている。演劇と違って“場面”は多岐に渡っているにも関わらず、舞台劇のテイストを濃厚に焙り出すというのは、一種の“離れ業”と言って良い。別にそれで映画として面白くなるわけでもないが(笑)、手法のプレゼンテーションとしての価値はあるだろう。

 主演の中川大志と岡山天音をはじめ、関めぐみ(久しぶりに見た)、森田想、落合モトキといった出演陣はエロキューションを前面に出してのパフォーマンスに終始する。ただし、菊池が在籍したバンドは“ニルヴァーナの再来”という触れ込みにも関わらず、ニルヴァーナの足元にも及ばない凡庸なレベルで大いに盛り下がった。
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